6.
夏油傑による新宿京都百鬼夜行は二十四日の日没とともに始まり、二十五日の夕方に終結した。五条悟は結局、クリスマスが終わっても帰ってこられなかった。
恵がひっそりと書物を紐解く傍で、帰宅した五条悟は死んだように眠りこけた。男は、翌日の昼まで目覚めなかった。十二月二十七日だった。
起きてすぐに水を飲ませて、物を食べさせて、五条家の婆から預かった着替えを手渡した。五条悟はクリスマスパーティの買い出しにいくと言って、渋る恵を強引に連れ出した。当然のようにもうどこにも売っていないクリスマスケーキを諦めたのがその日の夕方五時。そこからチキンやらショートケーキやらを買い込んで、五条邸の離れで二人で食べた。ケーキには余り物のサンタクロースの砂糖菓子と、『15』の数字の形をした蝋燭を並べて立てた。ケーキはもちろんその重みには耐えられなかった。重力に負けて崩れた二つの異物を指差して、二人でどうしようもないという風に笑った。
それから恵は、おかえりなさい、と言った。
「そういえばこれね、お土産。京都に行ったついでに寄ってきたの」
唐突に五条悟から渡されたのは、四つ折りにされた藁半紙だった。開くと、中には墨で何かがつらつらと書かれていた。
「なんですかこれ」
「この前の布留の言に関する続きのページ。続きってか前頁だけど。あれ弐って番号振ってあったでしょ」
しばらくのあいだ考え込んで、恵はようやくそれが、先日五条家の書庫から取り寄せられた、禪院家に関する資料のひとつを指していることに気がついた。当然、あれが弐の頁だったかどうかなど覚えていなかった。
「読んでいいよ。要点はこのあいだの弐のほうの資料と同じ。なんで取ってあるのかわからないけど、中身もぐちゃぐちゃだし、ただの下書きじゃないかな。削られた部分がちょっと載ってるだけ。僕にはそんなに面白くなかった」
「はあ」
言われた通りに、一文一文に目を通した。中身は誰かの手記のようだった。一部掠れて読めなかったり、言葉がわからないところもあった。内容は概ね下記の通りで、大半は先日読んだのと同じ、魔虚羅の特性に関するものだった。
『これは第_代五条家当主様の御遺言でございます。早く紙と筆を取れ。とりあえず全部書き取ってくれ。内容の取捨選択は俺たちが死んだあとにゆっくりやってくれりゃいい。と仰せつかりましたので、急ぎ書き記したものでございます。
一、_院、助けてやれなくて悪かった。
一、あのまこらという式神は、一度受けた攻撃に対する耐性を得る。六眼でも定かなことはわからなかったが、きっと草_剣、____の系譜だ。複数人で調伏の儀を始めることはできるが、その後無効になるそうだ。
一、調伏の儀は呼び出した式神を倒せば終わる。さもなければ参加者全員が死ぬまで続くはずだ。
一、禪院家にこの記録は渡すな。五条家の中で煮るなり焼くなり好きにしろ。いつかこの話が何かの役に立てばいいが、そんなものは夢物語だろう。
一、無策にまこらを呼び出しても、無駄な人死が出るだけだ。手前の命を捧げて調伏の儀に巻き込めば全員を確実に殺せるだろうが、現状の使いどころはそれしかない。
一、まこらは初見の技で屠る必要がある。呼び出せるのは十種影法術師だけだが、十種の他の式神だけで挑むのは分が悪い。
一、複数人での調伏の儀は無効になるが、様子見で呼び出すなら五条家を巻き込め。茈なら当たる。反転術式が使える無下限呪術師がいい。
一、当代が殺されて向こう数百年は犬猿の仲だろうが、禪院家に報復はするな。意味がない。価値のないことは語り継ぐな。
一、もしできたら、__は俺の墓に入れてくれ。あんな非道い家には帰してやるな。
一、じゃあ後はよろしく。__、行こう。大丈夫だよ、これからもずっと一緒にいてやるから。
それだけ仰ると、当主様はすぐに亡くなられました。辺り一面の地は大きく抉れ、木々がたくさん倒れておりました。まこら、が何を指すのかはわかりません。私めが着いたときには、すでに両家当主様しかいらっしゃりませんでした。慶長年間の御前試合の出来事でございます。』
7.
