「恵もさ、高専生になったんだし、一人称『俺』はそろそろやめたほうがいいよ。最低でも『僕』、できれば目上の人には『私』」
かつて自分が言われたことをいつか恵にも教えてあげようと思って、ずっとその機会を楽しみに伺っていた。高専のグラウンドで体術の稽古の休憩中、大した脈絡もなく年上風を吹かせようとした僕を横目に、恵は白けた顔でジャージの肩をすくめた。
「ちゃんと使い分けてますよ、それくらい」
「でも恵、僕には『俺』って言うじゃん」
「アンタは別に……身内だし。とにかく、依頼人とかの前ではちゃんと使い分けてます」
「あら大人〜」
つんつんと頬を突いたのをガキ扱いされたと思ったのか、鬱陶しそうに手を振り払われた。翠色の瞳がじっと僕を見た。
「アンタがそうしてたから、俺もそうしてるだけです」
それから恵はすたすたと歩いて、真希との組手の練習に戻ってしまった。僕って、恵の前で『俺』なんて言ったことあったかな。ずっと昔に変えてから、僕の中では結構気をつけていたはずだった。考えてみたところで特段思い当たる節もなく、再開された稽古をグラウンドの端からぼんやりと眺める教師業に戻る。
しばらくの攻防ののち、恵は素早く繰り出した蹴りを真希に取られて、体勢を崩して地に伏した。変わることのないゼロ勝の記録と、組手の数だけまた増えた黒星に、恵は悔しそうな顔をする。負けたことに変わりはないけれど、動きは以前よりもぐっと良くなったと思う。あの真希相手にだいぶ蹴りが掠るようになってきたのは、最近の僕との稽古のおかげだろう。式神使いはどうしても間合いの詰め方が下手くそで、近接戦が弱点になりやすい。ある程度の呪術の基礎を叩き込んでからは、恵にはなるべく実戦形式で突き蹴りを当てさせるようにしていた。
「はい、じゃあ交代。次はパンダと悠仁ね。真希と恵は互いへの講評が済んだら、グラウンド十周でぇ〜す」
「は?」
「オマエもフィードバック寄越せよバカ目隠し」
恵本人は身体が薄っぺらいのを気にしているようだったけれど、筋肉はもっと身体が出来上がってからつければいい。それよりも一朝一夕では身につかない戦闘センスを磨くのが先だ。
「二人が五分以内に完走できたらね」
「何キロあると思ってんだよ」
本人にこの場で伝えてやるかどうかは別として、さっきの恵の動きは本当に、結構良かった。このあいだ稽古で見せてやったのを、恵のいまの身体能力で可能な範囲で最大限取り入れている。まだまだ伸びしろはあるが、観察眼もセンスも決して悪くない。よく見ていると思う。この前僕にマンツーマンを頼みにきたときは、僕の動きを目で追うばかりでちっとも攻勢に転じないから、やる気がないのかと思ってだいぶ痛めつけてしまったけれど、あれを現時点でここまで吸収できているなら、申し分ないだろう。
その日は高専での稽古と座学で終わり、翌日は一年生三人と僕で、地方での任務が割り当てられた。割り振り時の査定は二級案件だったものの、土地神絡みの可能性が排除できないという補助監督の報告と過去の手痛い事故から、急遽僕が同行することになった。
とはいえ僕が何かするわけでもなく、あとはご自由に、と段取りから何までを三人に任せて、朽ちかけたベンチに腰を下ろした。昔は乗合バスの停車場だったらしいが、それすら廃線となるほどのド田舎だ。観光地も名産品もなければ、僕の出番もない。
悠仁、野薔薇、恵の三人でやるべきことを手際良く洗い出して分担して、恵は近隣住民への聴取担当になった。参考人としてやってきた小さな子供と目線を合わせようとしゃがみ込んでいたけれど、恵はお世辞にも愛想はよくないし、どかりと股をひらいてしゃがむその様は、どう控えめに見積もっても深夜のコンビニの前でガンを飛ばすヤンキーだ。あの子から情報を聞き出すのは、悠仁とかのほうが向いてたんじゃないかな。茶々入れしてやろうと近づいて、ふと聞こえてきた会話に足を止めた。
「怖かったよね。でも大丈夫、僕たちに任せて。僕たちはそのためにここに来たから」
あまりにもらしくない恵の喋り方に、近くにいた野薔薇がものすごい顔をしていた。ちょっとね、それは華の女子高生がしていいものではないな。
「なにあれ、アンタそっくりね」
「僕?」
「身近なお手本がアンタしかいなかったのかしらね。かわいそうに」
「そういえば先生って伏黒と付き合い長いんだよね? けっこう小さいときから知り合いな感じ?」
別の場所で、今回の任務の重要参考人である老夫婦をたらし込んでいた悠仁が戻ってきた。この短時間でどうやって仲良くなったのかはわからないが、耳寄りな証言やこの土地の伝承の話と合わせて、採れたての野菜を腕にたくさん抱えて帰ってきた。先程の老夫婦からもらって、おまけにうちに養子に来ないかとまで言われたらしい。さすが天性の人たらしというところか。
