本当は良い子じゃない津美紀の話

 目が覚めたとき、恵は知らない制服を着て、私の隣で泣いていた。あちこちが管に繋がれた私の身体はとても重くって、でもどこか晴れやかな気持ちが心の中に吹いていた。
「……えっと、おはよう?」
「遅いんだよ、クソ姉貴」
 こぼれ落ちる涙を何度も拭いながら、恵はそう毒づいた。それはいつも通りの恵だった。すぐに怒るし、すぐ私を馬鹿にするけれど、いつだって私のことを一番に考えてくれる、血の繋がらない一つ下の大切な弟。
 恵はどこもかしこも傷だらけで、破れた服にまでたくさんの血がついていた。目覚めたばかりで状況はまだ何もわからなかったけれど、それを見た私は、心の奥がすっと冷たくなった。私の知らないあいだにまたどこかで、恵は五条さんと呪術師をしてきたんだ。
 それから私は恵から、私が眠っていたあいだに起こった出来事のいくつかを聞いた。東京じゅうがめちゃくちゃになって、たくさんの人が死んじゃったんだって。一年ものあいだ呪いに当てられて眠っていた私は、今から殺し合いのゲームに参加しなくちゃいけないんだって。
「あれ、五条さんは?」
「封印、いや、呪いの中に閉じ込められた。今みんなで奪還に向けて動いているけど、しばらくは出てこられない」
「……そっか」
 あの人はいつだって、恵を連れていってしまう人だった。その五条さんが閉じ込められて、いなくなった。心配するよりも先にふわりと心に浮かび上がった私の残忍な裏側に、恵は少しも気づいていない。
 私も、昔から呪いというものを見ることができた。恵が同じものを見ていることも、なんとなくだけれど知っていた。だからどうしてあれだけたくさんあったはずの督促状が届かなくなって、電気も水道もお湯もまた使えるようになって、コンビニの廃棄のお弁当をこっそり拾ってこなくても食べるものに困らなくなったのかを知ったとき、私は、私にも呪術師をやらせてほしいと五条さんに頼み込んだ。いいよ、と二つ返事で私だけを夜の街へと連れ出した五条さんは、そのまま薄暗い路地裏に私を放り込んだ。
「知ってるんでしょ、祓い方。きっと君のお母さんが見せてくれたはずだ」
 やり方は確かに知っていた。お母さんもそういうのが見える人で、術式も持った人だった。私にも呪いが見えるとわかったときにはまだ術式の有無まではわからなかったけれど、いつか必要になることだからと、基礎の基礎だけを教わった。
 でも駄目だった。目の前にはおぞましい異形が蠢いている。これを片付けろというのは、まるで害虫退治をしろと言われているみたいだった。本当だったら虫と力の差なんて歴然で、私が負けるはずがないのに、それでも怖くて、気持ち悪くて、触れなかった。はっきりと形を持った呪霊、というものを初めて目の前にした私は、それと同種の生理的な嫌悪に身がすくんで、後ずさることしかできなかった。その一部始終を後ろで見ていた五条さんは、そんなこと初めからわかりきっていたとでもいうように、ふっと笑って言った。
「才能があっても、この嫌悪と恐怖に打ち勝てずに挫折する呪術師は少なくないんだ。今日のことを、津美紀ちゃんが気に病むことはないよ」
 それ以来、私は初めからあまり好きではなかった五条さんのことが、もっと好きではなくなった。無力な私自身への嫌忌から来るものだということはわかっていたけれど、それをどうにかすることはできなかった。
 それからは恵が五条さんに連れ出されて怪我ばかりして帰ってくることも、私が家事のほとんどを負担するようになったことも、私は黙って受け入れるしかなかった。あの古びたアパートの一室で塞ぎ込んだ私に何を勘違いしたのか、恵は自分や、自分たちを置いていった両親が憎いかと聞いた。
「そんなことないよ。私は誰かを呪う暇があったら、大切な人のことを考えていたいの」
 そんなのは嘘だ。本当は、みんな許せなかった。私を置いていったお母さんも、お母さんを奪っていったお父さんも、そのお父さんを繋ぎ止められなかった恵のことも。
