Pixiv投稿タイトル:『本誌最新話読みました!?』
行ってこーい、と軽い調子で送り出してやると、恵は振り返りもせず、山道をてくてくと歩いていった。ああいう子供のことを歳のわりにしっかりしていると言うんだろうな、とその小さな背に似合わない振る舞いを見ていて思う。小学一年生の平均身長は一二〇センチ程度らしいけれど、恵にそれくらいの背丈があるのかはまだ知らない。知っているのは、あのツンツンの髪の毛の先を含めたって、まだ全然僕の腰にも届かないこと。それから僕を殺せるくらいの術式を持って生まれたこと。でも初めに与えられる二対の式神の、まだ片方を出せるだけの呪力しかなくて、疲れるとすぐに寝落ちて僕に抱えられてしまうこと。
「待ってよ。うそうそ、僕も行くって」
掛けた声は無視された。隣を歩く玉犬がなんだなんだと興味津々で振り返ったのだから、その隣の小さなご主人様に、僕の声が届いていないはずはない。
「めーぐーみー」
アオンと式神が返事をした。大きな爪がアスファルトにぶつかる小刻みな音が、チャッ、チャッ、と緩む。ごめんってば、君じゃないんだよ。隣のご主人様を呼んでおくれ。
僕の意を汲んだかのように、玉犬の額の柔らかな毛が、甘えるように恵に擦れた。めぐみ、よばれてる、うしろ、あのひと。もしその大きな白い毛玉に人の言葉が喋れたのなら、きっとそんなことを言ったに違いなかった。
やれやれとでも言いたげな顔が、ゆっくりと振り返った。十二月の山にも耐えられるような厚手の上着に、斜め掛けのショルダーバッグ。これらを買い与えるときにも、僕に借りを作ったなんて思うなと恵にはきちんと言い含めてあった。僕が買ったのはこの子の影法術の術式だ。だから恵が僕のために働く代わりに、僕は恵に働いてもらうために必要な全てを与える。これは対等な取引なんだ、って。
恵は今に至るまで、律儀にも僕に言いつけられた通りに振る舞っている。だから他のやつらみたいに僕に媚びへつらうような真似はしないし、こんなときだって本当にそっけなくて、本当に、本心からめんどくさそうな顔をしやがるんだ。
「なんですか」
「僕も一緒に行くよって言ったの」
「聞こえてますけど」
「聞こえてたら大きな声で返事をするの。学校の先生からまだ教わってない?」
む、という顔だけをして、恵はやっぱりスタスタと歩いていった。白が少し気まずそうに僕を見やったけれど、すぐに恵の隣に戻っていった。
「じゃあ、恵はそっちで雑魚そうなやつら祓ってきて。僕はこっちの強いの片付けるから、終わったらここ集合」
「わかりました」
素直にも、さっきよりも数段大きな声がちゃんと返ってきた。おもしろいんだよな、こいつ。からかい甲斐もあるし。まだ半年ちょっとの付き合いだけれど、コミュニケーションの手応えは悪くない。
「闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
念のために帳を下ろして、恵とは山の中腹で二手に分かれた。強いやつ、とは言ったけれど、恵にとってはまだ強すぎるというだけだ。所詮は三級程度の雑魚呪霊をパパッと祓って、合流地点で恵を待った。
恵は小一時間ほどで戻ってきた。目立った怪我どころか、ほとんど土埃すらつけずに帰ってきたのは上出来だ。時間は掛かったけれど、丁寧にやってこの結果なら悪くない。これなら日が暮れる前に下山もできるだろう。素晴らしいね。てくてくと相変わらずの調子で寄ってきた恵に手を伸ばそうとして、ふと先日の光景を思い出した。
そういえばこいつ、他人に触られるのを嫌がっていた。
恵は津美紀、という義姉のために僕の元で呪術師になる道を選んだも同然だったけれど、そんな家族愛なんて全くもってどこに行ったんだというくらい、結構容赦なく津美紀の手をはたき落としていたことがあった。あのときの津美紀は撫でるというよりかは、恵の肩か腕に触れようとしていたように見えたけれど、パシッと鳴った音とともに鋭く発された『触るな』に、津美紀も僕もたいそう驚いたものだった。
恵は津美紀を守りたいんだから、お姉ちゃんに弟扱いをされるのは嫌なのかもしれない。わかんないや。でも僕へは対等に振る舞えとは言ったけれど、さすがに恵が僕に対して、津美紀にしたのと同じように、僕の手を振り払うことができるとは思えなかった。伸ばしかけた手は適当に誤魔化した。宙ぶらりんになった手で頬を掻きながら、恵を出迎えた。
「五条さん、終わりました」
