1:釘崎野薔薇
「虎杖って、彼女いたことあんの?」
休日の渋谷は今日も混み合っている。ちょうどカフェのテラスから雑踏を眺めるのにも飽きたところだった。私が何の気なしに話題を振ると、向かいでズゾゾと音を立ててストローを吸い上げていたバカの目がきょとんと丸くなった。
「え、何、俺なんかした?」
「聞いてるだけよ。次が詰まってんだから早く答えなさい」
カップの底に溜まった果肉を突き回しながら釘を刺すと、バカの隣で我関せずと読書に耽っていたウニ頭の根暗男がぎくりと固まって視線を上げた。
「何よ」
「虎杖、できるだけ回答引き延ばせ。できればこの席の時間制が終わるまで」
「伏黒ぉ…」
とまあ、今日も今日とて三人でたまの休日を謳歌しに都内に繰り出しているってワケ。本日の大本命だった化粧品も無事に買えたし気になっていた新作のサンプルまでもらえちゃったし、欲しかったワンピースもばっちり似合っちゃったし。それなら靴と鞄も、とあれやそれやと増えてしまったショップバッグを抱えながら、文句を言いつつも買い物に付き合ってくれた冴えない男衆二人を労うために、最近オープンしたばかりだというカフェで遅めの昼ごはんにありついていたのだった。
「んで、虎杖、彼女」
「えぇ……中学んときに一人だけ付き合ったことあるよ。でもなんか違うなと思ってすぐ別れちゃった」
「へー」
「反応薄っ」
「だって普通に想像つくんだもん」
絶対ありそうでしょ、虎杖なら。自分のことを好きになってくれた子が好き、みたいな。好意を無下にできずに付き合って、でも何となく違うなと思って別れて。その後も何となくその子に申し訳ないと思って、かといって他に特別好きな人もできず、卒業するまで結局誰とも付き合わない、みたいな。何となくだけど、後輩から告られたパターンだろうな、と思った。
「年下か?」
同じことを思ったのだろう伏黒が聞いた。
「ひとつ下。『虎杖先輩が好きです』って言ってくれたのが可愛くてOKしちゃったけど、一ヶ月くらいして『本当に私のことを好きでいてくれているのかわからない』って振られちゃった」
ほらな。想像に容易い。
「何だよ」
「アンタは何もかもが予想範囲内なのよ。限界を超えてこい」
「んな無茶言うなって」
ズゾゾ、とまたしても虎杖がコップの底をストローで吸い上げた。足りないならもう一杯頼みなさいよ。いや、もうお腹いっぱいだから大丈夫。三人分お水もらうね。そんなやりとりをして、ウェイターさんにお冷を頼んだのと同じ口調で、ふと虎杖が会話を再開した。思わぬ反撃だった。
「そういう釘崎は東京来る前にこっぴどく振ってそう」
「あんなの付き合ったうちにも入らないわよ」
ついキツい口調で返してしまった。
何事かと目を丸くした伏黒に、ひと言だけ説明を入れる。
「地元の先輩よ」
「でも、このあいだも連絡来てたじゃん」
「もともと付き合ってなんかなかったのよ。向こうが勝手に彼氏ヅラしてきただけで、別に告られてもないし」
全っ然イケてない不良みたいな先輩に割いてしまった時間は、釘崎野薔薇のなかでもダントツに無駄な時間だった。というか本当に付き合っていなかったし。ちょっと何人かで盛岡に遊びにいったりしていたら、向こうのじいちゃんばあちゃんが私のことをいたく気に入って、本人までその気になってしまっただけだ。
ああ、やだやだ。
シケた思い出を振り払いたくて、矛先を変える。
「それで、アンタはどうなのよ伏黒。どうせ東京シティボーイは入れ食いでしょ」
「言っとくけど俺ずっと埼玉だからな」
「東京も埼玉も同じようなもんよ」
「わかんねえけどたぶん青森と秋田くらい違うぞ」
「あー」
「それは全然違うわ」
どう足掻いても秋田は青森には勝てない。なるほどなるほど、と虎杖と一緒に頷いた。まあそれはそうとして、仙台市なんて東北の中でも別格の都会から来たこいつが納得するのも、なんだか癪だったけど。
「バレンタインの日に靴箱にいっぱいチョコが入ってた?」
「調理実習で作った料理を届けにきた女の子がいた?」
「文化祭一緒に回ろうってメールが放課後に来た?」
思い思いの青春像を掲げるたびに、伏黒が気まずそうな顔をする。居心地悪そうにお冷のコップに口をつけてはちびちびと飲み、また口をつける。
