死滅回游平定後、二人が人間として生き続けた泡沫のような十三年間の話です。なので死ネタが駄目な人は読まないほうがいいです。
本誌最新話(213話)までのネタバレを含みます。
白日の夢
1.十二月(二〇一八年)
伏黒、と呼ばれて振り返った。
虎杖と釘崎が戸口の前に立っていた。二人の焦ったような表情が、今に泣き出しそうに歪む。
「もう復帰して大丈夫なの?」
「おう」
「アンタねえ、戻ってくるなら連絡のひとつくらい寄越しなさいよ!」
両側から揉みくちゃにされた。うるせえと言うと二人が笑った。そんな俺らを眺めて、隣にいた五条先生も笑っていた。
「恵、荷物を取っておいで。仮職員室の隣にまとめてあるって」
「どこですかそれ」
「メモあるからあげる。手書きだけど」
「あれ、伏黒は寮には戻らんの?」
「前みたいに、五条先生と住むことになった」
「そっか。寂しくなるな」
五条先生から差し出された紙を受け取って、中身を確認した。書いてあることはよくわからなかった。
「それにしても、敷地内全域ぐっちゃぐちゃだねえ」
「ね。重力でグシャッといったらしくて、これでもようやく仮校舎が使えるようになったところ。ちょうど良かったよ、伏黒の復帰タイミング」
同意を求める虎杖の視線に、ああ、と相槌を打った。それから、そういえば復帰の挨拶をまだしていなかったなと思った。ちょうどいい、今からまとめて行ってしまおう。
「伏黒?」
「なあ、夜蛾学長って今日高専にいるか? 心配かけただろうし、一応、復帰しましたって挨拶しておこうと思って」
「えっ……?」
「恵、夜蛾学長はね、今週は京都に出張だよ。しばらく帰ってこない」
虎杖と釘崎に聞いたつもりだったのに、返ってきたのは五条先生からだった。
「そうですか、わかりました」
それから虎杖も釘崎も五条先生と話し込んでしまったから、仕方なく一人で部屋から出た。どこに向かえばいいのか、よくわからなかった。途方に暮れていると、乙骨先輩が通りがかった。
「あれ伏黒君……そっか、今日からか。おかえり」
「乙骨先輩、お久しぶりです。先輩も戻られていたんですね」
「何か探してるの?」
「えっと、荷物を取りに……」
「手に持ってるのは五条先生のメモかな? 見せて」
はい、と手渡す前に、乙骨先輩は一切の無駄のない動きで、俺の手から紙を抜き取っていった。
「ああ、回収物集積所か。仮設職員室の隣だから、僕も一緒に行くよ」
「ありがとうございます。でもいいんですか?」
「いいのいいの。僕もちょうど職員室に用があったから」
こっちだよ、と言われるままに先輩の後を着いていった。しばらく歩いたのちに先輩が指さしたのは、いくつか並んだ小さなプレハブだった。そのうちのひとつの中に入ると、雑多に荷物が並べられた狭い空間があった。
「伏黒君のはここだね。大体みんなもう回収しちゃったから、あとは持ち主不明のばっかりだ。袋はその辺にあるのを使って大丈夫だよ」
先輩が指差す先には、確かに自分の私物が転がっていた。筆記用具や衣類や日用品に加えて、いくつかの本も置かれていた。その中には人から借りたままの文庫本も混ざっていた。
「先輩、七海さんって今日高専に来てますか? この本ずっと借りたままだったから、そろそろ返したくて」
「七海さんは……今はいないけど、今度会ったときに僕から渡しておくよ。預かるね」
「すみません、ありがとうございます」
荷物の山には、あまり大したものは残っていなかった。伏黒恵、とラベルの貼られた区画から一通りのものを拾い集めて、適当な袋に詰めて、五条先生の車に運んだ。量は多くなかったけれど、駐車場までの往復も乙骨先輩が手伝ってくれた。
「伏黒君は寮を出ちゃうの?」
「そうなんです。また五条先生と住むことになりました」
「そっか、楽しみだね」
「楽しみですね。俺、あの人が作ってくれる料理が好きなんです」
「五条先生って料理するんだ、何だか意外だな」
「上手ですよ。生姜焼きとか、ちょっと甘いけど結構好きです」
五条先生の車のドアを開けて、持ってきた荷物を放り込んだ。再び鍵をかけて、乙骨先輩に着いていった。たどり着いたのは、一度五条先生に連れられた部屋だった。虎杖たちはまだ三人で話し込んでいた。
「あ、恵、おかえり。ありがとね憂太、手伝ってくれたんだ」