 結局、本当に私のことを思って、考えて、隣にいてくれたのは、恵だけだった。それでも私は、私に善性を見出す恵を優しさで包み込むふりをして、恵の優しさに甘え続ける自分から目を背けた。だから何よりも、綺麗事を並べるばかりで本当は何もできない私自身が、私は一番許せなかった。
 この一年という長い眠りから目覚めてからは不思議とその劣等感も、呪術というものに対する嫌悪も恐怖も感じなかった。恵に手渡された鏡には、くっきりと呪印の浮かんだ額が映っていた。きっとそれはどんな洗顔でも化粧落としでも取れないものなんだろうなという予感はしたけれど、そんなことすら気にならなかった。
「津美紀には、殺し合いなんてさせないから」
 近況だけを手短に説明すると、恵は呪術高専に戻ると言って、病室から去っていった。それでひとつ、昔のことを思い出した。恵が着ていた制服には、本当は見覚えがあった。五条さんが何年も前に着ていた、呪術高専の制服だ。
 そっか、私が眠っていたあいだに一年が経っていたのなら、恵ももう高校生だ。そうするしかなかったこともまた確かだったけれど、結局、恵は呪術高専に進むことを選んでしまったんだ。
 恵のお父さんがいなくなって、私のお母さんもいなくなってすぐのことだ。まだ六歳だった恵は、私の幸せのためだけに、自分の人生を売り渡して呪術師になる道を選んでしまった。あのときまだ幼かった私たちが知らなかっただけで、本当は、そんなことをしなくても孤児ふたりが生きていける方法はいくらでもあったはずだった。そうしたら二人とも施設に入れられて、知らない人たちに養子に貰われて離れ離れになったかもしれないけれど、でも少なくともこんなふうに、片方だけが全てを背負わずとも生きていけたはずだった。
「ごめんね、恵」
 去っていった背中にそっと呟いた。
「本当は私、恵が思うような良い子じゃないんだよ」
 だって今は殺しちゃえばいいと思うもの。呪霊も、呪術師も、それに関わる人たちも。私が死滅回游というゲームに参加して、何もかもを消し去ればいい。
 羂索さん、って言ったっけ。私たちに殺し合いをさせて、世界を新たな段階に昇華させようとしている悪い人。学校からの帰り道にやってきて、私に呪いを掛けた張本人。あのときどんな話をしたかは思い出せないけれど、私がそこで何を願って、この呪いの証を受け入れたのかは明らかだった。
 病院の外に出て、私は何かに導かれるように、結界の起点に辿り着いた。コガネ、という小さな呪霊がどこからともなく現れて、私に参加の意思を問うた。
「この中で行われているのは殺し合いのゲームだ。本当にいいのかい? 泳者になっても」
「うん、そのために来たんだもの。……私、伏黒津美紀は、死滅回游に参加します」
 一瞬だけ迷いはあった。でもその背中を押したのは、私の心の中の恵だった。恵なら、私のためだと言って参加する。だから私も、躊躇わない。
 宣言した途端に、起きてから絶えず頭の中を渦巻いていた八つの総則が意味を持った。私は駒としての役割を理解して、同時に私の術式の使い道を知った。すぐに影から何かが襲ってきたから、刻まれた術式に呪力を流し込んで、人か呪いかもわからないモノを弾き飛ばした。形を失ったモノはいくつもの欠片となって地に落ちて、力なく私の足元に散らばった。
「なんだ、こんなに簡単なことだったんだ」
 初めからこうすれば良かったのに、あのとき五条さんに連れ出された七歳の私には、それができなかった。六歳だった恵はとうに、それも私の幸せだけを願って、覚悟を決めたというのに。
 ねえ、と十の結界のどこかにいるだろう弟に語りかける。
「恵はいつも私の幸せを願ってくれたけど、私は、本当はね、私たちの幸せがほしかった。施設に入れられても、どこかで知らない人の養子に取られても、別に良かった。私たちだけは、呪いとは無縁の世界で暮らしたかった」
 だからぜんぶぜんぶ、壊しちゃおう。
 呪霊も、呪術師も殺してしまえ。禪院という名前しか知らない人たちも、いつも恵を嫌な世界に連れ出してしまう五条さんのことも。私たちから奪おうとするものなんて、もう何もいらない。
「みんな殺して、私たちだけで幸せになっちゃおう。呪いのない世界で、二人っきり」
 ずっと恵が背負ってきてくれたんだから、今度は私がやってあげる。