五条悟と伏黒恵と慶長年間の当主御前試合の話 - 2/3

4.
 ひと、ふた、み、よ。
 いつ、む、なな、や。
 ここの、たり。
 ふるべゆらゆら、ふるい夢。

 五条家に男の子が生まれたらしい。
 六眼と無下限呪術を併せ持った、何百年に一度起こるかもわからない奇跡。彼のひとつ前は平安まで遡るとも言われるほどだから、彼はたいそう恵まれた子供だった。ご挨拶として連れられた五条の屋敷で、雪原のような髪とまつ毛から六眼を覗かせた赤ん坊は、ふにゃふにゃと泣いて母親の体温を探していた。
 その子はどうしてか、僕に懐いた。歳の近い子は僕のほかにも何人かいたけれど、大きくなるにつれて、彼は何をするにも僕の後をついて回った。
「禪院、ねえ禪院、見てよ。新しい技を覚えたの。無下限呪術でこうしてね、ほうら!」
 すっと姿を消しては忍のように移動して、遠く離れた石の上に現れた彼は得意げに笑ってみせた。すごいなあと褒めてやると、これは瞬間移動というのだと解説を受けた。
「ねえ、禪院の式神を見してよ。玉犬は元気? 今度は何を新しく調伏したの? わぁ、ふわふわだね」
 彼は弟のようで可愛かった。僕の禪院の家の従兄妹たちは皆宗家の生まれで、分家の僕には近寄ろうともしなかった。そのうち僕が相伝の術式を継いでいることがわかると、いっそう溝は深くなり、けれども表向きだけは手のひらを返したように優しくなった。それがとても息苦しかった。
「ふんだ、なんだよあいつら。俺は最初から気づいてたよ。禪院の持つ影は強いって」
「最初っていつ?」
「俺が生まれてすぐ、禪院がうちにご挨拶にきたとき」
「嘘だな、あのときのオマエは母親の乳房を探してふぎゃあふぎゃあと泣いていたぞ」
「それこそ嘘だ! そう言って俺をからかって、すぐにはぐらかそうとするんだから」
 帰り道だったんだとうそぶいて、五条がうちの敷地内に忍び込んだときのことだ。人喰い山と渾名されて久しい北方の山にひとりで行って、巣食った特級呪霊を四半刻とかからず祓ってきたらしい。屈強な男衆を何人も喰らった御山だというのに、五条にはかすり傷ひとつ見当たらなかった。そういうことが幾度もあった。
 僕からすれば、彼こそ異界じみた強さを持ち合わせていたというのに、それでも五条は僕を慕った。自分を対等に扱って叱ってくれるのは、僕だけなのだと彼は言った。では五条は僕に怒られにきているのかと問うと、「違うやい」と怒られた。
「でもね禪院は俺のこと、人間を見る目で見てくれる」
 そんなことを意識したことはなかった。うちの家の人たちは相伝の術式のことがわかるまで、皆僕を不存在のように扱った。でも五条は誰からも、そんなぞんざいな風には扱われない。気のせいだろうと告げると、五条はふふんと笑って言った。
「あんなしみったれた阿呆ばかりの家が嫌になったら、きっと五条のお屋敷においでね。それまでには僕が当主になって、誰にも文句を言わせないから」
 そうして五条は当然のように一族の主の座について、呪術界すらも牽引する存在となった。当主交代の儀こそ彼の元服を待ってから行われたものの、呪術師の大家のひと柱として五条家に振られていた危険な任務は、すでに彼が一手に引き受けるようになっていた。数え年でようやく二桁に届くような子供が、どこへ出しても無傷で帰ってくる。六眼と無下限呪術の抱き合わせ。体術の才能に恵まれたことに加えて、無限を操る相伝術式、そして緻密な呪力操作を可能とする生まれついての鋭い眼が彼の存在を最強へと押し上げていった。
「血統や伝統なんて価値のないことにこだわって、本当に大事なものは誰も見えていないんだ。俺がこの世を、禪院が心の底から笑える場所にしてあげる」
 禪院家の中の宗家や分家、嫡子庶子の話を五条にしたことはなかった。ましてや自分が分家の父の後妻の子だという身の上を打ち明けたことも。けれども彼は何かを感じ取ったらしく、幾度となく僕にそう言った。

