発車ベルが鳴り響いて、閉まりかけたドアの中に手を繋いで飛び込んだ。異常感知の警報が鳴って、ホームでは駅員がしきりに何かを怒鳴っていた。真っ白な蛍光灯が煌々と照らす深夜の車内に乗客はまばらで、誰も駆け込んだ俺らを見やしなかった。ドアが閉まって電車が動き出しても心臓はバクバクと鳴ったまま、繋いだ手を放せなかった。本当にできちゃった、と五条悟が呟いてようやく力が抜けた。馬鹿みたいだ、どうせすぐに飽いてまた日常へと戻るだろうに。
「こんな世界から、逃げ出しちゃおうか」
そう言ったのは五条悟だった。二人っきりの三徹明けの任務の帰り、四肢が痛むほど疲弊した俺たちは、とうに正常な判断力など失っていた。「逃げてどこへ行くんですか」。「どこか遠く、誰も僕らを知らないところ」。
帳を下ろしたように真っ暗な空の下で、俺は五条悟の誘惑に乗った。行く当てのない俺たちを乗せて、電車はガタゴトと進んでゆく。
向かいの線路を上りの終電が過ぎていった。この先接続がないことを知らせるアナウンスが流れた。もうじき行き止まるこの電車から降りたら、その先はどうすればいいのだろう。
「あとのことなんて、あとで考えたらいいんだよ」
五条悟はそう言って、先送りにした不安を抱きかかえるように目を閉じた。それからゆっくりと立ち上がったから、追いかけるようにホームに降り立った。知らない名前の駅だった。
冬の外気にさらされて、夢見心地にのぼせた頬が醒めていく。五条悟は自販機の灯りを求めにいった。俺は冷え切ったベンチに腰掛けて、その冗長な吟味が終わるのを待った。遠くに見える黒装束の男は、長く、何かを考え込んでいるようにも見えた。
寒空の無人駅で、誰も俺らを急かさなかった。指の先が凍るほどの時間を掛けて、ようやく電子音がふたつと、それから重たい落下音が二度聞こえた。真っ暗な電光掲示板の下にいた俺に、五条悟がその片方を押し付けた。触れたペットボトルの熱が手のひらにじんと沁みた。ふたを回して傾けると、温かな液体が食道から腹の中へと落ちていく。
「ねぇ、やっぱり帰りましょう、五条さん」
「……少し歩けば海があるんだ。静かな漁村で、漁師でもやってさ。誰とも会わず、何も祓わない…」
「今ならまだ、戻れますから」
「うん」
始発の電車は四時間後だった。乗換検索の画面はタクシーの利用を提案した。随分と遠くまで来た気がしたけれど、呼びつけた国産車は、二時間と掛からずに俺らを檻の前まで連れ帰った。次第に慣れ親しんだ風景へと変わっていく窓の外を眺めながら、所詮は、こんなことしかできないんだと思った。
「じゃあ、次の任務は十時集合ね」
しんと寝静まった夜空の下で、まるであの逃避行などなかったかのように、五条悟がそう告げた。これから仮眠をとって、支度をして、また俺らは変わらぬ日常へと駆り出される。その皺くちゃによれた片道切符の代わりに、暖かな小さな夜の記憶を、懐の奥に仕舞い込んだ。