「先生、ちゃんと伝えてあげないと駄目ですよ。伏黒君、廊下で困ってました」
「ごめんごめん、憂太がいてくれて助かったよ。じゃあ恵、今日のところはもう帰ろうか」
五条先生はそう言って、俺から車の鍵を受け取った。すぐに任務に駆り出されるものと思っていたから、なんだか拍子抜けだった。
「じゃあね伏黒、また明日」
「ちゃんと寝坊せずに来なさいよ」
「ああ。……先輩も、ありがとうございました」
「ううん、また明日ね」
バイバイと見送られて車に乗り込んだ。五条先生は帰り道じゅうずっと、楽しそうに鼻歌を歌っていた。家に着いて、回収した荷物の整理をした。制服は破れてしまったから、新しいものを先生が頼んでおいてくれたらしい。片付けがひと段落したところで、先生が夕飯を作ってくれた。二人で食卓を囲んだあとに、明日のための支度をした。明日からまた、学生生活が始まる。
2.一月(二〇二〇年)
「伏黒も初詣行く?」
「行く」
「オッケー、釘崎が今年もどうしても明治神宮がいいって言うから、今週の土曜十時に原宿集合ね」
「おう」
「五条せんせーもそれでいい?」
「うん、大丈夫」
「アンタも来るんですか」
「そりゃそうよ。僕を仲間はずれにしようだなんて百年早い」
「どうせ車で来るなら高専まで迎えに来なさいよ」
「ちょっと、釘崎」
「いいよいいよ。じゃあ八時半に正門ね」
「よっしゃ!」
「じゃあ先生、俺ら授業始まるからまたね。伏黒、行くよ」
虎杖が俺の腕を引いた。片手には数学の教科書があった。次は数学の授業らしかった。高専の廊下を歩いて、三人で教室に向かう。背後から五条先生の声が降った。
「恵、帰る前に職員室に寄ってね。待ってるから一緒に帰ろう」
「はい。……えっと、職員室?」
「大丈夫だよ先生、俺らが連れてくるから」
「助かるよ。じゃあ三人とも、今日の学業も頑張りたまえ」
予鈴が鳴って、三人揃って慌てて教室に向かって駆け出した。五条先生はそんな俺たちに手を振って見送った。
3.二月(二〇二一年)
「真希さんも来月で卒業かー!」
「なんだ野薔薇、寂しいのか」
「そりゃそうですよ」
「まあどうせ、高専にいたらその辺で会うよ」
「でも真希さんが同じ敷地にいるのといないのじゃあ、私のモチベが全然違うんです」
「いつだって同じ地球の上にいるだろ」
「うわ、なんか元気出てきました」
「なんだそれ、単純なやつ」
学食の少し離れた席で、真希さんと釘崎が談笑していた。俺の正面では、虎杖が熱心にボードゲームのルール説明の文書を読み込んでいた。
「虎杖、それ何のゲーム?」
「気になる? これはね、人生ゲームのプラス令和(れいわ)版ってやつ。お金じゃなくて、フォロワー数で勝敗が決まるんだって。あとで寮に戻ったら男子みんなでやろうと思って」
「おい悠仁、何だそれ、私も混ぜろよ」
「ええっ、後輩たちがビビっちゃうから、真希さんが一人で男子寮に来るのはさすがにダメかと…」
「談話室でやればいいだろ。野薔薇も来いよ」
「真希さん行くなら行きます!」
「うーん、じゃあせっかくだし伏黒も混ざっていく? 五条先生が任務から戻ってくるの、まだ掛かりそうじゃん」
「いいじゃない、久しぶりね」
「恵、人生ゲームできるか?」
「参加者多くなりそうだし、二人一組のチーム戦にしようよ。伏黒は俺と組もうね」
「ああ。でも、俺……」
濁流のように押し寄せる情報に、くらりと視界が揺れた。俺は、ここで五条先生が来るのを待っていないといけなかった。また昔みたいに一緒に住んでいるから、行き帰りは五条先生の車に乗せてもらっている。だから授業が終わっても、寮には帰らない。
「あ、外いま一瞬光らなかった? ここの裏って駐車場だよね。五条先生の車かな」
「どうかしらね、この時間なら誰でもあり得そうだけど」
虎杖と釘崎が窓の外を覗きにいった。真希さんが大テーブルの斜め向かい座った。
「怪我はもう平気か、恵」
「怪我ですか?」
「ああ、言い方が悪かったな。左腕の打撲、まだ痛むか」
見ると確かに左腕には湿布が貼られていて、さらにその上から包帯で固定してあった。腕を伸ばして、左手を広げて、また握る。動かすたびに、前腕に鈍い痛みが走った。
「まだ痛いです」
「骨折までいかなくて良かったな。お大事に」