「あれ、恵から聞いてない? 僕、あの子がぴっかぴかの黒ランドセルに背負われてた頃から知ってるよ」
当時はこれくらいだったの、と示した高さは膝くらい。さすがにもう少しくらい身長があったかもしれないが、小学一年生の恵は本当に小さかった。ランドセルを背負ったらお尻どころか太ももまで隠れてしまいそうだった。チビだの生意気だのと指を差して笑ったら恵を泣かせてしまって、怒った津美紀に謝り倒したのが懐かしい。
「普段はつんけんしてるくせにさ、案外泣き虫で、ちょっといじめるとすぐ泣いたんだよね」
「先生だめよ、そんな嘘言っちゃ」
「そうよ、アイツが泣いてるとこなんか見たことないわよ。涙腺干上がってんじゃないの、ってくらい」
悠仁も野薔薇も全然信じようとはしない。僕の記憶の中の恵はふくれっ面に泣き顔ばかりだけれど、高専に入ってからって、恵が泣いたことなかったっけ。
「嘘じゃないってば。え、恵が泣いてるところ見たことない? ちょっと喧嘩とかして、僕に置いていかれそうだなって察すると、急に泣きそうな顔して後を追ってくるじゃん」
「私らが知るわけないでしょそんなの」
いま思えばあれは悔し泣きだったのかもしれないけど、下唇をつんと突き出して、目にはいっぱいの涙を溜めて、ちびっ子の恵はいっこうに振り向かない僕のことを何度も呼んだ。
それでふと思い出した。一人称の話だ。昔親友に注意されたことがあって、そこから『俺』と言うのを止めて『僕』を使うようになったと思っていた。けれど、それは正確じゃない。
高専五年生というモラトリアムを得て間もなかったあの日、恵に会いに行ってみて、実際に相対した子供があまりにちっちゃくて、子猫みたいに毛を逆立てていたから、柄にもなく目線を下げて、初めて怖がらせないような言葉遣いを意識したんだ。
確かにあの時よぎったのは昔交わした親友との会話だったけれど、僕なりに考えて、同期や後輩たちに接するときのように話しかけたら駄目なんだろうなと思って、わざわざ『僕』と言ってみた。存外しっくり来たから、それ以来よそでも『僕』を使うようになった。
「だから、僕、としか言ったことないはずなんだけどなあ」
いったい、恵にはいつの言い間違いを聞かれたのやら。
恵は今、先ほどの小さな子供を腕に抱えてやっていた。楽しいだろ、と言わんばかりに、子供に負けず劣らず嬉しそうな顔をして笑っている。僕が昔ちっこかった恵にやってやったときには、下ろせとか馬鹿とか言ってよく暴れたくせに。目の前の恵は今年一番の笑顔なんじゃないかというくらい笑っていたから、なんとなく、きっと本当は恵も抱っこされるのが好きだったんだろうな、と思った。
「なに笑ってんすか、五条先生」
視線に気がついたらしい恵が、よそゆきの柔らかい笑顔半分、いつも僕に向ける塩対応半分で振り向いた。
「秘密」
僕に抱えられて暴れるチビめぐは可愛かったな、と感傷に浸る。さんざん人の腕の中で好き放題暴れたくせに、初めて任務先に連れていったときは、ピタリと大人しくなって僕の服にしがみついた。僕に意地悪されて泣くし、すぐ蹴られて吹っ飛ぶし、それなのにちゃんと僕を追いかけてくる。まあ、それは今も変わらないか。
「恵も、あとで久しぶりに抱っこしてあげようか」
「はあ?」
あ、その顔は全然可愛くない。
片眉を釣り上げて、ゲテモノ食いでも見るような冷たい視線が突き刺さる。
「いい歳して、やめといたほうがいいですよ。いくらアンタの無下限でも、ぎっくり腰は防げないだろ」
べっ、と舌を出して、恵が逃げていった。抱えられた子も楽しそうに、べえと舌を突き出して笑っている。すっかり懐かれているようだった。
「こんの、クソガキどもめ」
「いいじゃん先生、伏黒も珍しく楽しそうだし」
「まあねえ、可愛いとは思うけどさ」
「あんまりいじめてると嫌われるわよ」
「大丈夫、恵は僕のこと大好きだから」
それから恵は子供と一緒に現場付近の探索に出て、しばらくして呪霊を一体祓ったと言って戻ってきた。あとで補助監督に残穢を査定させたら、二級相当だったとのことだった。特に目立った外傷もなく、抱えたままだった村の子も無事だった。
「戦うときもその子のこと抱えてたの?」
「はい。でもなんとなく、どう立ち回ればいいかはわかりました。知らなかったんですけど、結構大変なんですね、あれ」
子供を地面に下ろしてやって、恵はどこか既視感のある手つきで小さな頭を撫でていた。
僕の恵が、知らぬ間に大人になっていく。