第57回目【おんぶ】

「何か言うことは?」
「お忙しいところ俺の不始末を片付けていただきありがとうございました」
「それだけ?」
「歩けなくなった俺を背負っていただき感謝しています」
「この件についてどう思ってる?」
「足首がとても痛いなと思ってます」
「まあ、捻挫だからね」
 それから五条さんは「小学生の感想文じゃないのよ」と笑った。

 自分で歩けます、と二回も意地を張って、二回とも数歩と進むより前に、痛みに耐えられずへたりこんだ。そんな俺を珍しく置いていくこともせず、五条さんはぐるぐると目元に巻きつけた包帯越しに、じっと見下ろして待っていた。
「だから背負ってやるってば」
 仏の顔も三度までだと五条さんは言った。この人が仏なわけあるもんか。内心ではそう毒づいたものの、さすがに最後通牒の雰囲気を察して、差し出された手を渋々取った。三度目はないというこの人の言葉は本気だ。ろくに明かりもない村里で捻挫したまま置いていかれても死にやしないだろうけれど、自分を粗末にするやつなんていらないと、今度こそ本当に見放されるかもしれない。そうしたら親のいない俺と津美紀は瞬く間に路頭に迷って、最低限の人間らしい生活すら営めなくなるのが目に見えていた。
 そういう事情があって俺が逆らえないことを、五条さんだって知らないはずがない。馬鹿みたいなしょうもない意地を張って二人分の人生を捨てられるほど、さすがに俺はイカれていない。ただそのどうにも覆せない優位性すら盾に取られたような気がして、無性に腹が立った。

