送ってもらった卒業式の写真で止まったままのトーク画面に、会いたいと恵から連絡が来た。私がちょうどアルバイト先の休憩室にいたときのことだった。何事だろうと開いたメッセージアプリには「今度少し会って話がしたい」という恵らしいそっけない文章が並んでいるだけで、待ってみたものの続きは来ない。姉弟とはいえそう頻繁にやりとりがあるわけでもなく、今はもう五月半ばを過ぎたというのに、ひとつ前のメッセージは三月の呪術高専卒業式のときのものだ。送られてきた写真の中の恵は、何度か見せてもらったことのある高専の建物を背景に、同級生二人に挟まれて小さく笑っている。隣の二人は野薔薇ちゃんと悠仁くんだ。三人揃って、無事にこの四月から呪術師として正式に働き始めたらしい。
対する私はまだ大学生だった。二年生に上がっても一向に専門課程が始まる気配もないカリキュラムをこなしながら進級に必要な単位を揃えつつ、今日も学生やご近所の常連で賑わうキャンパスの正門前の喫茶店で、アルバイトに精を出していた。
あの恵が、わざわざ会って話したいことってなんだろう。遅番シフトで出勤してきた同僚と挨拶を交わしつつ、指先は返信を打っていた。なんて言えば教えてくれるかな。でも聞いて教えてくれるくらいなら、恵は最初から会おうなんて言わない。
『いいよ。元気にしてる?』
『してる』
すぐに既読がついて、ひと言だけが返ってきた。当然のようにやりとりは止まった。日時も場所も候補は来ない。私が好きに選んでいいってことなのかな。手早くお気に入りフォルダを開いて、フルーツパーラーのリンクをひとつ貼り付けた。次にお給料が入ったら行ってみたいと保存していたお店のひとつだった。
『ここでいい?』
『予約聞いてみるから、いつがいいか教えて』
『甘くないのもある?』
『あるよ』
『じゃあそこで』
『サンドイッチとかカレーとか』
『了解』
『来週の水金以外ならいつでも』
『お昼でいい?』
『いい』
お互いの反応を待たずにしばらく入り混じっていたメッセージ画面は、そこでピタリと止んだ。用件だけ告げて、きっと恵は十分だと思ったに違いない。そんなんじゃモテないよ、と誰に宛てるともなく呟いた。それから、恵に彼女がいる可能性に思いを巡らせた。
いない、とは前に聞いていた気がする。でもそれももうずいぶん昔の話だっけ。身内の贔屓目抜きにしても、恵がモテないとは思わない。けれど、このそっけなさを私以外とのやりとりでもそのまま出しているのだとしたら、どうだろう。女子受けはまず良くないはずだ。でも逆に、こんなに急に会って話したいって、彼女同席の婚約報告とかだったらどうしよう。
いや、そんなまさかね、と首を振る。さすがにそんな大きな報告事なら、事前に何かしら連絡をくれるだろう。いくら恵でもさすがにね。いや、でも相手はあの恵だ。恵のとんでもエピソードなんて、あげ始めたらキリがない。
「あら津美紀ちゃんどうしたの、また一人で暴走中?」
「っぽいですね。あ、店長、そういえば来月のシフトのことなんですけど…」
隅で立ち話をしている同僚たちの声なんてこれっぽっちも入ってこない。頭の中を占めるのは、手を焼かされた恵の行いの数々だ。顔色ひとつ変えずに、『津美紀、そういえば明日の図工でラップの芯が三本要るんだけど家にあるか』と台所で首を傾げたり、登校班が解散した校門前で『今日書道セットの申し込みでお釣りなしの支払いがあるんだけど小銭と印鑑ある?』と呑気に告げた過去を持つ恵。ランドセルの底からいつのかわからない保護者宛てのお知らせがいくつもくしゃくしゃに折れて出てきても悪びれないし、日々体育で使っているはずの体操服だってめったに持ち帰ってこないし、恵が持ち帰ってきた上履きを家で洗うのだって一学期に一回くらいしかなかった。そうやって私の同級生男子たちと同じくらい細かなことに無頓着で、唐突で、しっかりしていそうに見えてしっかりしているのかしていないのかよくわからない弟が、久しぶりに連絡を寄越してきた。それが人生のイベントに関する何かしらの報告である可能性は、いったいどれくらいなのだろう。
