「恵って、付き合ってからすごく甘えたになったよね」
「そうですか?」
「そうだよ」
うーん、と独り言かもわからない声が肩のあたりから聞こえてくる。二人暮らしのソファの上、三人掛けのうんと広い座面の端に僕がいて、横に恵がぴたりとくっついている。しばらく忙しかった案件が落ち着いたから、積んだままだった新刊にようやく手が出せるらしい。文庫本を片手に持って、顔は斜め。その頬が、テレビを観る僕の肩に乗せられている。
「五条さん、ボリュームもうちょっと落として」
「だいぶ絞ってるよ」
「でもまだ大きい」
恋人なんだから敬語はやめてよと言った僕の言葉を気まぐれに思い出すのか、恵は気安い口調でそう言った。なんやかんやで恵は二十歳と僕は三十三歳、もう十四年もの付き合いにもなるわけだけれど、いくつになっても好きな子の我が儘は可愛く思えてしまう。
「ね、お願い、五条さん」
「もー」
芸人の漫才バトルの最中だったテレビに向けて、渋々リモコンのミュートボタンを押した。騒々しかった音声が瞬時に消えて、男二人が棒立ちで会話を繰り広げる静寂を眺める。うーん、何もわからない。漫才は絵面がおもしろいようには出来ていないんだ。
「めぐみぃ」
「なんですか」
「僕温かいのが飲みたいな」
「俺も飲みたいです」
恵が本に目線を落としたまま言った。肩に乗せられた頬が、ねだるようにするりと揺れる。
「五条さん、ホットミルク淹れてきて」
「ひどーい、そんな仕打ちってある? 僕はこんなにも恵に尽くしてるのに?」
「こんなにってどれくらい?」
「リアタイしてたMー1決勝の音声を消してあげるくらい」
「それはちょっと、俺のこと好き過ぎますね」
読んでいた箇所に軽く指を挟んで、恵がようやく顔を上げた。けれども投げ出されたままの栞に手が伸びる気配はない。ちらりと目が合って、恵がじゃれつくように寄りかかった。こいつ、梃子でもここから動く気がないな。さすがに文句のひとつくらい言おうとした僕の頬に、唇が寄せられる。あ、キスされる。でも頬っぺたへのキス程度じゃ、これ以上の我が儘は聞き入れてやらない。
肩に手が乗った。体重が掛かって、僕が傾く。頬に恵の吐息が触れた。
ぱかり、がぶり。やってきたのは想像と違う感触で、思わず素っ頓狂な声が出た。
「は、なに!? 噛んだ!?」
「俺も五条さんのこと、取って食いたいくらい好き」
面食らったままの僕をくすくすと笑って、恵が読書へと戻る。負けました、完敗だと僕の中で白旗が上がる。恋愛は告白したほうが負けというのは、いったい誰の言葉だったっけ。いつか誰かにこの子を取られるくらいなら、と先に手を出したのは僕のほうだ。大前提として勝ち目なんかないってわけだ。
渋々立ち上がってキッチンに向かった。恵の声が僕の背中を追いかけた。
「俺のは甘くしないでくださいね」
「はいはい」
冷蔵庫から牛乳を取り出して、二人分のマグカップに注いだ。それから電子レンジに放り込んで、程よく温まるまでを待った。
恵は僕がついさっきまで座っていた場所に頭を乗せて、くるりと身体を丸めて読書に勤しんでいた。暖かいんだろうな、僕が座っていたところ。
「恵、そこ退いて」
「ん」
湯気の立つマグカップをふたつ手にしてソファへと戻る。片方ははちみつと砂糖とコンデンスミルク入り。もうひとつはストレート。どっちを手渡してやってもいいんだぞと内心で息巻く僕をよそに、恵は中途半端に起こしていた身体を僕の膝に乗せた。膝枕というやつだ。
「五条さん、飲ませて」
「いい加減にしなさい」
咎める声にも、恵は怯まない。
見上げていた恵が寝返りを打って、僕の腹のほうを向いた。髪の毛がもぞもぞと当たってくすぐったい。
「ねえ、いいでしょ。飲ませて」
恵の興味はどうやらすでに僕に移った後らしかった。あれだけ切望していたはずの文庫本が、栞とともに傍らにうち捨ててあった。もう、甘えため。そっと脇に手を入れて、抱え上げた身体を膝に乗せる。恵は楽しそうに笑って、僕の頬へと唇を落とした。