第2回「匂い」

 ここに越してきたばかりの頃は、この薄暗い内廊下が嫌いだったなと五条は思う。買ってしばらく住んでは売って、を繰り返していたマンションのひとつのこの内廊下には、どこから漏れてくるのか、いつも生活の匂いが漂っていた。おいしそうなカレーの匂い、甘やかな出汁の匂いに、肉を焼く匂い。ファミリー向けのこのマンションはいつも暖かな家庭の気配がして、五条はそれを酷く嫌った。だから当時は入居して数日も経たないうちに、懇意にしている不動産屋に連絡を入れた。この物件は気に入らないから、早めに次のを探しておいてほしいと。
 エレベータを降りると、今日は香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。炒めたねぎと、ごま油と鶏ガラスープ。あとは何だろう。食欲を掻き立てるそれらに、自然と胃がぐるりと鳴った。これほど、この匂いが自分の家からであってほしいと思ったことはない。何度か曲がった先の一番奥の部屋に鍵を差し込んで、ガチャリと扉を開けた。中から、いっそう美味そうな匂いが漂ってくる。
「ただいま」
「あ、おかえりなさい」
「恵、どうしたのこれ。すっごくいい匂いがする」
「一応さっき連絡入れたんですけど、キッチン借りてます」
 器用な手は茹でたうどんをふた皿に取り分けて、上から熱々のスープを掛けている。入っているのはにんじん、たまねぎ、ねぎ、とり肉。特段凝った料理を作っているわけでも、一汁三菜が揃っているわけでもない。でも目の前で出来上がりつつある一品料理から、五条は目を離せない。
「レシピサイトで見つけておいしそうだったんで、作ってみようと思って。五条さん夕飯もう食べちゃいました?」
「ううん、まだ。おなかぺこぺこ」
「よかった」
「先に着替えてくるね」
 ルームシェアの相方を置いて、寝室に向かう足取りは軽い。別に伏黒を家政婦にしたくてここに住まわせているわけじゃない。今年から呪術師として正式に働き始めた伏黒が新居探しをする暇もなく学生寮を追い出されるというから、それなら部屋も余っているしうちに来ればと誘っただけだ。3LDKの半分以上が空いてる、とルームシェアの理由のひとつとして提示した五条は何食わぬ顔で仕事部屋をひとつ取り潰して、伏黒の入居予定日までにそこを伽藍堂に仕立て上げた。本当ですか助かります、と二つ返事で受け入れた伏黒は入居予定日まで下見に来ることもなく、住居環境にかなりのこだわりがあったという新居探しはどこまで本当だったのかわからない。
 当面五条の家に住まわせてもらうことになったとの伏黒からの報告を聞いて、釘崎が物凄い顔で五条を見ていたのは記憶に新しい。とうとう収まるところに収まったってワケ、と後でこっそり耳打ちをした彼女に、五条は何のことだとしらを切った。うまくいい新居が見つからなかったらしいから、しばらくうちに住まわせてやるの。それ以上でも以下でもない、と。
 懇意にしている不動産屋の営業担当には、伏黒とのルームシェアが始まってからすぐに連絡を入れた。当面はここから引っ越さないから、新しい物件は探さなくていいよ。営業担当は都内の中古マンション買価はどこも右肩上がりで、今売り抜けば少なく見積もっても五条の年収分くらいの利益が出ると言った。それは五条の心にはちっとも響かなかった。家を売りませんかというチラシもよく集合ポストにばら撒かれているが、それにも五条が目を通すことはない。
 部屋着に着替えて、うまそうな匂いをたどってキッチンに蜻蛉返りをする。熱々の麺鉢を食卓に運んで、二人で一緒に、一度手を合わせてから箸を取った。いただきます、と口にするあいだにも目の前から漂う美味しそうな匂いに、胃袋はぎゅるぎゅると鳴っている。
 ひとくち頬張っただけで、ずっとあたりを漂っていた匂いから想起されるそのままの味が口じゅうに広がって、五条の心の中で十点満点の札が上がった。伏黒の料理に対して、なんて失礼なものではなく、今のこの瞬間を取り巻くすべてに対する十点満点だ。無我夢中で熱々の麺を啜って、少し熱かったと麦茶を飲む。いくら何でもがっつきすぎだ。わかっていても、食べる手は止まらない。皿はあっというまに空になって、少ししてから伏黒も顔を上げた。あ、と気づいて席を立とうとしたのを、腕を引いて引き留めた。伏黒はあれという顔をした。
「でも麦茶、砂糖要りますよね」
「ううん、このままで平気」
「珍しい」
「それが最近さ、あんまりため息吐きながらボタボタ放り込みたい気分にならないんだよ」
「え、どこか悪いんですか? それとももう歳だから?」
「違いますよーだ」
 脳みそを回すため、と言いつつほぼストレス発散のために摂取していた糖分に対する欲求は、最近はすっかり形を潜めている。いつからだっけ。少なくとも、この部屋に同居人が増えてからであることには間違いない。
「恵。物件、いいところ見つかりそう?」
「全然っすね。急いだほうがいいですか?」
「全っ然」
 他の誰かと暮らす予定も、ここを引き払う予定もない。五条としてはずっとこの生活が続けば良いと思っていたし、恵があまり本腰を入れて住まい探しを続けているわけでもないことにも、何となく勘づいていた。
 このままでいい。ずっとこのまま、二人がいい。五条はそれを言葉にはしない。約束なんてしなければ、それが破られることもない。それでいいんだ。そっと呟いて、五条は空皿を重ねて席を立つ。
「洗い物は僕がやるよ」
「本当ですか、じゃあ俺風呂掃除して先に風呂入ってきます」
「はーい。僕も浸かりたいから、今日はお湯残しておいて」
「はいはい。あ、食洗機も回しておいてくださいね」
「はいよ〜」
 それから風呂に入って、髪を乾かして、しばらくソファに並んでテレビを見てから、二人でベッドに潜り込んだ。寝室にはクイーンサイズのベッドがひとつおいてある。初日になし崩しに一緒に寝てから、結局恵のための追加ベッドは買わずに今に至る。いっそひと回り大きなサイズを買い直そうかとも思ったが、五条からは何も言っていない。余計なことを言ってしまって、別々に寝ることになるのは嫌だった。
「恵、手つないで寝よ」
「いいですよ」
「昔もよくこうやって一緒に寝たよね」
「存在しない記憶ですね」
 すでにぽかぽかの右手を握りながら、五条はくつくつと笑う。今日も朝から任務だったらしい伏黒の瞳は、寝転んだとたんにとろりと溶けた。遠慮も警戒心もなくすとんと寝落ちた手は、握られたままぴくぴくと痙攣する。
 いくら親しくても男同士のルームシェアで、普通は同じベッドで寝たり、ましてや手を繋いで寝たりはしないんだろうなと五条は思う。たぶん恵もわかっている。それでいて知らないふりをして、この家に帰ってきて、料理をする。
 好き。そのひと言が言えないまま、不器用な二人が暮らしている。