思い出話

「五条さん、遅くにごめんね。あのね、」
 電話の主が透き通るような声で囁いた。震えた携帯電話の小さな液晶に表示されたのは、珍しい子供の名前だった。高専関係者ばかりが並ぶ着信履歴にひとつ、名前を刻んだ小学二年生の女の子。伏黒津美紀からの着信を受けた五条は、持ち得る一番柔らかな対応を心掛けて、うん、と相槌を打った。
「どうかした?」
「恵が、熱出しちゃった」
「そっか、何度くらい?」
「わからないけど、顔が真っ赤なの。ずっとうなされてて……」
 ちらりと手元の時計を見る。時刻は二十三時を過ぎていた。高専最寄りからの終電にはもう間に合わない。麓のバス停から最終便が出たのもずっと前だ。
「わかった。今からそっち行くけど、ちょっと時間が掛かるかもしれない。待てる?」
「うん。ありがとう、五条さん」
 耳元に流れ込んだほっとしたような声色に、五条の口元もつられて緩む。
 身寄りを亡くした伏黒姉弟を五条が実質的に引き取ったのは、ほんの数ヶ月前のことだ。東京都立呪術高等専門学校で生徒として過ごす日々の傍らで、幼い子供の面倒を見ることになった。五条はいつでも連絡をしていいと言って二人に携帯電話を買い与え、困ったことがあれば遠慮なく相談するようにとも伝えた。生活に困らない程度のお金も渡しているし、多忙ながらも時間を見つけては足を運ぶようにもしていた。
 体調を崩した、と連絡をもらうのは初めてだった。五条自身が最後に風邪を引いたのなんて、もう随分と前だ。すぐに向かうとは言ったものの、行ったところで何をしてやればいいのかの見当もつかない。とりあえず行けばどうにかなるだろうか。彼らよりもずっと年長である自分にしかできないこと、今から隣県に行ってまでしてあげられることを考えてみても、何の不自由もなく施されてきた身には大した案は思い浮かばなかった。
「そうだ、津美紀、要るものある? 途中でスーパーに寄ってから行くよ」
「体温計と氷枕と、あとスポーツドリンクもお願い」
「恵の好きな食べ物ってなんだろ」
「しょうがかな?」
「あは、渋いけどなんか分かるな。じゃあ明日の朝ごはんになりそうなものと一緒に、適当に見繕って買っていくね」
 それからすぐに、寮の雑然とした自室から数日過ごせるだけの服や日用品を拾い集めて、五条は正門を抜けて麓に向かった。呼び付けたタクシーに乗り込んで、真っ暗な山を後にする。目的地を告げた運転手は高専の顔なじみで、こんなに遅くまで大変だねえと言った。また何か連絡が来るかもしれないと握ったままだった携帯電話は、結局最後まで鳴ることはなかった。

「ごめんね、やっぱり遅くなっちゃった」
 五条が伏黒姉弟の暮らすアパートに着いたときには、とうに日付は変わっていた。途中で深夜のスーパーに立ち寄って買い出したビニール袋ふたつ分いっぱいの品々を両手に下げたまま、津美紀に出迎えられて低い玄関をくぐる。
 何度も足を運んだことのあるアパートの一室は薄暗く、彼らが寝室にしている六畳程の和室の奥には氷水の張られた洗面器が置いてあった。その横で、小さな男の子が額にタオルを乗せられて眠っていた。常夜灯の頼りない橙色の灯りだけでも、その苦しそうな表情が見て取れた。
「めぐみ、五条さんが来てくれたよ」
 話しかけられても返事はなく、小さな身体は浅く早い呼吸を繰り返すばかりだ。五条は汗で張り付いた前髪を払ってやって、額の上に手を当てる。触れた肌は熱かった。
「医者には見せた?」
 手土産として渡されたレジ袋の中身を冷蔵庫にしまいこんでいた津美紀が、気まずそうに肩をすくめた。
「保険証がなくって、行けないの」
「持ってないの?」
「うん。それにね、どうせ行っても、お父さんかお母さんと一緒に来なさいって言われちゃうの」
 ああ、と五条は心のうちで嘆息した。そんなところにまで気が回っていなかった。五条は生きていくための苦労なんてしたことがなかったから、金にさえ不自由しなければ、あとはどうにでもなると思っていた。だから資金援助の話は恵の意向を確認してからすぐに高専に通したし、それが承認されるまでの期間に必要な生活費もちゃんと渡してあったのに。