「ありがとうございます。真希さんも火傷、早く治るといいですね」
「おう」
少しして五条先生がやってきた。ごめんね、任務が長引いちゃった。そう言ってすぐに、五条先生は俺の手元を見咎めた。
「あれ恵、腕の湿布取っちゃったの? 駄目だよ、まだ貼っておかないと」
「あ、悪い悟、私が余計なことを言ったからだ。恵、それ貸せよ。巻き直してやる」
「いいよ、僕がやる。元はといえば僕のせいだし」
五条先生は慣れた手つきで俺の右手から包帯を回収して、左腕に湿布を貼り直して、包帯を巻いた。それから制服の袖を元に戻して、ボタンを掛けた。包帯はもう見えなくなった。
「恵、帰るよ」
「じゃあね伏黒、また明日」
「おう」
「悟お前居眠り運転するなよ」
「しないよ〜。誰に向かって言ってるの」
「この前事故って側面ベッコベコにしただろ」
「あれは自損事故ですぅ」
「馬鹿だな」
「馬鹿じゃないですぅ」
「夜中に無灯火で走ってガードレールに突っ込むやつのことを馬鹿って言うんだよ」
「あれは……」
「何だよ」
「……あれは、崖路でヘッドライト壊れたんだもん。あそこにガードレールがなかったら危なかったね。僕も恵も今ごろ死んでたよ!」
「これ以上恵に怪我させる前に、車検出すか買い替えるかしろよ。金あんだろ」
「へいへい」
「殺すな、って意味だからな」
五条先生はひらひらと手を振って、一度職員室に寄るために食堂を出た。俺はそれについていった。
「遅くなっちゃったね。夕飯は何にしようか」
「俺、生姜焼きが食べたいです。先生が作るやつ」
「恵も手伝ってくれるならいいよ」
「任せてください」
「頼もしい」
職員室で荷物を回収して、五条先生の車に乗った。シートベルトを取ろうと上げた左腕が、鈍く痛んだ。
「腕、痛い?」
先生が俺の代わりにシートベルトを締めた。
「痛いです」
「ごめんね」
「どうして謝るんですか」
「僕のせいだから」
五条先生はしばらく運転席にもたれたまま、ぼんやりとフロントガラスの向こうを眺めていた。あたりはすでに暗かった。先生が何を考えているのかはわからなかった。
「先生、帰らないんですか」
「そうだね、ごめん」
先生がギアを入れ替えた。車がゆっくりと進み出した。
「最近学校はどう? 楽しい?」
先生は唐突にそんなことを聞いた。
「別に普通ですよ。呪術高専なんて、楽しむために行くところじゃないでしょ」
「またまた」
「まあ、楽しいですよ。知ってて聞いてるくせに」
「そりゃあ何よりだ!」
五条先生は大口を開けてからからと笑った。
「ゲーム、悠仁たちとしてから帰ればよかったね」
「ゲーム?」
「もう忘れちゃったか」
先生はごまかすように何かを言った。ちょうど向かいから来た大型車とすれ違ったときだった。先生の言葉は、騒音にかき消されてしまった。
4.三月(二〇二二年)
三人で写真を撮ろうと言ったのは釘崎だった。藪から棒に何だと思ったけれど、虎杖が俺の腕を引いたから、三人で教室を出て外に向かった。
桜が舞っていた。
校舎から続く石畳には、淡い花びらが絨毯のように散っていた。外には五条先生もいた。先生はやってきた俺たちを見ると、もったいぶってアイマスクを外した。
「僕が撮るよ」
「何言ってんのよ、アンタも入るんだから。全員ちゃんと笑いなさいよ」
そのひと言で撮影会が始まった。制服で、横並びで立って写真を撮った。ふざけた変顔をした。虎杖が最前列の地面に寝そべった。それからいっせいのせでジャンプもした。三人だけでも撮ってもらった。四人のときは花びらを避けて、石畳にスマホを置いてタイマーをかけた。
「どう、うまく撮れてる?」
「ごめん俺最後のやつ目閉じたかも」
「虎杖は大丈夫そうだけど、五条アンタ飛びすぎ。デコから上が見切れてるわよ」
「背ぇ高すぎてゴメン!」
「ったく、腹立つわね。あと伏黒、アンタは今くらい笑いなさい。笑顔が硬えのよ」
「おう」
「はいじゃあラスト一枚撮るわよ。せーの! ……でジャンプだからね」
「あ、待って野薔薇フェイント掛けないで」
「何よ、しっかりしなさいよね。はい、笑顔はほぐれた? またタイマー掛けるわよ。……三、二、せー、のっ、」
掛け声に合わせて地面を蹴った。空中にいるあいだにカシュシュシュ、と連写音がした。釘崎は撮ったばかりの画像を確認して、満足そうに頷いた。