年末には大学病院で眠る津美紀を二人で見舞って、年が明けてからは一緒に氏神様を詣でに行った。
そうして季節が巡って、春が来た。
「なんで五条家と禪院家が仲悪いか知ってる?」と五条悟が言った。この人が何かを言い出すのは、いつだって唐突だった。
春一番の柔らかな風が吹いた日だった。津美紀が倒れてから、もうじき一年が経つ。暖かな陽気に身を委ねて、五条悟は縁側の長椅子に寝そべっていた。
「たしか、当主同士が殺し合ったんですよね。六眼持ちの無下限呪術の使い手と、俺と同じ十種影法術師」
「あれ、この話を恵にしたことあったっけ」
さてどうだっただろうかと伏黒恵は考える。誰かから聞いたような気はするが、五条悟からではなかったかもしれない。こんなデリカシーに欠ける話題を吹っかけにくる人物も他に思い浮かばないが、確かにどこかで聞いた覚えだけはあった。
「まあ、恵の言った通りだよ。江戸だか慶長だか忘れたけど、その時の当主同士が、御前試合で本気で殺り合って両方死んだの。五条家当主は僕と同じ六眼持ちの無下限呪術使いで、禪院家当主は恵と同じ『十種影法術』の使い手だった」
知っている。当主たちは御前試合の最中に亡くなった。残されていた女中の手記資料から考察するに、禪院家当主が五条家当主を魔虚羅調伏の儀に巻き込んだはずだった。
「僕の言いたいこと、分かる?」
「いえ、わかりません」
試すような顔には、乗っかってなどやらない。お互いに、当時の当主たちと同じ能力を持つ者同士だ。五条悟を凌ぐ呪術師となるだけの下地は整っている。自分を越えてみせろ、とでも言いたいのだろうと思った。
「俺は五条家の人間でも、禪院家の人間でもありませんから。背負うものなんて何もない」
当時の当主たちが、何に追い立てられて御前試合で殺し合ったのかはわからない。どのみち、自分には何もない。唯一特別だった人は今なお眠ったままで、取り戻す手立てすらわからない。
「だから好きに使ってください。アンタを倒せる呪術師に育てたいなら、別にそれでもいいけど。俺はアンタの敵には回らない」
クリスマスイブに起きた新宿京都百鬼夜行の後、五条悟は約束通り生きて帰ってきた。呪術規定に基づき首謀者を処刑したのは、五条悟だったと聞いた。処刑された呪詛師はかつての彼の同期で、親友だった。特別を殺して何もかもが平坦になった世界で、それでも五条悟はちゃんと、この家に帰ってきた。
「俺は、これからも五条さんの隣にいますから。アンタが今まで、ずっと俺の傍にいてくれたみたいに」
思えば何をしても、この人は必ず自分の元に来てくれた。熱を出して小学校の保健室で拗ねていたときも。中学の生活指導担当に殴られて、校長室で頬を腫らしていたときも。深夜に隣町で補導されて、警察署でぶすくれたまま飴を噛んでいたときも。
どうせ飽きていなくなる。すぐに愛想を尽かして来なくなる。そんな思いから何度も振り回してしまって、今まで悪かったなと思った。彼に割り振られる任務の量も難易度も、また教員免許取得のための勉強との両立が大変だったことも、恵はしっかり気づいていた。でも、あのときは自分と津美紀が生きていくことを考えるだけで、精いっぱいだった。
急にこんなことを言い出したのだから、当然からかわれると思った。けれども黒くて丸いサングラスの奥で、五条悟の宝石のような六眼は、真っ直ぐに恵を見据えていた。
「じゃあ、そうだな。握手しようよ、恵。これからもよろしくね」
脈絡もなく差し出された大きな手のひらを、素直に握った。
四月から入る東京都立呪術高等専門学校の一年の受け持ちは、この人がやるのだと聞いた。誰にどんな我がままを通したのかは知らないが、素直に良かった、と思ったのを覚えている。
「こちらこそ。これからもよろしくお願いします、五条先生」
初めて呼ばれた敬称に、五条悟がくすぐったそうに笑った。