高専初日のめぐの話

「入学したらね、まずここで自分の墓の場所を選ぶんだ」
 だだっ広い高専の敷地の北西のはずれ、入学の諸手続きを終えたばかりの俺を連れて出した五条さんは、墓石がまばらに並ぶ一画を指差した。斜面の多い敷地の中で、ひらけたその土地は綺麗に整備されていた。
「つまり常に死を思えってこと。呪術師なんて職業柄、いつ死ぬかもわからないからね。だから入学してきた子たちを初めにここに連れてきて、墓所を選ばせるの」
 そこは日が差して、おだやかな場所だった。新緑のさわやかな気候に撫でられて、澄んだ自然のこだまが四方から聴こえてくる。
「好きなところを選んでいいよ。もちろん、生きているあいだなら、いつだって変えることもできる」
 伏黒恵、と明朝体で刻まれた白い小さなプレートを手渡されて、背を押された。相変わらずの黒ずくめにアイマスクをした五条さんは、何を考えているかわからない。大海に放たれた養殖魚のような気持ちで、霊園を歩く。
 高専の敷地内という場所が特殊なだけで、ここは一般的な霊園と変わらない。通路があって、階段があって、それぞれのブロックの中に、墓所の区画が背中合わせで並んでいる。
 高専を卒業して呪術師になったのちに死んだ者は皆、例外なくここに納骨されるらしい。死後呪いに転ずることを防ぐためにも、そして術式や遺体が悪用されないためにも、呪術師の遺体は、然るべき関係者の手で処理される必要があった。
「墓参りとか、させてもらえるんですか」
 どこに自分の墓を建てられようと、こだわりはなかった。けれどもいつか俺が死んだら、津美紀がここに来るかもしれない。それならなるべく通いやすくて、わかりやすい場所にしてやりたい。
「申し訳ないけど、ここには親族でも立ち入りはできない。遺体も遺骨も高専の結界外には出せないけど、必要なら、よそで墓石だけ建ててもらうしかないね。その代わりと言っては何だけど、ここはうちの職員たちが定期的に綺麗にしてくれているよ」
 想定の範囲内の答えだった。
 そうして墓所の区画選びは、また振り出しに戻ってしまった。入学前に何度か五条さんに連れられて高専に足を運んだことはあるけれど、当然、この霊園にくるのは初めてだった。この広い空間には思い出となるような標も、見知った景色も、まだ何もない。せめて、死んだあとくらいは暖かかくて穏やかなところがいいが、この土地ならどこを選んでも大丈夫だろう。
「ちなみに、五条さんはどこにしたんですか。アンタのもここにあるんでしょう?」
 聞いたところで、その近くが空いているとも限らない。ただ、何があってもこの人の側にいれば大丈夫だということを、この九年のあいだで十分すぎるほど刷り込まれてしまった。今さらそれをどうにかできるわけでもないから、せめて五条さんの選んだ場所を聞いて、その近くにするなり、絶対に鉢合わせずに済むような遠い場所にするなり、判断すればいいと思った。
 五条さんが、くいと目隠しを下げた。逆立っていた前髪がくしゃりと下りる。宝石をはめ込んだような綺麗な瞳が、静かに俺を見ていた。
「五条"先生"ね、恵。これからはちゃんとそう呼んで」
「はい、すみません。五条先生…」
「僕のはあっち」
 おいで、と歩き出した背中を追った。
 今日の五条先生はどことなくよそよそしい雰囲気を纏っていた。ようやく呪術高専の生徒として、この人の元で呪術師としての一歩を踏み出せる日が来たというのに、急にその背中が遠くなってしまったような気さえした。