「津美紀ちゃん、そろそろ休憩交代よ。おーい、津美紀ちゃーん、聞いてるー?」
「……あ、店長、すみません、今戻ります!」
慌てて端末の電源を落として、ロッカーにしまった。私の心のうちも知らない店長と同僚が、フロアへと戻る通用口でニコニコと笑って待っていた。
恵と会う約束をした日は、朝から小雨が続いていた。まだ五月下旬だけど梅雨入りはいつ、なんて言葉が天気予報で聞かれるようになったのにも納得するほどの雨続きで、行き交う誰もが傘を差していた。バスを降りて待ち合わせ場所へと向かう足は、自然と早まった。恵はこの絡みつくような湿度をものともせず、駅舎の隅で、閉じた傘を片手に涼しげに手元の端末を眺めていた。
「ごめんね、雨でバスが遅れてて。お待たせ」
「別にそんなに待ってない。今日大学は?」
「火曜日は講義を入れてないの」
「ゼンキュウってやつか」
「そう、全休」
どこで知ったのか、恵はそんなことを言いながらスタスタと前を歩いていく。私よりひと足もふた足も先に学生という身分を終わらせてしまった恵の後ろ姿を追いかけるように、傘の水滴を払って付いていく。
「ねえ恵、また大きくなった?」
「いや最近測ってねえけど、さすがにもう伸びてないと思う」
「じゃあ存在が大きくなったのかな」
「しばらく髪切ってねえからそのせいかもな。今日雨だし、ボワッとする」
「ボワッと」
「何」
「ふふふ、何でも」
予約したフルーツパーラーは駅直結の百貨店の八階にあった。二人で長傘をビニール袋に入れて、エスカレーターをいくつも乗り継いで上がっていった。平日の昼間だったけれど、空調の効いた館内は程よく賑わっている。周りの誰に聞かれても変に思われない言葉を選んで、声を落として言った。
「お仕事はどう? やっぱり大変?」
「別にそうでも」
「そんなことないでしょ」
「でもやってることは高専の時と大して変わんねえし。変化なんて、学生証から職員証になって学割が使えなくなったくらいだ」
恵がガサゴソと鞄を探って、小さなカードを見せてくれた。隅に一級の割印が押された写真には、相変わらずな仏頂面の恵が映っていた。伏黒恵、フシグロメグミ。二〇〇二年十二月二十二日生まれ。東京都立呪術高等専門学校所属。
「って見せられても、私、恵の学生証なんて見たことないからわからないよ」
「そうだっけ。まあ基本は今の職員証と同じだけど、でもこの前見たら写真が若いなって思った」
「ちょっと大人っぽくなったよね、恵」
「まあ順当に歳食ってるからな、俺も津美紀も」
「巻き込み事故禁止!」
七つ目のエスカレーターを降りて、真っ直ぐ進んだ先がお目当てのフルーツパーラーだった。予約した名前を告げると、すぐに係のお姉さんがテーブルへと案内してくれた。窓際の二人席に座って、ふと外に目をやった。窓の向こうには、雨粒の降り注ぐ東京の街が広がっている。
当店は二時間制のビュッフェ形式です、と簡単な説明と諸注意を残して、係員さんは去っていった。さて、何から食べようかな。フルーツもスイーツも美味しそうだし、ご飯ものも絶対に食べたほうがいいってインスタに書いてあった。恵は係の人が説明をしているあいだも、どことなく落ち着かない様子で窓の外を眺めていた。
「ほら行こうよ恵、話はご飯食べながらね」