「わかった。二人の保険証は今度こっちで手続きをしておくよ。朝になったら僕が病院に連れて行く。津美紀は明日も学校でしょ。早くお風呂に入っておいで」
「でも、」
「大丈夫だよ、僕がちゃんと看ているから」
 渋々と奥の浴室へと消えていった津美紀の後ろ姿を横目に、どうしたものかなと五条は考える。何も知らないなと思った。津美紀を安心させるためにああは言ったけれど、本当のところ、熱を出した子供の看病なんてやったこともないし、どうすればいいかもわからない。恵、と呼びかけても返事はない。息もしているし、きっと眠っているだけだとは思うけれど、このままにしておいて大丈夫なのだろうか。
 二つ折りの携帯電話を開いて、五条はダメ元で家入硝子に掛けた。何コールも経っても、留守番電話にすら繋がらなかった。恥を忍んで実家にも電話したが、やはり誰も出ない。もうすぐ夜中の一時だ。年寄りばかりのあの家で、誰も起きてはいないだろう。
 子供、熱、看病。テキストボックスの中に打ち込んで、ブラウザの検索ボタンにカーソルを動かした。カチリと指先で押し込んだ決定キーから検索結果が表示されるまでは、数秒掛かった。現れた一覧から適当に真っ当そうなリンクを選んで、再びページを読み込んだ。
 子供を自宅で看病するときは、体温調節が大事らしい。寒がっているなら厚着をさせて布団を掛けてやって、熱が上がり切ったら薄着にする。それと水分補給か。水を飲ませるよりも、スポーツドリンクや経口補水液のほうがいいらしい。
 得たばかりの情報を見よう見真似で試そうとして、そこで五条はそれらがひとつとして実践しようがないことに気づく。恵が起きるまで待つか。せめて何か今できることだけでも、と幼子の横で途方にくれる。
 五条さん、と背後から呼ばれた。長い髪にタオルを当てている津美紀に、浴室が空いたことを知らされる。シャワーは高専で済ませていた。もう寝ようかというときに津美紀からの電話があったから、ひと通りの就寝準備は済んだあとだった。
「僕はもう浴びてきたから平気。津美紀は早く寝な」
「でもそれじゃあ五条さんに悪いよ」
「いいの。僕は明日は何もないから」
 それから数度の押し問答の末、津美紀が折れた。きっと疲れていたのだろう。寝ないと明日起きられないよとまで言われると、おとなしく布団に潜り込んだ。
「恵が起きたらお水を飲ませてあげてね。汗をかいて気持ち悪いと思うから、着替えも手伝ってあげて」
「わかった、水分と着替えね」
「あとぬるくなったらタオルを交換して、たまに首元とかも冷やしてあげてね。五条さん、もしわからないことがあったら、私のこと起こしてくれていいからね」
 自分なんかよりも津美紀のほうがうんとしっかりしているなと五条は思った。
「わかったよ。もし何かあったらちゃんと津美紀にも伝える」
 それを聞いた津美紀はようやく安心したように頷いて、おやすみなさいと言った。窓のすぐそばに敷かれた布団に潜り込み、程なくして寝息が聞こえてきた。あどけなく寝入った横顔を眺めて、五条はそれから自分に任された使命に戻った。
 自信たっぷりに引き受けてみせたものの、内心五条はおっかなびっくりだった。七歳の女の子に言われた通りに、氷枕をタオルに包んでちっちゃな頭の下に差し入れてやった。額の上で温かくなってしまったタオルを氷水で絞り直して、汗をぬぐって、また小さな額の上に乗せる。
「ん……ぁ、ごじょうさん?」
「恵、おはよ。水分摂れって津美紀が言ってた。飲める?」
 支えた背中はじっとりと熱く、汗に濡れていた。スポーツドリンクの入ったペットボトルにストローを挿して、口元に持っていった。小さな口がこくこくと吸い上げるのを見守って、それから買ってきたばかりの体温計を開けて熱を測らせた。
 小さな電子音が鳴ったあと、取り出した体温計は三十八度六分を指し示していた。だいぶあるな、と思った。これでは寝苦しいだろう。小児用の解熱剤を買ってくれば良かったのかもしれない。でもそういうのって、勝手に飲ませて良かったんだっけ。
「恵、体調はどう? 頭いたい?」