「最初はねえ、一番高い場所にしてたの。そのほうが日当たりが良くて気持ちいいかなと思って」
 五条悟、と印字された小さな板は、霊園の中央近くにあった。あわよくば、と思っていた五条先生の両隣はすでに埋まっていた。知っている人だろうか、と右隣の区画を覗き込んだ。括られた白いプレートには、『家入硝子』とあった。これはよく怪我をしたときにお世話になっている、あの家入さんだ。
「在学中に、僕の後輩がひとり死んだの」
 通路を挟んで真向かいの区画。五条先生が指差す先には、すでに墓碑が立っていた。『灰原雄』という故人の名前は聞いたことがなかった。五条先生はあまり学生時代の話はしてくれない。知っているのは、家入さんが五条先生と同期だったこと。それからもう一人、唯一無二の親友だったという人がいて、三人だけの学年だったということだけだ。
 灰原雄の隣の区画も、所有者はすでに決まっていた。雑草に埋もれるように置かれていたプレートに刻まれた『七海建人』という名前は、俺もよく知る人のものだった。
「これ、あの七海さんですよね」
「うん。灰原が死んだときに、七海がここに移したんだ。あいつら同期だったから。それで俺らも、……ああ、いや、僕たちも、」
 聞き慣れない一人称を飲み込んで、五条先生が続けた。
「高専三年生で、当時すでに単独任務ばっかりだったからさ、せめて死んだあとくらい賑やかなほうがいいかって、ここに移ってきた」
 ここ、と指差した区画には、まだ何も建っていない。当たり前だ。いつか五条先生が死ぬことがあれば、誰かがここに墓石を作る。そんな日が来ることがあるのかもわからないけれど。
 五条先生の右隣は家入さんだった。あの二人は同期だったから、後輩だという人が亡くなったときに、一緒にここに墓所を移してきた。その家入さんの右隣は空いていた。だから、三人いたという五条先生の学年のもう一人の同期は、五条先生の左隣だろうと思った。
 まだ更地の五条先生の区画を通りすぎて、左側の区画の前に立つ。そこにはすでに、墓が建っていた。
「げとう、すぐる」
 墓石の両脇に置かれた花瓶には、青い花が供えてあった。今日高専に来るまでの道のりで、五条先生が購入したものだった。花の名前は知らない。立ち寄った花屋の店員さんは五条先生の顔を見ると、何も聞かずにこれを用意した。だからきっと、常連なのだろうと思った。
「よく読めたね。さすがに知ってるか」
「アンタの一番の親友、この人だったんですか」
「うん」
「去年の、あのクリスマスの…」
「そうだよ。新宿京都百鬼夜行の首謀者。あいつは三年のときに高専を離反した。呪詛師に堕ちたのは、ここに墓所を移してすぐだった」
 去年のクリスマスイブ翌日の晩、五条先生はうちに来た。津美紀がいつ目を覚ましても気負わないように、いつも通りクリスマスパーティをしよう、と自分で取り付けた一方的な約束を、五条先生は律儀にも守りにきた。その前日であるクリスマスイブに何があったのか、そして夏油傑という男が起こした事の顛末を俺が知ったのは、もう少し後のことだった。だから何も知らなかったクリスマス当日の俺は、やってきた五条先生がどこかくたびれていたように見えたのを、気のせいだと片付けた。
 あの日の五条先生はクリスマスケーキと、俺の誕生日分も兼ねたプレゼントと、それからこれはプレゼントとは別だと言って、古いゲーム機とそのカセットと、映画のDVDを持ってきた。「久しぶりにやりたいなと思って」。そう言って取り出した型落ちのゲーム機には、分厚い埃が積もっていた。これくらい拭いてから持ってこいよ、と悪態をついて雑巾を取りに行った俺の後ろで、五条先生はへらへらと笑っていた。
 五条先生が持ち込んだゲーム機はすでに壊れていた。長らく電源も入れずに、ずっと仕舞い込んだままにしていたからだろう。同じくらい埃を被っていたDVDの中身は無事だったから、クリスマスケーキをひと口ずつ崩しながら、二人で一緒に映画を観た。俺が生まれた少し後くらいに公開された、古い映画だった。五条先生はすでに何度か観たことがあったのか、内容を追うことはせずに、訥々と、自分の高専時代の話をした。画面の中では二人の男性が、一台のバイクに跨って南米大陸を旅をしていた。途中から先生の話を聞くほうを選んでしまったから、映画の内容はあまり頭に残っていない。ただ、二人乗りのバイクに乗ってあてもなく旅をする画面の中の光景が、どうしてか記憶の中で先生の話と強く結びついていた。
「たった一人の親友だったんだ」
 その親友だった男があの、夏油傑だった。それを、五条先生は教えてくれなかった。