ああ、と小さな返事が返ってきた。二人で席を立って、思い思いの好物を取り分けて戻ってくる。後でSNSに載せるために、綺麗に盛り付けられた恵のお皿を撮らせてもらった。私のは運んでくる途中で崩れてしまったけれど、恵はいつだってこういうことに関しては器用だった。
私が二度目のお代わりに行っても、恵がポットから三度目のコーヒーを淹れてもらっても、一向に話というものが切り出される気配はなかった。本当は何か言いたいことがあったんじゃないのかな、と普段に増して口数が少なくなってしまった恵を前にして思う。私から何か言ってあげたほうがいいんだろうか。でも、どうしたらいいかわからないよ。
「ふふ、恵が久しぶりに会おうなんて言うから、結婚報告でもされるのかと思ったよ」
「っ、げほ、」
「えっ、うそ、本当に!?」
冗談のつもりでうっかり投げ込んでしまったのは、どうやら直球だったらしい。飲みかけのコーヒーでむせ込んだ恵に咄嗟に紙ナプキンを差し出したものの、私の頭の中も真っ白だ。
「ご、ごめんね、あの、そんなつもりじゃなかったんだけど、大丈夫? お水もらう?」
大丈夫だというひと言が、途切れ途切れに返ってくる。やっちゃった、と口元に手を当てて、恵の恨めしそうな視線を受け止める。昔にもこういうことがあったなあと思った。飲みかけのいちごミルクを破裂させてしまったり、辞書の入った鞄で頭を殴って気絶させてしまったり。
「ねえ、本当に結婚報告なの?」
落ち着いたところを見計らって、今度こそちゃんと声を掛けた。しばらく気まずそうに振れていた視線が再び私を捉えた。切長の目から覗く瞳が、腹を括ったように見えた。こくん、と黒髪が揺れる。
「そっか、ええ、どうしよう。私今日は恵に会うだけだと思ってあんまりおめかししてこなかったの。もしかしてこの後その人を紹介されたりする?」
「……いや、なんていうか、相手は津美紀も知ってる人だから。紹介とか、今さらそういう感じでもない、けど」
めでたいことのはずなのに、どうしてか恵の歯切れはすこぶる悪い。私も知っている人だと言うけれど、いったい誰のことだろう。気まずい空気に焦ってしまって、咄嗟には誰も浮かんでこなかった。誰だろう、ええっと。ひとつひとつの記憶をたぐり寄せて、私が知っている限りの、恵と関わりのある女の子のことを挙げていった。
「私が知っている子でしょ。まずは野薔薇ちゃん。あとは藤沼とか、私の部活の……ううん、でも中学の同級生よりは、きっと呪術師に関係のある人だよね。誰だろう、新田さんはこの前結婚していたし、真希ちゃんもきっと違うだろうし、あとは……」
呪術関係での知り合いはそんなに多いわけでもないから、既婚者を除けば自然と候補は絞られていく。恵は判決を待つ被告人のような顔をして私の上げる名前を聞いていた。初めはそれを、言い当てられるのを待っているのだと思った。けれども何かを言い淀んだ恵を前にして、ああ違うんだ、と思った。それで、何が違うのかにまで思い当たってしまった。嘘でしょ、と驚く気持ちが半分と、何かの間違いじゃないかと疑う気持ちが半分。下手に動揺を隠そうとして、引き攣った顔をしてしまったのだと思う。本当は、そんな態度を取るつもりはなかったのに。恵は今度こそ、この世の終わりかのようにテーブルに視線を落としてしまった。
「あ、あのね、もしかして、もしかしたらだけど」
心臓がバクバクとおかしな音を立てていて、気を抜くと舌先がもつれそうだった。こんなことを言っていいんだろうか。でも、言わなきゃ先に進まない。
「……女の子じゃ、ないの?」