 寝ている津美紀を起こさないように、そっと問いかける。
「のどがいちばんいたい。頭もいたい」
 汗の浮かぶ首元を拭われるのを、恵はむずかってはね除けた。
「汗かいたね。着替える?」
「……うん」
「着替えどこ?」
「あっち。棚のにばんめ」
「先にお風呂入る?」
「いい、おふろは明日にする」
 五条は小さな手の指すほうに行き、いくつかの引き出しを開けて替えの寝巻きを取り出した。恵が服を脱ぐのに手を貸して、脱いだばかりの上下を洗濯機の中に放り込んだ。それから新しい寝巻きに着替えるのを手伝って、再び恵に布団を被せた。
「何か僕にしてほしいこと、ある?」
 氷枕に頭を預けたまま、ふたつの瞳がじっと五条を見上げていた。これは、何かあるのかな。出会ったときから大人びていると思っていたけれど、今日の恵は年相応に幼く見えた。しばらくそうやって見つめたあとに、恵は小さく被りを振った。それから口元まで布団を引き上げて、そっと目を瞑ってしまった。
「こういうときは甘えていいんだよ、恵。僕はそのためにいるんだから」
 恵はしばらくは狸寝入りをしているように見えた。そうしてそのまま寝入ってしまったらしい。まだ手のひらにすっぽりと収まってしまいそうな丸く温かな胸を、五条はとん、とん、と叩いてやる。
 時折額の上でぬるくなったタオルを替えた。薄暗い空間には、恵と津美紀の二人分の寝息がすうすうと響いている。穏やかな音に誘われて、五条の頭が何度か船を漕いだ。薄いカーテンの向こうがぼんやりと明るくなったのを見て、少し時間が飛んだことを知る。恵は寝入ったときと変わらない様子で、しかめっ面のまま眠っていた。子供らしくないその眉間の皺が、なんだか恵らしくて可愛いと思った。
 もうひと周りだけ世話を焼いてから、五条は恵の隣に寝転んだ。片腕を枕にして、穏やかな寝息を立てている子供を眺める。その向こうでは日が昇って、吊るされた布の隙間からは眩しい光が漏れ出していた。
 次に目を覚ましたとき、五条の大きな身体には布団が掛けてあった。かぎ慣れないけれど、甘く柔らかなこの家の匂いだ。それから何かを焼く匂いが漂ってきて、忘れてきたはずの空腹に意識が行った。
「それね、恵が掛けたの。お風呂に入って、さっきまで起きていたんだけどね」
 いつのまにか起きていた津美紀が、エプロン姿で台所に立っていた。自分の胸のすぐ前には、温かな存在が丸まっていた。恵は小さな手を握ったまま、五条の身体に寄り添うようにすうすうと眠りこけている。
「五条さんありがとうって言ってたよ。心細かったから、ずっと側にいてくれて嬉しかったって」

 津美紀に促されるがままに食卓について、出来立ての和食を平らげた。ランドセルを背負った津美紀が登校班に合流するのを見送って、五条は近くの小児科に恵を連れていった。今朝のぬくもりを思い出して手を繋ごうとしたら逃げられてしまったから、仕方なく恵を一人で歩かせて、時折振り向いてはきちんと後ろを付いてきていることを確認した。
 小児科で初診であることと保険証がないことを告げると、保険証がなければ医療費は十割負担だと、受付の事務がぴしゃりと言った。金ならある、別にそんなことはどうだっていい。それに保険証だって、高専に言えばすぐに発行してくれるだろう。愛想の悪い事務員から自己負担分以外の還付手続きについての一通りの説明を受けた。隣にいたもう一人の事務の女性が言いにくそうに口を開いた。
「あの、失礼ですがその子とはどういったご関係で…」
 自慢じゃないが、五条は今に至るまで実年齢通りの高校生に見られたことはない。素顔ならまだしも、平日の朝からサングラスにスウェット姿では、どう好意的に見積もっても大学生かフリーターだ。
「ええっと……」
 急に振ってきた想定外の質問に、五条は柄にもなく言葉に詰まった。外見はともあれ実年齢は未成年なのだから、恵たちの後見人になる正式な手続きはまだ出来ていない。高専の学生証なら今も財布の中に入っているが、当然恵とは苗字も違う。この場でどんな書類を用意したところで、恵とは明白に赤の他人だ。