「……入ってた。いた、来た」
「「おお!」」
「でも誰とも付き合ってねえ」
「「おおー?」」
意外な男の一面によって、今日一の盛り上がりを見せてしまった。ちらり、と虎杖が目配せをした。侵攻を続けますか隊長、なんて言われた気分だ。まあ待ちたまえ虎杖一等兵。私のばあちゃんの財布の紐かというくらいきつく結ばれた伏黒の口元に、これは撤退の時と知る。勢いに任せてつついたって、こいつは一度言わないと決めたら絶対に言わない。だからここは大人しく話題を変えて──
「ずっと、好きな人がいる」
正直、こいつがこの手の話に乗ると思わなかった。
私があんぐりと開いた顎を戻しているあいだにも、虎杖は遠慮なく掘り下げる。
「それってもしかして津美紀の姉ちゃん?」
「津美紀は家族だバカ。姉貴をそんな目でみるかよ」
それから伏黒は安易に口にしてしまったのを後悔するかのように、ふいと顔をそらした。まるで捨てられることを恐れるような。置いていかれるのが怖い子供みたいな。
前にもこの表情を見たことがあった。アイツがいるときだ。あの長身のいけすかない不審者ヅラを思い浮かべて、ああ、と納得した。
「五条でしょ」
伏黒はちらりとこちらを見ただけで、否定も肯定もしなかった。それから伏黒から回答を得るまでは、私も虎杖もひと言も発するつもりがないことを察すると、観念したように、そう、と小さく頷いた。
「マジで? 俺全然気づかなかった。釘崎よくわかったね」
「見てりゃなんとなくわかるわよ」
それまで居心地が悪そうながらも平然としていた伏黒が、そこで初めて慌てたような素振りを見せた。
「側から見てたらね。あいつは気づいてないわよ、どう考えても」
「先生には告らんの?」
「それ、は──」
歯切れの悪い伏黒を遮るように、テーブルの上に置かれた伏黒のスマホが小さく鳴って、画面が点いた。本当に必要な通知しか表示されないように設定しているらしい伏黒にしてみれば、これは会話から逃げ出すいい口実だった。遠慮なくスマホのロックを解除して、すいすいと指を滑らせて届いたばかりのメールを開いた。
「明日の任務内容に変更だって。五条先生から」
「あれ、そんな連絡来てる?」
「いや、二人にも伝えておいてくれって書いてあるから転送する」
すぐに送られてきた文面に目を通した。挨拶もなく、用件だけが書かれた簡素なメールだった。
「これなら、初めから俺らにも送ってくれればいいのにね」
「どうせ送信履歴で俺が上のほうにいたとかそんなんだろ」
「でもアンタは特別扱いみたいで嬉しいんじゃないの」
「いや別に。こんなのただの事務連絡だしな。個人的なフィードバックとかだったらまあ、嬉しいけど」
手早く返信を打って、伏黒はスマホを置いた。何の話をしていたんだっけ。過ぎ去った話題を蒸し返すような雰囲気でもなくなってしまったから、伝票を持って三人で席を立った。
気だるい昼下がりの空気に伸びをする。これは寮に戻ったらお昼寝かな。いや、数学の宿題が今週提出だったっけ。それから明日の任務の資料も届いていたような。意外と積み上がっていそうなタスクから目を逸らしているあいだにも、日曜日の残りは勝手に溶けていった。
翌日、午前の授業は校庭で一年二年合同の演習だった。真希さんに蹴り飛ばされ、パンダ先輩に投げ飛ばされ。泥だらけになった運動着を脱いで、制服に着替え直して昼食を掻き込んだ。午後はまた任務だった。
「野薔薇も悠仁も、最近よくやってるね。恵を抜く日も近いんじゃない? 」
演習にこそ居合わせなかったものの、どこかから様子を見ていたらしい五条は、午後の集合に顔を出すなりそんなことを言った。
「先生、伏黒もすごかったよ。蛇と蛙とか連続で出しててさ」
「見てたよ。真希に一本取られる寸前で、諦めて動きを止めてたでしょ。舐めてるよね」
思うところがあったのか、伏黒は言い返さなかった。
「恵。昨日送った資料、目通した?」
「すみません、まだ概要しか」
「あ、そう。じゃあいいや」