 広い背中におぶられて、遠く離れた麓の明かりへと下っていく。
 またこの人に頼らざるを得ない自分が嫌だった。もう十分すぎるほど借りを作ってしまっている。俺と津美紀を引き取って、呪術高専からの資金援助を通してもらった。それから今に至るまでの七年間、ずっと保護者みたいに接してもらっている。
 俺が何かにつけて突っぱねて噛みつくようになったのを、五条さんは反抗期が来たと言って囃し立てた。この感情をそんな簡単な言葉で片付けられたことにまた腹が立って、絡んできた中学の不良を全員伸して体育館の横断幕の上に吊るしたら、それがバレて五条さんにどやされた。一週間前の出来事だ。担任さえ黙っていればせいぜい事件を聞きつけた津美紀から小言をくらう程度で済んだだろうに、よりにもよってあの無能は、五条さんを中学まで呼び出しやがったんだ。
「非術師相手にくだらないことすんな」
 焦っていた。日々どんなに食らいついても上手くいかなくて、五条さんの求めるものに追いつけていないことを思い知らされる。そのわだかまりの捌け口が、自分がまだ優位を保つことができる非術師へと向けられていくことすら、五条さんはきっと見透かしている。
 課題として与えられていた式神調伏のペースはまずまずで、手数は徐々に増えている。高専に入るまでには鵺も手懐けられるだろう。でもそれじゃあ全然足りない。
 五条さん同伴、という建前で連れ出されるようになった任務は途中リタイアばかりで、満足にこなせた試しがない。ずるずると長引く任務に痺れを切らした五条さんが、いつも気まぐれに手を出して終わらせてしまう。今日だってそれで焦ってしまって、しなくてもいい怪我をした。五条さんのせいだ。
 それは違うと内心ではわかっているからこそ、その言葉は吐き出せない。
「っ、五条さん」
 揺れた背中に雑に抱え直されて、捻った足首に痛みが走った。
「何?」
「足、いたい」
「あれ、ごめん。触っちゃった?」
 違う、とかぶりを振る。痛みを紛らわせたくて、殴りたかった背中にしがみついた。
 五条さんが歩くペースを落とした。捻挫した右足は革靴のなかでパンパンに腫れている。全身ボロボロだ。学校帰り、着替える暇もなく連れ出されたから、制服も革靴も泥まみれだった。
「これは最終電車は無理かな」
「術式で飛ばないんですか」
「さすがに怪我人を背負っては飛べないよ。悪化させたら困るもん」
 つまりは俺が怪我をしたせいで終電を逃して、日帰りだったはずの任務が宿泊を伴うものに変更になったということだ。クソ、と背中に隠れて悪態を吐いた。
「まあ、本当は今日のは泊まりにしてもいいって上から言われてたんだよね。こんな何もない田舎で時間くっても仕方ないから帰るつもりでいたけど、出張費も出るんだし、ゆっくりしてこ」
 不貞腐れた気持ちでは、それは俺への当て付けのようにしか聞こえなかった。
 一時間ほど何もない山道を下って、ようやく麓に到着した。とうに本日の受付の終わった宿泊施設での交渉を経て、どうにか今晩の宿が決まった。少し待ってから通してもらえた和室で、五条さんに言われるがままに畳に寝そべって、負傷したほうの足を積み上げた座布団に乗せた。そういえば体育だか保健だかの教科書でこんな手当ての仕方を見たなと思ったのは、五条さんが宿の人から氷嚢をもらってきた後だった。
 しばらくはこのまま安静にしてな、と言った五条さんの処置は手慣れていた。
「アンタ怪我なんかしないだろ。なんでこんなことまでできるんだよ」
 これで「僕最強だから〜」なんてふざけた答えが返ってきたら、もう呪術師なんて辞めてやろうと思った。五条さんだけいればいいだろ。攻守ともに最強で、自分の怪我も治せて、呪力だって無尽蔵に等しい。完全無欠だ。できないことがない。
「本読んで覚えたよ」
「……なんで」
「僕は怪我なんてしないし負けもしないけれど、僕じゃない人間はみんな弱っちくて、怪我するし、すぐ死ぬから」
 どかりと腰を下ろして、五条さんは宿の人が淹れていった緑茶を啜った。一応は温泉地らしく、机の上には小さな生菓子が置いてあった。
 五条さんはその包装を剥がして、もぐもぐと食べ始めた。美味い美味い、とわざとらしく言うのですら俺を煽っているように思えて、黒色のぐちゃぐちゃとした感情が、腹の底に溜まっていった。
 前から言おうと思ってたんだけど、と前置きをして五条さんが言った。
「別に恵が僕を嫌うのは自由だよ。むしろ僕のことを恩人か何かだと思ってしまって、いざというときに下すべき判断が鈍るようなことなんてあってほしくないから、全然気にしない」
 また説教かよ。逃げ場のないせめてもの反抗として瞼を硬く閉じた。大人しく聞くと思われるのは嫌だった。視覚情報を遮断した暗闇の中に、五条さんの声が流れてくる。
「でも任務に私情を持ち込むな。僕のことは嫌いでいい。けれど誰と組もうが、それを理由にパフォーマンスを下げるな」
 再び目を開けた。真上には照明があった。うちにあるのと同じような和室用の、木製の四角い傘が付いていた。ゆらゆらと揺れる紐を眺めながら、今日の出来事を思い返した。
 はいどうぞ、とファミレスの注文品提供くらいの気軽さで五条さんからあてがわれた呪霊は二級だった。別に、五条さんとの任務が嫌で手を抜いたわけじゃない。きちんと自力で祓うつもりで対峙したはずが、気づけばどう足掻いても劣勢な状況に追い込まれてしまった。このままだとまた、五条さんに祓わせてしまうことになる。そんな焦りで気が散って、しょうもない怪我をして、任務続行不能に陥った。痛みで身動きが取れなくなった俺に、五条さんはこれ見よがしにため息を吐いた。それからその場から一歩も動くことなく、指先ひとつですべて祓ってしまった。それがとても悔しかった。
「……嫌いだなんて言ってない」
「でも嫌いだろ?」
「そんなことない」
 うーん、と五条さんが首を傾げる。
「そのわりには恵、最近僕への当たりがキツいじゃん」
 そう思わせてしまったことに、ちくりと胸が痛んだ。でも素直に謝るのは嫌だった。
 五条さんはそれ以上会話が続かないことを察すると、しれっと俺の分の菓子の外装を外して、何のためらいもなく齧りついた。咎める視線に気づいたのか、齧りかけのそれを差し出された。
「食べる?」
「要りません」
「そ。じゃあ遠慮なく」
 最初から遠慮なんてしてなかったくせに。内心そう吐き捨てて、それからじくりと疼いた右足首の痛みに顔をしかめた。
「僕に助けられるのがイヤ?」
「別に、そんなんじゃない」
「何がそんなに気に食わないの」
「何もかも全部」
「ガキじゃん」
 ガキで何が悪いんだよ。
「これでも何もわからないなりに、手探りで頑張ってんのよ、僕」
「何をですか」
「何って、子育て?」
 五条さんは至極真面目な顔でそう言い放った。
「子供のお菓子を勝手に食べる親がいるかよ」
「これは恵が要らないって言ったんだもん」
 言う前から食ってただろ、とわざわざ言い返すのも馬鹿らしく、かといって黙ったままでいるわけにもいかなくて、しかめっ面のまま舌打ちをした。それが自分の取りたかった行動では全然なかったことに気づいたのは、チッ、という汚い音を自分の口から聞いたあとだった。釈然としない、靄掛かった気持ちだけが後に残った。
「焦んなよ若人。恵が思っているより、恵はちゃんと成長してるよ」
「わかってます」
「はっ、生意気」
 嫌われていると思わせたいわけじゃない。何ひとつとして上手くいかないことを、本当にすべて五条さんのせいだと考えているわけでもない。
「……今日のこと、すみませんでした。本当は日帰りで終わるはずだったのに」
「いいよ。久しぶりに恵と腹割って話したいと思ってたし、ちょうど良かった」
 ヘラヘラと笑った五条さんは、いつのまにか浴衣に着替えていた。じゃあ、温泉入ってこよ〜。そう言ってアイツは一度も振り返ることもせず、当然のように俺を置いていった。
 前言撤回だと、届かない背中に舌打ちをした。