 禪院家は根強い儒家思想の上にあった。女より男、庶子より嫡子、次男より長男。後妻や妾の子は、存在しないも同然の扱いを受けた。加えて古来より呪術師の家系であったから、呪術師の素質を持たない者は、長子であっても家を出るか、下男として仕えるほかなかった。なんの奇遇か相伝の術式を継いでいなければ、僕もまず人間としては扱われなかったことだろう。
 五条家の当主交代の少し後に、僕も禪院家の頭に据えられた。宗家が長らく相伝術式を継ぐ男児に恵まれず、唯一の次期当主候補であった従兄が呪霊に喰い殺されたためだった。僕の当主就任は当然、相当な妬みと恨みを買った。
 嫌がらせも多かった。悪意を物ともせずに一族の長としてふさわしい振る舞いができれば良かったが、あいにく僕には統率力も人望もない。人の上に立つというのは、心底向いていなかった。
「あんなやつら、俺ならひと捻りで殺せるよ。でもそんなことをしても禪院は喜ばないからやらないだけ」
 禪院家での僕の扱いを知って業を煮やした五条はたびたびそう言ったが、その言葉は決して驕りでも強がりでもなかった。五条はいっとう強かった。呪術師として桁外れた実力を持つ彼を、妬もうとする者すらいなかった。

 互いに当主となってから、幾年か経ったときだった。とうに元服を済ませていた禪院家の子供が、四人も相伝術式を継いだことが判明した。別の相伝術式が二人と、僕と同じ十種影法術を継ぐ子が二人。やれ豊作だといって、爺どもは諸手を上げて喜んだ。女子供を人間とも思わないその言い回しが癪に触った。おまけに影法術を継いだうちの一人が分家の妾の子供だったことを知って、たいそう気が重くなった。

 災い続きの世にせめてひと華、当主同士の御前試合をさせよう、というのは禪院家の誰かが言い出したことだった。
「お前はあの五条の坊とはたいそう仲が良いと聞いている。五条家も快く引き受けるだろうよ」
 宴会の場で老獪な笑い声が広間を埋める。初めて御前試合の話を言われたときは、五条はきっと喜ぶに違いないと思った。それから裏で何が企てられているかを知って、とても立ってはいられなくなった。ぐらりと壁に手をついた僕に、宗家の出の下男たちは振り向きもしない。
 御前試合は明日に迫っていた。夜更けになるのを待って、誰にも気付かれぬよう屋敷を抜けた。小屋の側を通ると、中から幼子の声が聞こえた。十種影法術を継いだ妾の子の声だった。

 ひと、ふた、み、よ。
 いつ、む、なな、や、ここの、たり。
 ふるべゆらゆらと、ふるべ。
 やつかのつるぎ、いかいしんしょうまこら。

 人を人とも思わぬ外道どもめ。
 悪態をついて、足早に通り過ぎた。あの無垢な子供は、初めて仰せつかった大役に、さぞ舞い上がっていることだろう。明日殺されるかもしれない身であることを、あの子は知る由もない。でなければ、こんな遅くまで祓詞の稽古などしないだろうに。

「五条。明日の御前試合、君のほうから降りてくれないか」
「なあに禪院、俺に負けるのは嫌?」
 約束もなく深夜に訪ねた僕を招き入れても、五条は上機嫌そうに笑っていた。使者を通じて正式に御前試合の申し出を受けて以来、「禪院の実力がようやく皆の前で評価されるね」と、五条は見たこともないほど喜んでいた。