 返答に窮した様子に、カウンター越しの事務二人の表情が険しくなるのが、五条の目にもはっきりと映った。
「あなたのお子さんですか? それに保険証がないって仰ってましたけど、ちゃんと出生届とか出してます?」
 これが普段の任務に関する追及なら、五条は例え相手が総監部だろうと権力者だろうと、難なくやり過ごすことができた。担任や学長に呼び出されてお咎めを受けるときだって、いつもヘラヘラと笑って受け流してきた。けれども昨日からわからないこと続きだ。適当に出まかせを言えばこれくらいどうとでも逃げられるだろうに、今日に限って口が回らない。
 見かねて助け舟を出したのは、頭上で交わされるやりとりに、五条の足元でじっと耳を傾けていた恵だった。
「にいちゃん、抱っこ」
 聞いたこともないような甘えた声で、くいくいと恵が手を引いた。翡翠色の聡い瞳が、じっと五条を見上げていた。
「早く帰ろ。にいちゃん、頭いたい。おれ帰りたい」
 こんな舌ったらずで年相応な喋り方を、普段の恵が五条に対してすることはない。要望通り五条が抱え上げてやると、恵はぐりぐりと首元に顔を押し付けて、眠そうに身を寄せた。もう一度抱え直して、丸い背中をそっと撫でる。「義理の弟って言ってください」。小さな声が耳元で囁いた。
「……その、すみません、いろいろと複雑でまだ苗字は違うんですが、恵は僕の弟です。今度正式に家族になります」
 それから五条はサングラスを外して、まだ自分が高校生であることの証明として学生証を見せた。まあ、と呟いた二人はすっかり同情的な顔をして、ちぐはぐな義兄弟を待合室へと通してくれた。
 待合室のソファには、恵と同じか、少し幼いくらいの子供たちがみな母親に宥められながら待っていた。すぐ近くに本棚があった。五条は恵を抱えたまま、その中からひとつ見覚えのある本を手に取った。
 白熊の親子がホットケーキを焼く絵本だった。五条自身も読んだことがあったから、きっと五条家の屋敷にも同じものがあったのだろう。恵を膝の上に乗せて、懐かしい気持ちで年季の入った絵本を開いた。そこまでする必要はないだろ。逃げようとした恵の身体をぎゅうと抱えて、大きな声で読み聞かせてやった。
「ぽたあん どろどろ ぴちぴちぴち ぶつぶつ やけたかな まあだまだ」
 恵は耳まで真っ赤にして、いたたまれないという表情を浮かべたまま、五条が朗々と読み上げるのをじっと膝に座って聞き続けた。絵本の中には、見開きいっぱいに描かれたホットケーキの調理工程が並んでいた。
「ふくふく くんくん ぽいっ はい できあがり」
「おい、もういいって」
 それでも恵が意地でも「五条さん」とは呼ばないのは、きっと五条の体裁を気にしてのことだろう。聡い子供が抵抗できないのをいいことに、五条はおもしろがってゆっくりと続きを読み進めた。
「できた できた ほかほかの ほっとけーき」
 白熊の子供はホットケーキが焼けたことを知らせて、友達と一緒に平らげた。おいしいね。これしろくまちゃんがつくったの。そうよ。おかあさんといっしょにつくったの。ぱらりと次のページを捲る。
「いっぱいたべたね おいしかったね」
 最後の絵には、友達とともに皿洗いをする二匹の白熊が描かれていた。パタン、と読み終わった本を閉じると、恵は脱兎のごとく膝を下りた。幼児向けの短い絵本だったから、あっという間に読み終わってしまった。まだ恵の順番は回ってこない。次はどれがいいだろう。楽しげに本棚に手を伸ばした五条の先回りをして、恵は古びた単行本を手に取った。
「なになに、次はドラえもんを読むの?」
「……なに、これ。本じゃない。絵が描いてある」
「漫画は右上から順に、横に読んでいくんだよ」
「こっち?」
「違うよ、こっち。貸してごらん」
 他にやることもなかったから、隣同士で座って、日に焼けた古い漫画を一緒に読んだ。しばらくは大人しくしていたけれど、人類と機械式の青たぬきと恐竜との友情と冒険の話は、恵のお気には召さなかったらしい。もういいです、と言った恵は本を傍において、くたりと五条の身体にもたれかかった。朝に触れたときよりも、また少し体温が上がっていた。