たっぷりの時間をかけて紡ぎ出された言葉は、ゆっくりと恵の中に染み込んでいったようだった。恵の視線はずっと、何もないテーブルクロスの上の一点を見つめていた。食べかけのケーキでも、綺麗に磨かれたカトラリーでもない。ようやく紡ぎ出された静かな声は、こっちまで泣きそうになるくらいに震えていた。
「……うん、ごめん」
この場をどうしたらいいかわからなくて、苦しい心臓を抱えたまま、窓の外に視線をやった。まだ雨が降っていた。地上で小さな通行人たちが何人も行き交っている。雨の中、ごま粒みたいな、色とりどりの傘を差して。
恵が選んだ人なら誰だって間違いないよって、すぐに言ってあげられたら良かったのかもしれない。でもまだ誰なのかも聞いてないのに、そんなことは言えない。そんなのは、白々しくなってしまうだけだ。津美紀、と恵が呼ぶ。早く何か言ってあげなきゃ。でも何を言えばいいんだろう。万が一今日の集まりが結婚報告だったときに備えて少しだけ準備してきた応答は全部役に立たなかった。考えれば考えるほど、言葉は遠ざかっていってしまう。
津美紀。もう一度恵が私を呼んだ。なあに、と震えを抑えようとして絞り出した音は、予想外に冷たい響きになってしまった。恵の表情が一層強張った。違う、違うの、私はただ動揺しているだけだから。
でも全然気にしない、と言えば嘘になる。だって、そんな素振り、見せたことなかったでしょう。恵が男の人を好きだなんて、知らなかった。テレビで見る芸人さんたちみたいに、そういうのはもっと女の子みたいな仕草をして、お化粧をするような男の人たちの話だと思っていた。だから当然いつか恵は女の子を好きになって、私には妹ができるのだと信じて疑わなかった。
「報告、したくて」
「……うん」
「本当にそれだけだから。津美紀に気持ち悪いって思われることも、嫌われかもしれないことも、ちゃんと分かった上で来てる」
すう、と一拍を置いて、恵は真っ直ぐ私を見た。相変わらず固い表情と同じくらい抑揚のなくなってしまった声で、恵が言った。
「受け入れなくていいから」
それから恵は手持ち無沙汰にコーヒーカップを持ち上げようとして、数センチと上がる前にすぐにテーブルの上に戻してしまった。カップとソーサーがぶつかり合って、カチカチと小刻みな高音が何度も鳴った。指先はずっと震えていた。全然平静を装いきれないことに、恵自身も動揺しているように見えた。
「相手、私も知ってる人だって言ってたよね」
話題を、そうだ、話題を探さなきゃ。私たちのテーブルのまわりだけ時が止まったみたいに、何もかもが遠くに聞こえた。まるでここだけが別の空間に飛ばされたみたい。話題、話題。話の続き。呪術関係の男の子にも、私が知る名前は多くない。
「恵の知り合いの男の子、誰がいたかな」
つとめて明るく振る舞おうとした。けれど心臓はまだざわついたままだ。真っ先に思い浮かぶのは同級生の悠仁くん。でも悠仁くんは前にハリウッドの女優さんが許嫁だと言っていた。あとは狗巻くんと乙骨くん。それから京都校だという人たちの名前は忘れてしまったけれど、目の細い子と、ガタイのいい子もいたはずだ。この二人は恵とはそんなに仲が良いわけではないと聞いている。あとは、他に誰かいたっけ。恵と結婚しそうな男の子。そもそも誰に会っても、目の前の男の子が恵と結婚しそうかどうかなんて、今まで考えたこともなかったけれど。
「五条さん」
「へ?」
ぽかん、と間の抜けた顔をしただろう私に、恵もまた不意をつかれた顔をした。何で今ここで、五条さんの名前が出てくるんだろう。電話でも掛かってきたのかな、と思って恵のスマホを見たけれど、画面は暗いままだった。
「なに」
「五条さんがどうかしたの?」
それからたった今、何の話をしていたのかを思い出した。恵の結婚報告。私の知っている人で、男の子。ううん、男の子だなんて、初めから恵は一度も言っていない。
