中学二年生のとき、先生の気まぐれで教科書に出てくる詩の暗記をさせられたことがあった。ううん、あれは本当は確か、成績が悪い人たちのための期末考査の救済措置だったかな。少しでもお金に余裕があってお父さんもお母さんもいる人たちはみんな私立に行ってしまったから、私が通っていた公立の中学校はとても荒れていて、まともに勉強しようとする人のほうが少なかった。学校にも来ないし、バイクが四階の廊下を走るし、タバコの吸い殻が見つかるたびに体育館で学年集会が開かれた。校舎内の壁は落書きだらけで、隙間風の吹き込む窓ガラスはいつもどこかが割れていた。
そんな環境では、ろくに試験勉強をしてこない人も多かった。だからその人たちを何とか拾い上げるために、各科目の先生たちは苦心していろいろな工夫を凝らした。詩の暗記をしてこい、というのもその一貫だった。国語の期末試験で詩の穴埋め問題を出すから、そこさえ答えられれば補習だけは免れるらしい。
私はもちろん授業をちゃんと聞いて毎回試験勉強もしていたけれど、暗記物はどうしても、覚えるぞ!と思ってしっかり取り組まないとなかなか覚えられなかった。余計なタスクが増えちゃったな、と誰もいない家でひとりこぼして、癖のついてしまった教科書を開いた。
「わたしが一番きれいだったとき。茨木のり子」
本当は本文を暗記すればいいだけだったけれど、なんとなくそれっぽい雰囲気を出したくて、教科書の右端から読み上げた。そうして、今週だけでもう何度口にしたかもわからない文字の列をなぞっていった。
「『わたしが一番きれいだったとき 街々はがらがらと崩れていって とんでもないところから 青空なんかが見えたりした』」
「『わたしが一番きれいだったとき だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった 男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差だけを残して皆去っていった』」
「『わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた』」
ひと文字ひと文字に丁寧に音を乗せながら、改めてこの詩が好きだと思った。初めて国語の授業でこの作品が扱われたとき、私はひと目で惚れ込んでしまった。これは第二次世界大戦を経験した若い女の子の詩だった。私と同い年くらいのときに始まった戦争は、作者が十九歳のときに敗戦を迎えた。彼女の青春はすべて戦争に奪われてしまった。この詩は、その無念さを謳ったものだった。
「『わたしが一番きれいだったとき わたしはとてもふしあわせ わたしはとてもとんちんかん わたしはめっぽうさびしかった』」
「『だから決めた できれば長生きすることに 年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように ね』」
だからといって、戦争を体験した不遇な自分を悲観するわけでも、特定の誰かを責めているわけでもない。戦争のせいでめちゃくちゃにされた青春を無念だと思いながらも、腕まくりをして、前を見て、理不尽な時代を靴でかっぽかっぽ歩いていく。それがなんだか眩しかった。きっと私の心を打ったのはこの詩の中の女の子の、そんな真っ直ぐで瑞々しい強さだった。
「わたしが一番きれいだったとき、わたしはとてもふしあわ……あ、また飛ばしちゃった。わたしが一番きれいだったとき、わたしの頭はからっぽで、わたしの心はかたくなで……」
「それ、何かの詩?」
ただいま、と不貞腐れたように掠れ声で呟いた恵は、学生鞄を床に放り投げて私の教科書を覗き込んだ。今日もどこかの空き地で五条さんに稽古をつけてもらっていたんだろう。恵からは汗と埃と、私と同じ洗剤の匂いがした。
「教科書に載ってるやつだよ。茨木のり子の『わたしが一番きれいだったとき』」
「なになに、また音読練習帳? 今日はちゃんと印鑑を持ってるからいつでも押せるよ」
「五条さんいらっしゃい。ふふ、さすがにもう中学じゃあ音読カードなんてやらないよ」