恵はそこそこ疲れているように見えたけれど、その瞳の奥には達成感というか、がんばりましたと言わんばかりの、ちょっと誇らしげな光があった。
「おかえり、ちゃんと祓ってこれたね。いい感じじゃーん」
恵は僕のそばでぴたりと歩みを止めて、しばらくじっと待ったあとに、あれ、という顔をした。なんだろ、これはあんまり見ない表情だった。
「どうかした? おねむなら、また寝落ちる前に言ってよ」
こうして任務に連れ出すようになってすぐの頃みたいに、歩きながら急にすてんと倒れ伏されると、いくら僕だって肝が冷えるんだ。ただの呪力切れだと分かるまでは内心結構焦って、駆け込んだ高専で硝子にも散々笑われた。お前の六眼はお飾りかよ、とまで言われた日には、三日ほど口をきかなかったくらいだ。確かに冷静になって六眼で確認していれば、恵の呪力がすっからかんになっていたことくらい、一発でわかったはずだった。でもそれができないほどに、あのときは動揺してしまったんだから仕方がない。
「もしもーし、めぐみくーん? 起きてますかー」
「……なんでもないです」
絶対に何でもなくはなさそうな表情を浮かべたまま、恵は隣に連れ立つ式神へと手を伸ばした。当てつけのようにぎゅうと抱きしめて、いつもよりも丁寧に、というよりは執拗に撫で回した。よしよし、と労わるように、優しい手つきで首元から頭までを何度も撫でる。腕の中の白も、心なしか困り顔だ。
恵、どうしたんだろね。目線だけで問いかけると、獣はフンと鼻を鳴らした。式神と使い手は繋がっている。僕には全くわからないけれど、玉犬は何かを感じ取っているはずだ。その白がぶるりと身を振って、恵の腕の中を抜け出していった。
あ、と聞こえた小さな声は寂しげだった。僕は少し迷った末に隣にしゃがんで、さっきは引っ込めてしまった手を恵に伸ばした。たった今恵が玉犬にしてやったみたいに、今度は僕が恵を抱きかかえて、その頭を撫でた。
「よーしよしよしよし、恵もよく頑張りました〜」
ちょっと大袈裟に振る舞えば、恵だって払いのけやすいだろう。一度きっぱりと嫌がられたら、さすがの僕だって二度はやらない。そんな思惑とは裏腹に、恵はじっと目を瞑って僕の手を受け入れた。
あれ、嫌がらないんだ。髪をくしゃくしゃにされて、不満げな顔はどことなくわざとらしい。止めるタイミングを見失って、僕はしばらく恵の、手のひらに収まるほど小さな頭を撫で続けた。なんだろ、どうしよ。もっと頬っぺたとか肩とか撫でてやったほうがいいのかな。でもそれはさすがに、俺は玉犬じゃないって怒られそうだ。
さすがにもういいやと思ったのか、恵は少し経つと僕の手を頭の上から外した。代わりに白がやってきて、鼻先で僕の背中を何度もどついた。
「えっ、な、なに? これ絶対『撫でて』の催促じゃないよな!?」
隣では恵が、こらえきれないというふうに笑っている。こんな心の底から笑うような姿を見るのは初めてだった。
「めぐみ、笑ってないでこの子止めてよ」
くすくすと声を漏らしたまま、恵が玉犬を呼び寄せた。式神は白い毛をふわふわと揺らして、大人しく主人の隣に戻っていった。
山を降りて最寄りの駅に向かうまでのあいだじゅうずっと、白は恵に寄り添って歩いた。僕はそんな二つの影の少し後ろを着いていく。これだけの身長差があるんだから、僕が本気で歩いたら、恵のことなんてすぐに置いていける。でも僕はそんなことはしないし、でも恵は遠慮なく僕を置いていく。
日が傾いて、遠くの街並みはすっかり夕暮れに染まっていた。ほんの一瞬だけ景色に気を取られたあいだに、パシャリ、と水音とともに白が影に戻っていった。これはあの小さな呪術師くんに活動限界が来た合図だ。案の定、前を歩く恵の足が、何もないところで何度かもつれた。
「めーぐーみー、駅まであともうちょっとだから、がんばって歩いて」
「ん……」
「寝た?」
「まだねてない……」
「目がもう開いてないよ」
「あいてる……」
どんどん歩く速度が落ちていくから、すぐに僕との距離が詰まっていった。次第に返事も来なくなって、とうとうカクリと頭が落ちる。歩きながら寝るなんて、器用なもんだ。
地に崩れかけた身体を襟首ごと掴んで、ひょいと腕に抱え上げた。おきてる、と呟いたのはきっと寝言に違いなかった。恵は僕に身を預けたまま、すうすうと寝息を立て始める。
伏黒無級術師、入眠。いや、初級術師のほうがいいかな。伏黒初級術師、入眠。今日の報告書を締める言葉を考えながら、ずり落ちそうだった小さな身体を抱え直した。温かな恵を抱えたまま、僕はひとり、緩やかな坂を下っていく。