「伏黒恵ちゃん、お待たせしました。診察室へどうぞ」
「あ、よかった、ようやく恵の番だよ」
 五条は他の母親たちがそうしていたのと同じように恵を抱き上げて、席を立った。恵は少し身じろいだだけで、嫌がることはしなかった。
「伏黒恵ちゃん、恵ちゃん、いませんか」
「恵くんです」
 憮然とした口調でそう返した幼子に、五条も看護師もくすりと笑った。
 診察室にいたのは白衣姿の、優しそうなおじいさんだった。そのままでいいですよと言われ、恵は五条に抱えられたまま、膝の上で診察を受けた。
 熱はいつからか、喉は痛むか。他に症状はあるか。粉薬は飲めるか。質問には全て恵が答えた。服をまくって呼吸の音を聞かせて、口を開けて喉奥も見せた。ただの風邪だろうと言われたとき、五条はひと知れずほっと胸を撫で下ろした。
 診察を終えて、二人は再び待合室に戻った。少し待たされてから処方箋をもらって、近くにあった薬局に寄った。また絵本の読み聞かせをされてはたまらないと、恵は今度は本棚からも五条からもだいぶ離れたところに座った。小さな薬局は混み合っていた。恵の隣にいた親子が五条に気づいて、席を詰めて譲ってくれた。
「伏黒恵さん、伏黒恵さん、お薬の準備ができました」
 ようやく名前が呼ばれたのは、ずいぶんと経ってからだった。怠そうに立ち上がった恵は、今度は呼び方を訂正しなかった。元気がないだけだろうか、あるいはさん付けならオーケーなのか。五条はそんなことを考えながら、恵の手を引いてカウンターに向かった。
 薬剤師からのひと通りの説明を聞いて、五条が会計を済ませた。その場で水をもらって一包を飲ませ、二人は小さな店を後にした。
 五条が家まで抱えてやろうかというと、恵は素直に頷いた。行きは歩かせてしまったけれど、もっと早くに気づいてやればよかった。抱き上げた体は、まだぽかぽかと温かかった。
「五条さん、重かったら言ってください。あと薬も俺が持ちます」
 誰に聞かれることもなくなったからか、恵は普段通りの口調に戻っていた。
「迷惑かけてすみませんでした。津美紀から聞きました、忙しいのにわざわざ夜中に来てくれたって」
「恵、悪いけどもう少しだけ弟の振りしててくれない? さすがに白昼堂々と抱えてる子が余所余所しいのは、僕の体裁的にまずいと思うんだよね」
 薬の入った袋を渡して、五条はそう伝えた。恵は、うん、と言って首元に額を押し付けた。道すがら商店街に立ち寄って、いくつかの惣菜を買った。いつのまにか静かになったと思ったら、恵はまた眠ってしまっていた。アパートに着いても起きないから、五条は恵を抱えたまま片手で鍵を開けて、中に入った。
 てっぺんを少し通り過ぎたお日様が、色褪せた畳をぽかぽかと照らしていた。その陽だまりの中に腰を下ろして、五条は恵をそっと布団に寝かせた。それからそのままじゃあ眩しいだろうと思って、カーテンを閉めた。
 遅めの昼食を取って、途中で目を覚ました恵にも食べられるだけを食べさせた。再び薬包をひとつ開けて、それを恵が水とともにきちんと飲み下すのを見守った。
 恵を寝床に戻して、五条もその隣に肘をついて寝転んだ。一睡もしていないわけではないけれど、寝不足の重たい頭が、微睡みに溶けそうになる。
「はいりますか」
 布団を肩まで掛けた恵が、傍らに佇む五条を見上げていた。
「いいの?」
「……かぜ、ひかれても困るので」
 こっちの台詞だよと笑いながら、五条は誘われるがままに布団の一角に滑り込んだ。心地よい温かさに、自然と瞼が閉じた。

 こと、ことり。ことん、とん。
 温かな木べらの音に、沈んでいた意識が浮上する。優しく満ちた出汁の匂い。くつくつと煮込まれる鍋の音。五条はゆっくりと身を起こした。窓から差し込む日は傾いている。小学校から帰った津美紀が台所に立っていた。
「津美紀、ごめん、手伝うよ」
「五条さんは寝てていいんだよ。昨日、あんまり寝てないでしょう」
「僕は最強だからね、ちょっとくらい寝なくても平気なんだ」
「五条さんったら、おかしいの!」