 宗家の子たちが相伝術式を継いだことがわかった以上、現当主である僕の存在は邪魔だった。禪院家の爺どもは、僕を当主の座から下ろす理由を欲していた。
「せめて役立ててから殺せ。五条家と御前試合でもさせようか。あの小生意気な顔に傷ひとつつけたら儲けものよ」
「腹立たしいが異戒神将もなしに、あの五条の坊になど勝てるものか」
「そうか異戒神将。魔虚羅の調伏の儀をさせてはいかがか。たとえ死んだとて、弱点のひとつでも暴かせれば後世の役にも立とう」
「ふん、あの意気地なしがそんなことするものか。まして自ら五条家を巻き込もうなどという度胸もあるまい。短所ばかり父親に似おって」
「先刻、十種影法術を継いだ子供がおったじゃろう。あの妾のほうに呼ばせて巻き込ませてはどうか。子供の悪戯と扱えば、苦しいだろうが死人が出ても言い訳が立つ。所詮は穢れた生まれ。もろとも死んだって、痛くもない」
 妙案よ、とほうぼうから声が上がる。
「全く、五条の坊が生まれてからこの世の均衡が崩れたとは、まことじゃの。六眼と無下限呪術に釣り合うためには、禪院の相伝術式が五人も要るとは甚だ癪だが、おかげで良い人柱にもなろう」

 宴席でそう漏れ聞いた内容を、手短に五条に伝えた。爺どもが御前試合の建前で、十種影法術の式神調伏に五条と僕を巻き込もうとしている。異戒神将魔虚羅は禪院相伝の十種影法術の式神のひとつだが、歴代十種影法術師の誰も調伏できたことがなく、詳細もほとんどわからない。当主だろうと、分家の出の僕の意見は聞き入れられない。こんなことで五条を死なせるわけにはいかない。後生だ、どうかこの御前試合を断ってほしい。
 すべてを聞いても、五条は表情一つ変えなかった。少しだけ考えるような間があって、それから五条は生きとし生けるもの全てを凍てつかせるような冷たい声で言った。
「それで。異戒神将魔虚羅って、どんなの」
「……詳しいことは誰も知らない。歴代の十種影法術師は、誰一人としてこいつを調伏できなかった。死ぬよ。僕では勝てない。五条でもきっと無理だ」
「いいや、禪院も俺も強い。巻き込まれてやろう、二人ならきっと調伏できる。そうしたらその式神で、禪院の爺どもを伸してやればいい」
 名案だと言わんばかりに五条が言った。いくら強くたって彼はよその人間だから、何も知らないのだ。調伏の儀は、複数人で取り行えば無効となる。
「複数人での調伏に意味はないんだ。オマエが倒したところで、式神は僕のものにはならない。みんな捨て駒なんだ、妾の子供も、僕も。爺どもは、ついでにオマエも葬れれば幸いとまで言った」
 禪院家の次期当主の候補には三人の宗家が控えている。それぞれが別の相伝を宿して、そのうちの一人が僕と同じ十種影法術を継いだ。その子がいずれ調伏の儀を進めるときのために、僕らを人柱にしようと言うのだった。

「度し難い外道どもめ」
 五条がそう吐き捨てた。揺らいだ彼の呪力に当てられて、調度品のいくつかが割れた。何でもいい、どうにかして諦めてくれればいいと思った。でなければ明日、きっと僕も五条も死ぬだろう。
「禪院。確認だけど、その調伏の儀に参加して、異戒神将魔虚羅というのを倒せばいいんだな」
「五条、よしてくれ」
「悪いけど明日の御前試合、俺は降りない。代わりに全てが無事に済んだら、俺はオマエを五条家に迎え入れる。職も地位もうちでたくさん余っている、好きなものを選んだらいい。禪院の名だって捨てていい。五条家当代を陥れようってんだ、それくらいの代償を呑んでもらわなくちゃ釣り合わない。どうせオマエのところの爺どもは当主を宗家に戻したいんだろ。ちょうどいいじゃないか。なあ禪院」
 いつになく攻撃的な物言いだった。けれども五条が言うと、不思議とどうにかなりそうな気がしてしまう。五条は最強だ。いずれ彼を超える呪術師が生まれるかもしれないが、五条家、いや御三家の連綿と続く歴史の中で、彼のほどの呪術師は他にいない。
「言っただろ、俺がこの世を、禪院が心の底から笑える場所にしてあげるって。そのためだったら何だってする。絶好の機会だろ。それでも、禪院は俺を止めたい?」
 何も言い返せなかった。遠くの小屋で鶏が鳴いた。じきに夜が明けるだろう。早く帰りなよ、と五条が言った。
「寝不足で倒れるのだけはよしてくれよ。御前試合、俺はずっと楽しみにしてたんだから」