「え、五条さん、ってあの五条さん?」
「そう、だけど」
「悟くん?」
「うん」
「悟くんと、結婚するの?」
「……うん」
その言葉に途端に全身からがくりと力が抜けて、思わずはあ、と長い特大級のため息が出た。これは安堵のため息だ。恵は怪訝そうな顔をしている。それが何だか可笑しくって、ため息はそのまま緩やかな笑い声へと変わっていった。恵はもっと渋い顔をする。さっきまでの緊迫感が嘘みたいだ。だって、五条さんだって。なんだ、可笑しいの。笑ってしまって頬が引き攣りそうだ。
「ンだよ」
「もう、笑いすぎて涙出てきた。五条さんだって、それなら初めにそう言ってよ」
今日だけで絶対十年分くらいの寿命が縮んじゃったよと言っても、恵はまだ不服そうな顔をする。
「何だか、しっくりきすぎて可笑しくなっちゃった。そっか、五条さんか。ふふ、さっきまでの緊張を返してほしいよ。そんな、この世の終わりみたいな顔をして報告があるだなんて言うから、びっくりするでしょ」
「気持ち悪いって思わねえの」
恵はムッと口元を結んでいた。先ほどまでのしおらしさはどこへ行ったのやら、火を見るよりも明らかなくらい、機嫌を損ねているようだった。
「正直全然実感は湧かないよ。でもね、恵はずっと五条さんのことが大好きだったでしょう」
それはもう端から見ていても丸わかりで、姉としては妬いてしまうくらい、恵は五条さんに懐いていた。その懐き方は人を噛んだり引っ掻いたりする子猫みたいなものだったから、当時からちゃんと五条さんに伝わっていたかはわからない。でもきっと今日のこの報告こそが、その答えに違いなかった。
「ずっとっていつ」
「小一、出会ったときから」
「さすがにそんなことはねえけど」
「そんなことあるよ」
「ない」
「あるったらある。私はずっと恵のお姉ちゃんだったもん、それくらいわかるよ」
だって五条さんの隣にいる恵は、いつも嬉しそうだった。泊まると言った五条さんの分の布団を敷くのはいつだって恵で、うちに置いておく寝巻きや下着を入れる引き出しをひとつ空けようと言い出したのも恵だ。五条さんが来るたびに、今日は少し甘めにしてあげようと、溶き卵のボウルにこっそり小さじ一杯の三温糖を加えてあげていたのも知っている。それから五条さんから急に家に立ち寄ると連絡があったときにはいそいそと部屋の片付けを始めたり、逆に宿題を片付けるペースを遅らせてみたり。あの人どっちが好きかな、とまだ来訪の約束もないのに、近所のスーパーで三個セットのプリンを手に取っていたこともあった。
そんな五条さんと、恵が結婚する。私の中の二人は兄弟みたいなものだから、そんな二人がずっと一緒にいることを選んだのだとしたら、それはとても素敵な選択のように思えた。そこに至るまでに何があって、どんな困難を乗り越えてきたのかはわからないけれど。
「そうだ、結婚するってことは、恵は海外に行っちゃうの? 日本だとまだ無理だよね」
現代の日本では確かまだ同性婚は認められていない。私は当事者でもないからニュースサイトやSNSで流れてくるものをたまに見るくらいの関心しかなかったけれど、法改正が進んだという話も聞かない。でも自治体レベルではパートナーシップ制度みたいなのがあるんだっけ。
「それもまた少し込み入った話で」
「うん」
「そもそも今までずっと付き合っていることも隠してきたんだけど、もうそんなのは終わりにしようって」
「しようって?」
「流れで……」
「流れで?」
「プロポーズをされまして……」
恵が急に居住まいを正して言うものだから、また可笑しくなってしまって、ふふ、と笑い声が漏れた。恵も少し照れたように口元を緩めた。それから、ようやくほっと肩に入っていた力が抜けるのが見えた。