少し遅れて、五条さんが家に上がり込んだ。車の鍵をテーブルの上に置くと、洗面所を借りるよと言って、手を洗いに奥のほうへと消えていった。ようやく五条さんも恵も帰ってきたから、私は教科書を閉じて台所に立った。今日はうちでお夕飯を食べていくと事前に連絡をもらっていたから、料理はどれも少し多めに用意してあった。お味噌汁を温め直して、三人分のお椀にご飯をよそって、主菜を盛り付ける。部屋着に着替えた恵が準備のできた皿から食卓に並べて、めいめいの定位置にそれぞれの箸を置いた。
「試験勉強してたの?」
戻ってきた五条さんはそう言って、食卓に着いた。恵はどうしてか絶対に五条さんのほうを見ないようにしていた。その臍を曲げたような様子から、きっと今日もまた稽古でコテンパンにやり込められでもしたのだろうと思った。
「そうなの。期末考査で詩の穴埋め問題を出すから、先生がとりあえず暗記してきなさいって」
「国語で暗記なんてしても意味ねえだろ」
横で聞いていた恵が不機嫌そうに口を挟んだ。
「救済措置だから仕方ないんだよ。どんなに授業態度やテストの成績が悪くても、そこさえ埋められれば補習にはならないの」
「そいつ本当に教員免許持ってんのかよ。来年絶対当たりたくねえ」
「あはは、教員のほうだって恵には当たりたくないでしょ」
「もう、五条さん! あ、こら、恵も乗らない!」
配膳の済んだ座卓の前で五条さんの胸ぐらを掴もうとした恵の首根っこを取っ捕まえて、座らせて、今度こそ三人でいただきますと手を合わせた。正方形のテーブルの私の正面は空っぽで、左が五条さんと、右に恵。少し前までは恵を真ん中にして私が配膳のしやすい端に座っていたのに、反抗期に差し掛かった恵が嫌がって、いつのまにかこれが新たな定位置になっていた。
しばらくは夕飯を食べながら、近況やら話題の芸能人の話やらが続いた。ふと何かの拍子に、五条さんが言った。
「そういえば津美紀は、高校はどうするの? このあいだ進路希望調査の紙が来てたでしょ。行きたい高校の目星はついた?」
気遣うような表情の五条さんに、内心、あー、と思った。頬張ったままの卵焼きを飲み込むのに苦戦するふりをして、少しだけ無駄な時間稼ぎを試みた。五条さんは世間話程度に話題を振ったつもりだったのか、取り立てて回答を急かすようなことはしなかった。
行きたい高校は、なくはなかった。けれどどれも制服が可愛いからとか、学費が安いからとか、家から近いから、なんて不純な動機ばかりで、もちろんすべての条件を一度に満たしてくれるところなんてあるはずもなく、どうしても高校に行きたいことへの理由もまた見つかりそうになかった。中学を出て働くことだってできるのに、親もいなくてお金もない私が、恵にばかり負担をかけて高校生活を謳歌できるわけないでしょう。心の中の私がそう囁き出すと、途端に思考は止まってしまう。
「ええっと、まだいろいろと迷ってるんです。義務教育とか、通えるところが学区で定められている、とかなら良かったけど、高校はそういうわけにもいかないから」
「そんなに思い悩むことある? もし先に学校見学とかに行きたければ、言ってくれればすぐに誰か保護者役を派遣させるよ」
「うん、そのときはぜひお願いします」
食卓の端で行われるやりとりには我関せずと黙々と夕ご飯を掻き込んでいた恵は、急にふらりと席を立って学生鞄の中を漁りにいった。
「恵、食事中なのに、余所事をするのは行儀が悪いよ」
きっと何か印鑑の要る書類の存在でも思い出したのだろうけれど、ただでさえ私たちは親がいなくて育ちが悪いと思われてしまうことが多いのだから、礼儀作法には人一倍気をつけなければならない。昔五条さんにぴしゃりと言われたことを未だに忠実に守ろうとする私に、恵は小煩そうに顔をしかめたものの、何も言い返してはこなかった。それから恵はパンフレットひとつを片手に戻ってきた。
「俺はここがいいと思うんで、五条さん受験料出してください」
どこから入手したのかはわからないけれど、恵が食卓の上に置いたのは、とある女子高等学校の入学案内だった。自然に囲まれた立派な門構えの校舎の前で、綺麗な制服を着た女の子たちが楽しそうに笑っている。記載された高校名を見て、そわりと震えた心臓の音に目を瞑る。