 そうして五条家当主と禪院家当主による御前試合は予定通りに行われた。死者のように血の気の引いた顔で試合場に着いた僕を見つけて、五条は小さく微笑んだだけだった。任せて、と言われているようだった。
 戦いの場に指定されたのは五条家の演習場だった。いざ尋常に、と火蓋が切られた。僕も五条も善戦し、互いの術式が繰り出されるたびに会場が湧いた。

 しばらくして、勝敗が五条に傾き始めたときだった。小さな子供が兵児帯を揺らして客席から試合場に踊り出た。虐げ、蔑まれてきた相伝継ぎの妾の子だ。初めての大仕事だと意気込んで、遅くまで暗唱に励んだ哀れな子。
「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や。ここの、たり」
 甲高く無垢な声が、力いっぱいに十を数えた。教えられた通りに、意味も知らないだろう文字の羅列を叫ぶ。
「ふるべゆらゆらと、ふるべ」
「離れろ、五条!」
 途端に日の光が地に落ちて、あたりは闇夜のごとく暗くなった。地鳴りが響き、禍々しい気配が大気に満ちる。駄目だ、と思った。あまりにも強くて、おぞましい。到底勝てるものではない。遠くで狼の遠吠えが聞こえた。異戒神将が来る。
「五条、巻き込まれるな、頼む、お前だけでも生きていてくれよ。五条、五条!」
 何もないはずの土地から、途方もない呪力量の塊が顕現する。禪院家の者は皆姿を消していた。何も知らされていない五条家の人々だけが逃げ惑っている。
「やつかのつるぎ。いかいしんしょう、まこら」
 言われた通りにうまくできたと、子供が無邪気に笑った。傍らに大きな怪異が立った。子供は頭部を潰されて死んだ。爺どもは宗家の子を大事そうに囲うばかりで、助けようというそぶりすら見せなかった。
 八握剣、異戒神将魔虚羅。
 形容しがたい異形の姿を前にして、全身が震えた。足元で倒れている子供は、今はきっと仮死状態だ。他の調伏の儀と同じように、自分が死ねば、この子の死も確定する。
 五条の姿は、見当たらない。五条家の人々の姿もいつのまにか姿を消していた。あいつがうまく逃したのだろうか。それでいい、一緒に逃げ延びていてくれ。これは禪院家に根深く巣食う、醜い諍いだ。何も、五条が巻き込まれることはない。
「なぁ禪院。そいつ、結構強いな」
 生意気な声が頭上から降ってきた。何もない宙の中で、五条が悠然と立っていた。土埃ひとつつかぬ立ち姿が、ふわりと隣に降り立った。
「五条、巻き込まれていないだろうな」
「ああ、問題ない」
「いいか、僕が死ねばこの儀式は終わる。そうすればこの子も道連れで死ぬが、仕方ない。禪院家に生まれてきたのが悪かった。見ての通り、僕たちではあの化物には勝てない。せめて引き分けくらいには持ち込んで、次に相対するだろう子孫たちのために、何かしらでも残してやれればいいのだけれど」
 そう、どのみち僕にこれは倒せない。勝つことは初めから考えない。せめて犬死にだけはならないように、次に繋いでやれればいい。五条はしばらく何も言わなかった。魔虚羅はまだ召喚されて間もないせいか、大した動きは見せていない。式神がこの地に馴染むまでの僅かな間に、遺しておきたい言葉を探す。
「五条、僕は…」
「ごめん、さっきのは嘘。禪院の邪魔になったら悪いと思って言わなかったけれど、俺もしっかり巻き込まれた」
 そんなものははったりだ。理由をつけて、共に戦うとでも言うのだろう。五条に、ここに残る義理はない。どこか安全で離れた場所に行って、僕の分まで生きてくれればいい。
「気づかってくれてありがとう。でもきっとこれが最後だろうから聞いてくれ。僕はオマエに…」
 一瞬だけ早く、五条が僕を抱えて飛びのいた。つぎの瞬間には、彼の立っていた足元が地中深くまで抉れた。明確に五条を狙って放たれた一撃だった。
「やれやれ、おっかないねぇ」
「おい、どういうことだ! 五条、おまえ」
「言っただろ。巻き込まれたのは本当。うちの者の避難に意識を取られて、距離を取るのが間に合わなかった。だから大丈夫だよ、禪院が死ぬときは俺も一緒」
 指先が真っ白になるほど血の気が引いた。辛うじて倒れなかったのは、明確な死の気配を目の前に感じていたからだ。駄目だ。そんなのは駄目だ。五条を、こんなところで死なせられるものか。
「じゃあ死ぬなよ禪院。その子供のために闘えないというのなら、俺のために生きて、闘って」
 五条が僕の手を取った。でも勝つなんてのは無理だ。禪院の才人たちは何百年にも渡ってこの異戒神将に挑み、誰ひとりとして調伏することも適わずに死んだ。禪院家の書庫に魔虚羅に関する記述がないのは、何も先人たちの意地悪でも怠慢でもない。その格破りの強さを記録する間もなく、十種影法術師たちは皆散っていったのだ。
「五条」
「気をつけて、来るよ。禪院!」