「それでそれで?」
「薔薇の花束とか、指輪とか、用意されてて。本当は馬鹿ですかって言って断るつもりだった」
「えっ、どうしてよ」
「だってどう考えても無理だろ。お互いに、家のこととかもあるし」
五条さんは五条家という呪術師の家系の当主で、恵も少し前に姓はそのままで、禪院というお家の当主になった。二人が抱えるものとは無縁の世界にいる私には、その労苦を推し量ることすらできない。
「でも結局その場で承諾したんだ?」
「うん」
「その心は?」
「……あの人が、思ったよりちゃんと自分の将来のことも、俺のことも考えてくれているんだってことがわかって、それなら一度信じてこの人の手を取ってみようって」
「うん」
「まあそこにたどり着くまでにひと悶着あったから、いま五条さんちのマンションは業者が入ってて工事中なんだけど」
「……うん?」
「俺が一撃で壁三枚ぶち抜いたから、寝室と風呂とトイレが更地になった」
「なんて???」
「五条さんが俺を選ぶなんて馬鹿みたいなことをして人生を棒に振るくらいなら、いっそここで俺が殺しておかないと、と思って、手持ちで一番膂力がある式神を……あ、ちなみにプロポーズされたのは品川にある五条さんのマンションだったんだけど」
「恵、私穏やかな話が聞きたいな」
「そうか?」
「うん、ロマンチックなところだけでお願い」
じゃあ、と恵が仕切り直した。それから何か言いかけて、飲み込んでしまった。プロポーズだけならもうだいたい全部話しただろ、とすっ惚けたことを言う弟の足を小さく蹴って、続きを促した。
「プロポーズのタイミングは?」
「地方出張の帰りに、前に公開期間を逃した映画を家で一緒に観ようって誘われて、その映画を観終わったあと」
「プロポーズされるなあって思った?」
「今思えば五条さん、いつもよりちょっとテンションがおかしかったかもしれない」
「いつもより?」
「何だかすごく落ち着いてて、大人みたいだった」
「それでそれで?」
「大事な話があるからちょっと待ってて、って言ってスーツ姿に花束抱えて戻ってきたから、どうしようって思った」
「なんでよ」
「だって大事な話、なんて言ってそんなことされたら、さすがにだいたいの察しはつくだろ。待っているあいだは、まあ、いよいよ別れ話かと思って落ち込んだけど」
長い付き合いの末に別れ話を切り出されるんだと思ってひとりソファの上で身構える恵も、急に花束いっぱいの薔薇を差し出されて、喜ぶより先に戸惑う恵も、何だか容易く想像がついた。それから、恵はきっと怒っちゃったんだ。当面は叶いそうもない夢を見て自分を選ぶより、五条さんにはもっと他にやることがあるだろうって。
「これからもずっと僕の隣にいてください、なんて改まったふうに言われて、それで、俺と五条さんのあいだにそんな未来なんかあるはずないのにって思ったら、いても立ってもいられなくなって」
「だから頭に血が昇って暴れちゃったんだ?」
「馬鹿なんだよ、あの人。無限なんか使って易々と凌いだら俺がもっと激昂すると思って、魔虚羅の剣も避けずに、瓦礫も埃も全部引っ被りながら花束抱えて、爆風の中で指輪を差し出して立ってた」
そのときのことを思い出したのか、恵が目尻を下げて可笑そうに笑った。正直私には何が何だかさっぱりだったけれど、五条さんが所有するマンションというからには、うちの埼玉の旧居みたいな木造二階建てじゃなくて、鉄筋コンクリートの綺麗で頑丈なところなんだろうなあと思った。恵はそれを一撃で何部屋もぶち抜いちゃうような力を五条さんにぶつけて、五条さんはそれを受け止めた。瓦礫の上で婚約指輪を差し出す、なんてネットフリックスのオリジナルドラマですらやらないだろうトンデモ展開は、もはや昔に三人でDVDを借りて観たハリウッド映画の世界観だ。
