「十六って、俺が女だったらもう結婚できる歳ですよ。子ども扱いはやめてください」
何気なく放ったその言葉を聞いた五条さんは、面食らったような、あるいは半笑いとも困惑ともつかない、何とも曖昧な表情をした。夜に高専での彼の居室を訪れて、ちょうど一本分の映画を観終わったときのことだ。
もう寝るからちゃんとトイレに行っておいで、と教員寮内の居室に備え付けられた個室を指差されたのを発端に、「俺もう十六です」「それがどうしたの」と全然響かない様子のこの人の手のひらをちょっと抓っただけだ。
五条さんは未だに俺に対して、寝る前はトイレに行けだの、腹をしまって寝ろだの、仕上げの歯磨きはいるかだの、今どき朝の教育番組の歌でも取り上げられないだろうことまでとやかく言ってくる。だから、子ども扱いはやめてほしいと伝えた。出会ってから九年、もう付き合ってからだって半年が経つのに、未だに初対面の頃のような、小学校低学年の子にするような扱いを受けるのは納得がいかない。俺は寝る前にはちゃんと用を足しているし、腹もしまうし、歯磨きだってしっかりできる。なんなら、このあいだ虫歯が見つかって泣いていたのは五条さんのほうだというのに。
「ねえ五条さん、聞いてます?」
触れたままだった手を、ぎゅっと握る。五条さんは落ち着かなさそうに視線を彷徨わせて、もごもごと何かを言った。触れている手がじっとりと熱を持つ。
「えっと、恵。それは、……つまり、そういうことだって、捉えていいんだよね?」
「むしろそれ以外に何かありますか?」
そういうことも何も、いったい他にどんなことがあるのか。俺がもう高専一年で、年末に誕生日を迎えて十六歳になったことを、五条さんが知らないはずはない。あるいは結婚という単語について、何か思うところでもあったのだろうか。
「あのね、恵」
五条さんは掠れた声で、喉奥から絞り出すように俺を呼んだ。こんな焦燥の浮かぶ表情は、滅多に見られるものじゃない。熱い手のひらが、腰に触れるように置かれた。吸い込まれそうな瞳が、じっと俺だけを見ていた。
「こう見えても僕、ものすごく我慢してんの。だからね、恵がもし僕をからかっているだけなら、そういうのは本当にやめてね」
「からかってないです。別に、我慢なんてしなくていいじゃないですか」
ごくり、と生唾を飲み込む音が、静かな部屋のなかでいやに大きく聞こえた。いつのまにか抱きかかえられて、浅い呼吸に喘ぐ五条さんの喉元が目の前にあった。珍しく緊張した様子に、こちらまで落ち着かない気持ちになる。
俺はただ、ちょっと都心へ出掛けるのにもわざわざついてこようとしたり二十三区内まで迎えにきたり、寝る前にあれこれと確認されたり、といった類の、子どもにするような扱いをやめてほしいと思っただけだ。そんなに我慢していたのなら、別に無理して続けることもないと思う。確かに、何か粗相があれば、迷惑が掛かるのは俺の後見人である五条さんだけれども。
「他の十六歳に接するみたいに、俺とも接してほしいんです」
もう一度そう告げると、大きなため息を吐かれた。俺を抱えていた腕が離れていく。
「恵は変なところで鈍いから……絶対に勘違いしてると思うから言うね」
そう前置きしたくせに、五条さんは続くはずの言葉を言い淀んだ。普段は何事もズバズバと言うくせに、ここまで歯切れが悪いのも珍しかった。
「えっと、子ども扱いしないでっていうのはつまり、僕とセッ………あー……性的な、その、淫らなこと…ううん、もはやそれ以前の問題か。僕とキスしたい、してもいいよ、とかそういうつもりで言ったわけじゃないんだよね?」
「いえ、出掛けるときにいつも行き先や帰宅予定を連絡させられたり、寝る前にちゃんとトイレには行ったかとかお腹はしまったかとか聞かれたりとか、仕上げの歯磨きとかそういう、……別にキスなんて……?」
そこでようやく、何かがおかしいことに気が付いた。根本的に何かが噛み合っていない。
「は? ……キス?」
この人はさっき何て言った?
いったい今まで、何の話をされていたのか。理解した途端に、先ほどまでの五条さんの熱っぽい視線にも、熱かった手のひらにも意味が乗ってしまって、羞恥心が湧き上がる。
今までキスすらしたことのない、恋人関係にある人と二人っきりの空間で「子ども扱いしないで」と伝えることが、いったい何を意味するのか。
「これは、違います、すみません、えっと」
「大丈夫、わかってる、わかってるよ。僕はいつまででも待つから。別に急かしたくて言ったわけじゃない」
五条さんも俺もしどろもどろで、持ち上げられた二対の腕が意味もなく何度も宙を泳ぐ。端から見たらさぞ間抜けだろうその光景に、正直、ここが誰もいない空間で良かったと思った。
「でも本音を言うと、世間一般の恋人たちが、何というか、えーっと、………一般的に何をするか、みたいなところは、恵にはちゃんと知っててほしいかな」
割れてしまった大人の仮面を繕うように、五条さんはぎこちない笑みを浮かべて言う。
「十三歳も年が離れてるとさ、自分が同い年くらいのときにどうだったか、なんて全然思い出せないんだよ。当時の自分が今と全然変わらないような気さえしてしまうから、もっと、もっと子どもと接するくらいの気持ちでいなきゃいけないなって。だからきっと実際よりも、僕は恵のことをずっと年下扱いしてると思う。傷つけたくない、なんて聞こえのいいことを言うつもりはないけど、大事にしたいとは思ってるから」
それから、五条さんはへにゃりと眉を下げた。直前までの物分かりの良い大人の振りで塗り固めた面が、ぽろぽろと剥がれて落ちていくようだった。
「でもごめん、我慢はできそうにないから、ちょっとトイレ。すぐには戻ってこないと思うけど、様子とか見にこなくていいから。しばらくそっとしておいて」
「え、大丈夫ですか。お腹痛いのに引き止めてしまってすみません…」
「ほら、そういうところだよ!」
五条さんはビシッと俺に指差してから、さっさと扉の向こうに消えてしまった。その一連の言葉が意図する行為にようやく思い当たったのは、それからそこそこの時間が経ったあとだった。
我慢してる、とかキスとか性行為とか。
しばらくそっとしておいて、と言った五条さんが、その情けない表情の下で何を思っていたのかを理解して、途端にいたたまれない気持ちになった。
もう十六歳だ。当然何も知らない、分からない、なんてことはない。ただそれが現実の世界でのやりとりとうまく結びつかないのは、きっと、五条さんが俺にそんな劣情を抱いていることについて実感が持てていないからだ。
この半年間で何もなかったのは、結局五条さんは俺に親友のような関係を求めているからだと思っていた。手を繋いで一緒に映画を観たり眠ったり、ハグしたり、出かけたり。それでも十分だったから、それ以上のことを望もうとはしなかった。
今からそこのトイレの戸を叩いて、中でいちばん空虚なことをしているだろう五条さんの胸ぐらを掴んで、キスもその先のことも好きにすればいい、とでも言ったらいいのだろうか。それこそ子どもみたいだ。でも大人らしく誘う方法なんて知らないし、経験もない。
好きです、とつい口走ってしまった半年前の勢いなど、とうに思い出せない。あのときはこんなことで悩むなんて想像すらしなかった。熱くなった頬を抱えてみても、妙案はひとつだって浮かんでこない。
結局、自分だけではまだ何もできないんだ。子ども扱いするな、なんてよく言えたものだと思った。