「え、恵ってば女子高に行きたいの? 困ったなー」
「っんのクソ、んなわけねえだろ。津美紀の話だよ」
「はいはい、どれどれ。あ、全寮制だって。いいじゃん、恵が高専寮に入ったあとも安心だね。制服も可愛いし、学校設備も充実してる。それに大学への進学実績も、良いところばかりだね」
知っていて恵がこれを持ち出したのかはわからないけれど、そこに記載されていたのは、三年間で掛かる学費を見て真っ先に諦めてしまった、私が一番行きたいと思った私立高校だった。きっと何も知らないだろう五条さんが、そのパンフレットを私に差し出して言う。
「津美紀はどう思う? 少なくとも、僕はとってもいい環境だなと思うけど」
「うん、えっと、そこは私もこの前いいなと思った学校だから、五条さんにもそう言ってもらえるのは嬉しいけど……」
でもそこに行くにはとてもお金も掛かるし、塾にも行かなければきっと受からない。もちろん、そんなお金も余裕もうちにはない。それに私が高校一年生から寮に入ってしまったら、呪術高専に入るまでの恵は一人になってしまう。
ここで頷けば何とかしてこの学校に行かせてもらえるだろうか、なんて甘い期待はどこからも湧いてこなかった。口をついて出ようとするのはいつだって、穏便にやり過ごすための言い訳ばかりだ。
「何か引っかかることでもあるの?」
「えっと、あのね……」
「津美紀もいいなって思ったんなら、そこでいいだろ。五条さん、ついでに津美紀の塾代も出してください。それと中学に着ていける感じの真冬用のコートが欲しいです、俺と津美紀の分」
「あっはは、いいよ。いつ買いにいく?」
「来週末とかどうですか」
「いいね、じゃあ土曜日九時に二人を迎えにくるよ」
私だけを置いてきぼりにして、五条さんも恵もどんどん話を進めていってしまう。待ってよ。待って。私のことでしょ、勝手に決めないでよ。険しい声色を張ってしまった私に、二人が驚いて振り向いた。
「何? 五条さんもいいって言ってるんだから、別にいいだろ。何が嫌なの?」
「そういうのじゃない。だって、お金もかかるし、私なんかが」
「そうやってすぐに諦めようとするの、いかにも津美紀って感じ」
馬鹿にしたように恵が言った。甘えられるなら遠慮なく甘えればいい、という恵の理屈は間違ってはいない。でもいくら五条さんがいいよって言ってくれたって、払うって言ってくれたって、そういうのは違うじゃん。うまく言葉にはできないけれど、とにかく、やっぱり正しくないと思うんだ。
「……だいたい、何で恵がそのパンフレットを持ってるのよ」
「先生に言ってもらってきた。この前一括請求した学校案内で、ここのだけ早々に捨ててあっただろ」
「なにそれ。勝手にゴミ箱を漁らないで!」
「は? 捨てにいくときに見えたんだよ。嫌なら津美紀がゴミ出し当番代われば」
恵の馬鹿。ぐっと喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。もう自分が何に怒っているのかもわからなかった。せっかく進学の了承をもらったんだから、ありがとうございますって笑って、素直に頷けばいいのに。本当は私だってわかっている。でも、だって。
「津美紀が一番綺麗なときくらい、幸せに過ごせばいいだろ」
「何よ、私の一番綺麗なときは私が決めるんだから、勝手なこと言わないでよ! 私はおばあちゃんになっても綺麗だもん!」
「あっそ」
「五条さんも笑ってないで何か言って!」
「あ、えっ、僕!?」
「五条さんはいま関係ないだろ。引っ込んでてください」
「あの、えっと、ハイ……」
「五条さんしっかりしてよ! 私と恵どっちの味方なの!?」
「もー、仲裁してもしなくても僕が怒られるじゃん。津美紀も恵もいったん落ち着いて。ね?」
結局、五条さんの頼りない介入で、その場はどうにか収まった。それから日を置いて改めて話し合いの場を設けて、私は提案してもらった女子校を含め、いくつかの高校を受けることになった。結局入学が決まったのはあのときの騒動とは別の高校だったけれど、私はそれを不満には思わなかった。