恵が今度は落ち着いてゆっくりとコーヒーを啜ったから、私も取ってきたままだったロールケーキをひと切れ頬張った。熟れたメロンの果肉が舌の上でとろりと溶けて、蜜が口の中いっぱいに広がった。それでようやく身体に入ったままだった力が抜けた。甘さが身に染みるようだった。
コトリとカップを置いた恵の右中指には、銀色の指輪が嵌まっていた。駅で落ち合った時点で気づいてはいたけれど、薬指ではなかったから、普通にただのそういうお洒落なんだろうと思っていた。でもきっとこれが例の、五条さんが文字通り命懸けで渡した婚約指輪なのだろう。
「ねえ、指輪見せて」
そのひと言ですっと目の前に差し出された指には、クリアブルーの小さな宝石が埋め込まれた、幅広の指輪が付いている。冬の空というには鮮やかで、夏の空というには少し淡いその石の青色は、そうだ、これを贈った人の瞳にそっくりだと思った。
「素敵だね」
「俺も気に入ってる。あの人には、まだ言えてねえけど」
それから恵は海外に、旅行者でも結婚証明書を出してもらえるところがあるのだと言った。
「五条さんが調べてくれたんだけど、というか初めからそうするつもりだったんだろうけど、神父の前で簡単な宣誓をして、それでそこの自治体が結婚証明書を出してくれるらしいんだ。必要な書類だけきちんと揃えていけば誰でも受け付けてくれるというから、ほとんど記念みたいなものだけど、今度の休みに結婚してくる。名字は別々のままでいいみたいだから、きっと揃えねえと思う。本当はあの人が家柄も何もかも捨てて、ほんの一瞬、形だけでも俺の姓になってくれたら嬉しいと思うけど」
「恵はそれでいいの?」
「日本じゃ結婚なんてできねえし、どうせ俺もあの人も呪術師でいるあいだは、日本を離れることもできないからな。でも、いつか全部が丸く収まって、俺も五条さんも自由になる日が来たら」
恵はその先を言わなかった。この少し融通が利かないきらいのある私の弟は、いつだって現実になると信じていることしか口にしない。だからきっと、今はまだその時じゃないんだ。この先に続くはずの言葉はそこにあるけれども、まだ形にはならない。
「ねえプロポーズの言葉、聞いてもいい?」
「『これからの未来もきっと困難だらけだろうけれど、できれば、恵にはずっと僕の隣にいてほしい』って」
それから少し喋りすぎたなと眉を下げた恵は、初めに駅であったときよりもずっと柔らかい雰囲気を纏っていた。右の中指に嵌められた指輪を時折弄びながら、いつから付き合っていたのだとか、どこが好きなのとか、そんな取り止めもない話を交わした。
二時間制の席の時間はあっという間に過ぎて、最後は二人で充足した気持ちでお店を出た。恵はこれからまた任務だと言う。名残惜しいけれど、私もアルバイトに行かなきゃいけない。いつのまにか雨が止んだらしい駅前に戻って、たくさんの人たちが行き交う改札口でまたねと言った。それから、ふと立ち去ろうとした背中を呼び止めた。
「恵」
「何?」
何か忘れ物かとでも言いたげに、恵はこちらを振り返った。そんな私たちの傍を、人々が足早に通り過ぎていく。
「いま幸せ?」
「うん」
「良かった。おめでとう、おめでとうね、恵」
大切なことをまだ伝えていなかったと、心の底からの祝福を贈った。その言葉を受け取って、恵は今までに見たどの表情よりも柔らかで温かく笑ってみせた。それじゃあと手を振って、恵は改札の奥へと消えていった。その背中がすっかり見えなくなるまで、私はずっと手を振り続けた。