 振り下ろされた刀を躱した。得られた僅かな時間で、計略を立てる。勝機などどこにもない。五条が何度か攻撃を放った。玉犬、蝦蟇、大蛇、鵺。満象。脱兎。様子見で出した式神のいくつかは、すぐに完全に破壊された。
 呪力消費の大きい領域展開はむやみやたらには出せない。呪具の用意は二つ三つあるが、どれも御前試合を想定して持ち出させたもので、近接でなければ使えない。じりじりと減りゆく手の内に、焦りばかりが募る。
 一度当たった攻撃は、二度は当たらなかった。攻撃を受けると魔虚羅の背負う大輪がひとつ回転して、次に撃つときにはもう効かない。後出しの三竦みのようなものだ。魔虚羅の背負う大輪には八つの玉がついていたから、八度回転したらまた元に戻るのかとも思った。しかし期待して放った九つ目の攻撃は、擦りさえもしなかった。
 たとえ少しばかり当たったとしても、魔虚羅はすぐに傷を癒して元通りになった。文字通り、不死の身なのだと思った。
 時間だけが過ぎていった。長引けば長引くほど、苦しい戦いとなった。やがて僕の半身は潰されて、片方の手が使えなくなった。十種影法術の式神は、両手がなければ出すことはできない。どのみち、もう使えるものは玉犬しか残っていなかった。
「禪院!」
 五条はまだまだ無事だったが、今回ばかりはさすがに無傷というわけにもいかなかった。あちこちから血を流しており、反転術式に神経を割ける余裕はないようだった。魔虚羅が刀身で空間を薙ぎ払った。攻防いずれの手段も失った身体は、試合場の外まで吹き飛ばされた。
 領域展開は、すでに二度出している。三度目のための呪力は残していない。投げた最後の呪具は弾かれた。詰みだ、と思った。
「五条。すまない、先に逝く」
 大きな刃が僕を目掛けて振り下ろされる。一撃で、無事だったほうの半身が飛ばされた。二撃目がなぜ避けられたのかはわからない。三撃目で感覚が消えた。四撃目が入る直前に、連撃をかいくぐった五条が僕の残りを抱えて飛んだ。
 とうに反転術式で治せる程度は過ぎていた。呼吸ばかりが漏れていって、何を言っても言葉にならない。ひゅうひゅうと喘鳴だけが出る。血と汗に塗れた顔をぐしゃぐしゃにして、五条が絞り出すように言った。
「禪院、ごめん。ごめんね。次の世でも、きっと俺の隣で笑っていてね」
 僕を物陰まで運んでから、五条は再び化け物の相手をしにいった。二対一では、五条の攻撃は幾度となく当たった。一人になっても、五条ならばきっと勝つだろう。せめてその突破口だけでも開ければと思っていたが、結局役に立ってはやれなかった。
 激しい戦いの音が聞こえる。視界はもう見えない。五条、五条。頼むから、お前だけは死んでくれるな。巻き込んでしまってすまなかった。生きていてくれ、どうか、僕の分まで。