高校の制服が届いたのは、中学生最後の三月の終わりのことだった。届いたばかりのブレザーに袖を通して、ふと、私が一番綺麗なとき、私はいったい何をしているだろうかと思った。これから始まるはずの新しい日々を前に、胸の中には不安と期待が渦巻いている。この先に起こることなんて誰もわからないけれど、どうかその日々が、幸せで温かなものであればいいと思った。
* * *
「『わたしが一番きれいだったとき 街々はがらがらと崩れていって とんでもないところから 青空なんかが見えたりした』」
懐かしい詩を口ずさんで、ふと空を見上げた。私は今、恵と一緒に東京の郊外を目指していた。私がきっと一番綺麗だったはずのうちの一年は、私が眠っているあいだに通り過ぎてしまった。東京にはおぞましい呪いがばら撒かれて、たくさんの人たちが死んだ。病室で淡々と事の次第を告げた恵はすでに高校生になっていて、とても大人びた顔つきをしていた。
まるで、呪術師たちの戦争みたい。
聞かされた一連の話からそうまとめた私に、恵は何か言いたそうに口元を歪めた。それから私の言葉を訂正する代わりに、今後の行動についての説明を口にした。これから呪術高専に戻って仲間と合流する。津美紀にも着いてきてほしい、と。
だから今、私は言われるがままに、恵とともに西へと向かって歩いている。燃え朽ちた都市の残骸の上に冗談みたいに広がる青色は、どこまでも続いているように見えた。
「ねえ恵。私たち、どこまで来たかな」
「まだ二十三区も出てねえよ。疲れたなら少し休憩するか?」
「そっか。まだ平気、ありがと」
大規模な呪術テロがあって、東京が機能不全に陥ってから丸二日が経ったという。建物がまだ残っているところと、ひとつ残らず倒壊してしまったところが混在していて、瓦礫だらけの道を歩くのは少し大変だった。
まるで本当に戦争が起きてしまったみたいだ。辺りはどこもぼろぼろで、電気もつかなくて、水もお湯も出ない。流通も電話回線も何もかも止まってしまった。滅入りそうな気持ちを紛らわせたくて、とうに彼方へと去っていった詩のかけらを手繰り寄せながら、崩れ落ちた東京を歩いていく。
「『わたしが一番きれいだったとき まわりの人達が沢山死んだ 工場で 海で 名もない島で わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった』」
その先は何だったかな。女の子はずっとふしあわせでさびしかったから、最後には長生きすることを決めるんだ。でもその途中の詩は忘れてしまった。
考え事をしていたためか、足元を取られて転びそうになった。恵が咄嗟に手を伸ばしてくれたおかげで、私は片手を地面についただけで済んだ。汚れてしまった手のひらをはらって、砂を落として袖捲りをした。十一月に入ったといえども、遮蔽物のなくなった太陽の下を歩き続けるには、着込んできた長袖はまだ暑かった。
「『わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた』」
隣で恵が呟いた。感情の乗らない平坦で、それでいて少し悲しげな声だった。
「『そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた』」
「すごいね、恵はまだちゃんと覚えてるんだ」
「ここだけ、何となく思い出した。ほら行くぞ」
私の手を引いて恵が歩き出した。つんのめった勢いのまま、その背中を追いかける。
「ねえ恵、一緒に長生きしようね。あの、誰だっけ、フランスのお爺さんみたいに」
あれだけがんばって覚えた詩の最後の箇所を引用しようとしたけれど、私はもうその一言一句までは思い出せなかった。わたしはとてもふしあわせで、めっぽうさびしくて、それから、何だったっけ。中途半端な記憶から引き出された言葉は、やはり恵には伝わらなかった。
「一緒には無理だろうな、俺は呪術師だから」
隣を歩く恵は真っ直ぐに、私たちの進むべき先を見つめていた。そのきれいな眼差しに目を奪われて、私はまた思い浮かんだ詩のひとかけらを口ずさんだ。