思えば最近よく、こんなやりとりが続いている。伏黒は、一人だけどことなく扱いが違う。それも猫可愛がりとは真逆の接し方だ。誰に対しても適当かつフランクに話しかける五条にとっては、これもある意味特別扱いなのかもしれないとも思う。けれど、その心意は読めない。五条は嫌いな奴にはとことん横柄に振る舞うけれど、伏黒のことを嫌っているとは到底思えない。ただちょっと変に意識しているようで不自然な感じがする。そんなに冷たく当たるほどのことでもないだろうに、端から見ていても伏黒がかわいそうだった。
「悠仁は七海と任務ね」
不自然な沈黙が訪れる前に、五条が手際良く午後の予定を説明した。
「もう七海が麓で車寄せて待ってると思うから、先行くよ。二人のほうは今最終調整中だから、ひとまずここで待機」
珍しく三人別行動の日だった。虎杖は別の一級術師と組んで出かけるんだとかいって、五条に連れていかれた。仲良さげに話しながら去っていく五条と虎杖の背中を眺めて、隣でひたすら無言を貫く男に喝を入れた。
「アンタも少しくらい言い返しなさいよ」
「今日、最後の最後で諦めたの、さっき真希さんにも注意された。事実だろ」
「好きな人にあんな態度取られて悔しくないの」
「……それとこれとは関係ないだろ。別に、一生言うつもりもねえし」
あからさまに凹んでおいて、どの口が言うのか。私だったらあんな態度を取られたら顔面を一発殴っていると思うけど。でも伏黒はそんなことはしない。傷ついたという事実すら隠して、何てことないような顔を取り繕おうとする。
「好きって気持ちを堪えるの、表面張力みたいなものじゃない? 自分ではずっと心にしまっておくつもりでも、ちょっとした衝撃で急に溢れ出ちゃうことだってあるわよ」
「経験談か?」
「親友のね。残念ながら」
こいつと二人っきりのときは、あまり会話は弾まない。普段虎杖を介して会話をしているんだということに嫌でも気付かされる。あいつが一度死んだときもそうだった。
「っていうか、そんな呑気にしてたら、アイツ、全然違う誰かと結婚しちゃうかもしれないわよ。あんなのだって一応、それなりの立場があるんでしょ?」
「それならそれで、婚期を逃さずに済んだってことだし、別にいいだろ。それこそ、俺とあの人はそういう巡り合わせにはいなかったってことだ」
「幸せボケしたあの馬鹿に新婚旅行の写真でも見せびらかされてごらんなさい。堪んないわよ」
「いいんだよ。あの人が幸せなら、それで。呪術師なんてやってたらいつ死ぬかわかんねえし。呪いになりそうなことはしたくねんだよ」
それから言うかどうか迷った末にふと言葉が漏れてしまったかのように、伏黒がそっとつぶやいた。
「ほんとうに、すきだから」
やれやれ、とため息を吐く。あまりにも率直で嘘偽りのない言葉だったもんだから、こっちまで擽ったくなっちゃった。こんなの、からかうにもからかえない。
「なになに、なんの話? 恵ちゃんってばぁ、このアタシを差し置いて好きな子がいるわけぇ?」
急に降ってきた声に二人して飛び上がった。背後には五条が立っていた。いつのまにか戻ってきていたらしい。やっべ、今の聞かれてたかな。当事者でもないのに、私が焦ってしまう。まあでも、コイツに全然動揺したような様子はないから、きっと本当に今戻ってきたばかりなのだろう。
「アンタの婚期が、そろそろやばいんじゃないかって話してただけですよ」
「僕?」
「伏黒、あんたねえ…」
さっさと切り替えて、しれっと嘘とも本当ともつかないことを言って切り抜けられる伏黒は、私とは踏んだ場数が違いすぎる。初対面の依頼人に対しても同じような調子であしらうことがあるが、この図太さは、きっと五条を手本にしているに違いなかった。
まあいいや、と五条が仕切り直した。
「今日の任務はいつもの定期巡回ね。野薔薇が先に行って、恵は後から現地合流。今回呪術的にまずそうな場所は、昨日転送した資料の通りだから」
それから今日の任務でどこまでなら呪霊に遭遇しても独断で祓ってしまっていいかの説明だけ聞き、伏黒は先にこのあいだの任務の後処理と事後報告に駆り出されていった。人繰りとスケジュールが噛み合わず、当初三人で行くはずだった定期巡回は初めに私が行って、後から伏黒が現地で合流するとのことだ。
補助監督の到着を待っているあいだに、五条がふと口を開いた。
「さっき、本当は恵となんの話してたの」