[newpage]
5.
 気づけばあたりは真っ暗だった。いつのまにか着せられていた襦袢の胸元が汗でぐっしょりと濡れていた。何度か起きたような気もするが、そのあいだのことは覚えていない。日付のわかるものを探そうとして、携帯電話を引っ張り出した。熱を出して寝込んでから、丸二日が経っていた。
「それね、寝てる間に着替えさせた。僕のお下がり。体調はもう平気? 風呂焚かせたから入っておいでよ」
 恵、と名前を呼ばれる。五条悟が戸口に立っていた。何だか懐かしく、長い夢を見ていたような気がした。でもその内容は思い出せない。
「どうしたの、まだしんどい?」
 そんなことはない、と首を振る。何かを言おうと思ったのに、その言葉は出てこない。やってきた五条悟はいつもの呪術師の服をまとっていた。手に持ったままの包帯の束と彼の特殊な色の瞳と髪が、闇夜に溶けてしまいそうな藍に浮く。優しげな口調とは裏腹に、怜悧な興奮がじりじりと伝わってくる。何かがある、と思った。
 廊下には、小さなキャリーケースが置かれていた。今すぐにでも出立できるようぎっしりと詰められたそれが、事態の異質さを告げていた。この人は、数泊掛かる出張ですら手提げひとつで行くというのに。
「出掛けるんですか、こんな夜中に」
「まだ二十時だよ」
「どこに行くんですか」
「ちょっとそこまで」
「そこまでって、どこまでですか。いつ帰ってくるんですか」
「今日はやけに食い下がるなぁ。寂しいの?」
「任務ですか」
「うん。……いや、ちょっと違うかな。悪いやつをやっつけに行くんだよ。ううん、それも違うか。僕は、僕の過去にケジメをつけにいく。ごめんね、だからしばらくは帰れない」
 いつになく真面目に返された言葉に、ああ、この人は今からたった一人の特別を殺しにいくのだ、と恵は思った。顔も名前も、声も知らない、五条悟の特別な人。五条悟は強いから、きっとその特別と闘って勝つだろう。
 五条悟はいつだって必ず帰ってきた。恵が市井で暴れまわって散々迷惑をかけても、呪術師になんてならないと噛み付いても。学校でも、警察署でも、病院でも、呼び出されればどこへでも恵を迎えにきた。そんな五条悟が、今回ばかりは戻らなくなる予感がした。ひとつでも感情のボタンを掛け違えたら、きっと五条悟は帰ってこない。
 特別がいなくなっても、空いた椅子に別の特別は腰掛けない。新しい世界はただ平たくて、誰もいない場所になるだけだ。
 その世界の平坦さを、恵は知っている。だからこそ、見送りの言葉は慎重に選んだ。
「生きていてください、五条さん」
 五条悟は驚いたように目を見張った。それから聡い子供が何かを感じ取って、自分の心配をしたのだと気づく。返事はすぐには返ってこなかった。五条悟はぐるりぐるりと目隠しを巻いて、服と同じ色の外套をまとった。恵はごろごろと転がされるキャリーケースを追いかけた。母屋の玄関で、腰を下ろした男の背後に立つ。
 五条悟が靴を履く。恵はそれを静かに眺めた。靴べらを差して、足を入れて、靴べらを抜く。もう片方の靴にも靴べらを差して、足を入れて、靴べらを抜いた。全く同じ動作を左右対称に一度ずつ繰り返して、呪術師は静かに立ち上がった。
「帰ってきたら、恵の誕生日とクリスマスのお祝いをしようね」
 振り向きもせず、五条悟はそう言って屋敷を後にした。がらがらと荷物を引く音が遠ざかっていく。恵はそっと靴べらを拾い上げて、元の位置に戻してやった。