 ふふと笑って、津美紀が踏み台を横にずらした。まだ背が足りないから、いつもこれに乗って料理をしているらしい。五条には低すぎる台所に並び立って、ふたりで夕飯を作った。
 ぽたあん、どろどろ、ぴちぴちぴち。
 ぐつぐつと煮立った野菜の鍋に米を入れて、卵を溶き、回して入れる。今日の晩御飯は雑炊だ。昨晩五条が買い込んだ生姜の根をたっぷりとすり下ろしたから、きっと恵も気に入るだろう。
 伏黒姉弟が寝室にしている六畳間から、けほけほと小さな音がした。五条が起きたとき、恵はまだ畳の上で眠っていた。咳はそれだけでは収まらず、ぜいぜいと深い咳に変わった。
 津美紀がちらりと五条を見た。様子を見てきてあげて、と言った津美紀が五条の手からお玉を引き取った。あとは取り分けるだけになった夕飯の準備を託して、五条が寝室に戻った。
「恵だいじょうぶ? 生きてる?」
「平気です、すみませ、」
 喋りかけの言葉を詰まらせて、恵はまた咳き込んだ。遠い昔に誰かが自分にしたように、五条は布団の上から胸を優しく叩いてやる。
「もう夕ご飯できるって。食べられそう?」
「たべます」
「生姜湯もあるからね」
「……しょうが湯?」
「飲んでからのお楽しみ。恵はきっと気に入ると思うよ」
 座卓を三人で囲んで、ふうふうと冷まして湯気の立つ雑炊を食べた。おいしいね。これ津美紀がつくったの。そうだよ。五条さんといっしょにつくったの。二人が楽しそうに喋っては口元にスプーンを運ぶのを、五条は目を細めて眺めた。
「いっぱいたべたね」
「おいしかったね」
 皿はあっという間に空になった。おかずに作った卵焼きもタコさんウィンナーもなくなって、幸せな胃袋と思い出だけが残った。洗い物は五条が引き受けた。そのあいだに津美紀が洗濯物を畳んで、恵が風呂桶にお湯を張った。
 順番に風呂に入って、寝支度を済ませて、それから三人で生姜湯を飲んだ。めいめいのマグカップに沸かしたお湯を注ぎ入れて、五条が持ち込んだ粉の袋を開ける。
「ちゃんとよく混ぜてね。熱いからやけどしないようにね」
 小匙が陶器にぶつかり、かんらころと音が立つ。湯気の立つ液体を、小さな姉弟は目を輝かせてそっと啜った。
「あまい…」
「おいしい! ねえ五条さん!」
「うん、おいしいねえ」
 熱くどろどろと揺れる飴色を、五条もゆっくりと啜った。砂糖をそのまま溶かしたような甘さが舌の上に広がって、生姜の香りが鼻に抜けた。この時の幸せな甘さと温かさを、五条は今でも時折思い出す。
 二人が成長するにつれて、五条があの日のように呼び出されることは減った。高専を卒業して呪術師としての活動が本格的に始まると、五条自身が見舞いにいける回数はもっともっと減った。
 熱を出すことも減ったから、あの時の記憶が思い出されることもなくなった。だから六歳の、出会ったばかりのころの出来事なんて、きっと恵はもう覚えてはいないだろうと五条は思う。
「何笑ってんすか」
「恵こそ。生姜湯なんて飲んでどうしたの。風邪?」
 あれからいくつもの年月が経って、とうとう恵が高専に入学したことすら、もう半年よりも前の出来事になっていた。寮棟の廊下でばったりと出くわした五条は、恵の持つマグカップを指さした。
 甘い香りを漂わせるこの飲み物は五条も知っている。これにはひとつ、大切な思い入れがあった。
「最近寒いんで、風邪ひかないようにと思って」
 恵が匙をかき回すと、ころころと小気味の良い音とともに琥珀色の液体が回る。ふうと冷まして、小さな口が匙を啜った。
「あまいな…」
 恵が不服そうに言った。
「でもおいしいでしょ」
「おいしいですよ。津美紀と、冬になるとよく飲んでたんです。どうしてだっけな」
 遠い記憶を思い起こそうと目を細めた恵には、もうあの頃の幼さの面影はない。畳に落ちた柔らかな陽だまりも、台所に響く木べらのぬくもりも、今や五条だけの大事な思い出だ。
「五条先生も飲みますか」
「一杯ちょうだいよ。僕もこれ、好きなんだ」
 砂糖をそのまま溶かしたような甘さと、鼻に抜ける生姜の香り。温かなそれを口にすると、小さな姉弟たちの嬉しそうな声が、今に聞こえてくるようだった。