さっき、と言われてから内容に思い当たるまで、少し時間が掛かった。去っていった伏黒の姿はもう見えない。
「本当にアンタの話よ。アンタ、実は既婚者だったりしない? 許嫁とかいないの?」
「僕は、泣きながら縋って僕じゃなきゃだめって言ってくれる子じゃないと無理だから〜」
「サイッテー」
「って家に言ってあるの。だからたぶんうちの爺婆たちは血眼になってそんな女の子を探してると思うよ」
「いるわけないでしょ」
「そりゃそうだよ」
最低な男はそう言ってケラケラと笑った。それから笑うのにも飽いて、大きな指をすいすいと動かして、手元の端末でメールを打ち返し始めた。私も手持ち無沙汰になって、写真投稿のSNSを開いた。昼に食べたサンドイッチの写真を加工して、文章とともにストーリーに投稿する。いくつかの地元の知り合いに混じって、虎杖の既読がついた。任務中にスマホいじってんじゃないわよ。すかさずトークアプリでそう送ると、すぐに車から前足を出した虎のスタンプが返ってきた。
隣で五条のスマホが鳴った。どうやら同行予定の補助監督の帰還が遅れているらしい。東名で事故渋滞だってさ、嫌だねえ。そう告げたのと同じ口調で、五条が再び「ねえ」と口を開いた。
「恵って、好きな子いるの」
「いるって言ってたわよ」
そっか、と五条は安心したように呟いた。
「それって揺るぎない人間性が、みたいないつものアレじゃないよね」
「うん。ずっと前から好きなんだってさ。アイツがあんなに優しい顔するの、初めて見たわ」
えっ、と五条が固まった。それを見た私も思わず、虎杖に返信しようと思った文面が頭から吹っ飛んでしまった。街角で特級呪霊からアンケートを取られても決して驚きやしないだろうこの男が、まさかここでそんな動揺を見せるとは思っていなかった。
「ここ最近の話じゃないの?」
「って言ってたわよ。あんまり詳しくは聞いてないけど」
五条は、む、と黙り込んだ。ほぼ黒に近い紺色の仕事着に、真っ黒な目隠しをした男が、のっぺりと立ち尽くす。この胡散臭いアイマスクの下で、いったいこの男は何を考えているのだろう。
そうか、そういえば二人は高専入学前からの知り合いなんだっけ。もしかしたら自分の知っている人だろうかとか、そういうことを考えているのかもしれない。でもいくら考え込んだって、この調子じゃあきっと五条は正解には辿りつけないだろう。
「教えてあげよっか」
「ううん、いいよ。聞かない。恵が幸せになるなら、それでいいんだ」
最後のほうは、独り言のようだった。それで数奇にも、伏黒の片恋慕も全くの脈なしなわけではないことを確信した。難儀なもんだ、と思った。確かにアイツの片想いに脈はある。ただ、その脈というのはどうやら綺麗に平行しているらしかった。
「馬鹿ばっかり」
「硝子みたいなこと言わないでよ」
「ショーコさんにも言われたの?」
「うん」
「なんだ、ならお墨付きの馬鹿ってことね」
どいつもこいつもヘタレで嫌になる。伏黒の言葉を借りるわけじゃないけど、呪術師なんてみんないつ死んでもおかしくないんだ。私だったら、一秒だって無駄にはしない。そんな指を咥えてショーウィンドウの向こうから眺めるだけ、なんてことはできるわけない。
だって、失うことを怖がっていたら、何も手に入らないまま終わってしまう。いくらこんな重ったい感情を抱えていたって、届かなきゃ意味ないんだから。
五条はまだぼうっと何かを考え込んでいた。もう、うざったいな。父親に対して抱くのと同じようなじれったい苛立たしさに耐えかねて、手元でトークアプリを開いて感情の捌け口を探した。そうだ、そろそろ日中でも肌寒い季節になってきたし、虎杖なら、明日鍋パって言ったら乗るかしら。急に地元の肉も野菜もごろっごろの熱い鍋が恋しくなって、さっき頭から吹っ飛んでしまった返信案の代わりに、そんな誘いを送っておいた。虎杖が空いてたら、伏黒にも声を掛けよう。あまりしつこくするのも良くはないけれど、鍋をつつきながら今日の五条との会話の中身を伝えるくらいは、きっと許されるはずだ。
しばらくパズルゲームをしながら待ったけれど、虎杖からの既読はつかなかった。さすがにもう任務が始まったのか、返信はすぐには来なさそうだった。