「傑は、僕が殺して、焼いて、ここに埋めた」
 夏油傑の墓の前で、五条先生はそう言った。口にした名前に込められた感情は、決して呪詛師に向けるようなそれではない。
 俺が知らないだけで、きっとこの人にも、自分のことを『俺』と言った時代があったんだ。夜通し親友とテレビゲームをして、買い込んだDVDで映画を観るような時代が。クリスマスパーティをして、誕生日を祝い祝われ、海で泳いで、花火をして、砂だらけのまま眠りに落ちるような日々が。

「それで結局、恵のはどうする? 僕の近くがいいなら、裏の区画が空いてるよ」
 五条先生の両隣は、すでに俺の知らない思い出とともに埋まっている。墓所なんて別にどこだって良いと思っていたのに、その空いた区画に身を置くのはためらわれた。今日のどこかよそよそしい先生も、夏油傑の親友だった先生も、自分のことを『俺』と言っていた先生も、俺は知らない。九年間も、一緒に過ごしたはずだったのに。
「近くじゃなくていいです」
「あれ、拗ねちゃった?」
「別に、そんなんじゃないんで」
「寂しいじゃん。これだけずっと一緒にいたんだから、死んでからも近くにいてよ」
 へらへらと軽々しく笑うくせに、五条先生はその埋まってしまった両隣に、決して俺を踏み込ませようとはしない。
 俺には初めからこの人しかいなかったのに、もしかしたらこの人には同じように面倒を見ている子どもが、何人もいるのかもしれない。結局、何も知らないまま、ここまで来てしまった。俺を高専に入れてしまえば、それで先生の役目は終わりなのかもしれないとさえ思った。
「じゃあ、アンタが初めに選んだっていう、一番上のところにします。覚えやすいでしょ。いつか俺が死んだら、アンタが埋めてください」
「それは嫌」
「なんで」
「もう置いていかれるのはこりごりだから。死んだら、自分の骨くらい自分で埋めな」
「無茶言うな」
 それから五条先生は昔選んだ区画を案内すると言って、やっぱりすたすたと先に行ってしまった。その背中は、なんだか怒っているように見えた。

 そうして霊園のてっぺんの、教えてもらった通りの場所に自分のプレートを括り付けた。区画整理のためにピンと張られたロープに、プレートに開いた丸い穴を通して紐をくぐらせるだけだ。外れてしまわないようきつく結んで、それから立ち上がって手を払った。
「すみません、終わりました」
 五条先生は墓の場所を選んで目印をつける俺を、じっと見つめていた。目隠しを下げていても、相変わらずその感情は読めない。あたりは見晴らしだっていいのに、先生は景色には目もくれなかった。
「戻りましょう……五条先生?」
「僕が埋めるの、絶対に嫌だからね」
「わかってます」
「わかってないよ、恵」
 そう言った五条先生は、いつかの夜の五条さんみたいだった。たった一人の親友を殺してから、俺のところにやってきて、少しだけ高専時代の思い出話をしてくれた五条さん。遊ぼうよ、と言って埃だらけのゲーム機を抱えてきたけれど、型落ちしたそれが、とうの昔に壊れていたことにも気づかなかった。
 俺が知っている五条さんと、俺の知らない五条先生。そのふたつが入り混じったまま、先生が俺の腕を掴んだ。わかってないよ、恵。そう言って、何か言いたげな顔をした。勝手に怪我をしたり、無茶をしたりした俺を咎めるときの顔だった。
 その続きが言葉になるまでには、一拍ばかりの間があった。
「こうして入学初日に二人で一緒に場所を決めたな、とか。あのときはこんなにも温かったのにな、とか。そういうのを思い出しながらいつか、ここに独りで戻ってくるの、絶対に嫌だからね」
 一瞬だけ、五条先生の瞳が濡れていたように見えた。
 もう一度まばたきをすると、五条先生はやっぱりいつも通りの顔に戻っていたから、きっと、先生のあの美しい六眼の反射を、涙だと錯覚しただけだ。
「強くなってよね、恵」
 触れたままの腕を力強く握って、五条先生はまっすぐに俺を見つめていた。
「強くなって、ずっと僕の隣にいて。僕より先に死ねると思わないで」
 きらきらと光る瞳に魅入られたまま、口元に触れるだけのキスが落ちる。不思議と、それを嫌だとは思わなかった。
 それから五条先生は「高専入学おめでとう」と言って、俺に下山を促した。全くめでたいとも思っていない、相変わらずの声だった。