「今度印刷したら送るわね」
「別に画像で送ってくれればいいよ」
「私が印刷してやるって言ってんだから、そこはありがとうございます野薔薇様と言え」
虎杖と釘崎は、まだやることがあるから寮に戻ると言った。五条先生はその前にひとつだけお願い、と釘崎にカメラを渡した。五条先生は、俺と二人だけの写真を撮りたがった。
「何よ、今さら私たちを仲間はずれにするつもり?」
「伏黒きゅん、俺の隣が一番安心するって言ったあの熱い夜の汗と涙は嘘だったの?」
虎杖と釘崎がおもしろがって騒いだけれど、五条先生はごめんねと静かに呟いただけだった。
「なんてね、もうこっそり撮ってあるわよ。馬鹿二人が馬鹿真面目に正面向いて硬ってえ笑顔並べてるより、残すんならこういうほうがいいでしょ」
見せられた画面には、桜の木を背景に談笑する俺と先生が写っていた。何の話をしているところかはわからない。いつの間に撮られていたんだろう。何枚かあるらしい画像からは、どれも楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
「これも全部刷って送るわ。データも要る?」
「うん、ありがと、野薔薇」
「ちょっと泣かないでよ。ほら、仕方ないな。そこに二人で立って並びなさいよ。正面からも撮ってあげるから」
「ありがと、ごめん、ちょっと待って、いま泣き止むから……」
「行け虎杖、シャッターチャンスよ。五条の泣き顔なんてもう二度と見られないんだから」
「おう! 伏黒、五条先生の隣でこっち睨みつけて」
「は? おい」
「いいからほら。あらいいじゃない、新入りいびって泣かせたヤンキーみたい。五条、泣き顔のままこっち向いて」
「野薔薇ぁ」
散々笑って、それから先生と二人で並んで、依頼の通り写真を撮ってもらった。先生はずっと涙ぐんだままだった。この顔でも様になるのが腹立つわね、と釘崎が毒づいた。それが妙なツボに入ってしまって、ひとしきり笑っているうちに涙が出た。結局、二人して泣き笑いのような写真が撮れた。これはこれで思い出になるか、と先生がしみじみ呟いた。
5.四月(二〇二三年)
家の壁掛けのカレンダーが四月になった。津美紀が倒れたのも四月だった。あれから結局、解呪の手掛かりは見つからないままだ。
「五条先生、今度久しぶりに、津美紀の見舞いに行きたいです。車出してもらえますか」
「いいよ」
五条先生はそう言って、読みかけの本のページを捲った。先生が本を読むのは珍しかった。
今日はまだ春休みだと先生は言った。もう少ししたら、また高専に戻れる。学期始まりはいつだっけ。俺のときの入学式は四月六日だったから、きっと始業式も同じ頃に違いない。あの日はまだ五条先生と二人きりだった教室で、茶番のような入学祝辞をもらったのを覚えている。
「先生、始業式っていつですか」
五条先生は忘れてたと言って、俺が見ていたカレンダーを捨ててしまった。
「まだ先だよ。春休みだからね」
「でも」
「そんなに高専に行きたい?」
「だってそういう約束でしょ。高専に通って呪術師になって、五条さんの元で働くって」
「そうだね」
先生は淡々と言った。
「暇なら稽古つけてください」
「いいよ」
「式神、新しいやつ調伏したいです」
「いいね」
「五条先生」
先生は困ったように笑って、俺を隣に呼び寄せた。仕方なく、促されるままにソファに座った。
「なんですか」
「僕と一緒に、星座の本を読もう」
「あ、これ……」
「うん、昔二人にあげたやつ。表紙がもうぼろぼろだったから、新しいのを買ってきたんだ」
差し出されたのは、まだ個包装がかけられたままの、大判の図鑑だった。
「南十字座、いつか三人で見にいこうね」
俺が恐る恐るその包装を破るあいだ、五条先生はずっと俺の頭を撫でていた。
6.五月(二〇二四年)
うわ、と叫んだ声で目が覚めた。あたりはまだ薄暗かった。掛けた布団の中で、全身が冷たい汗に濡れていた。全力疾走したあとみたいに、心臓だけがバクバクと音を立てている。
「どうしたの恵。起きちゃった?」
隣で寝ていた五条先生がもぞりと寝返りを打った。
「すごい汗だね。シャワーを浴びておいで」
頷いて、ベッドを出て浴室に向かった。未だにまとわりつくような寒気に、ぞくりと腹の奥底が震えた。何か夢を見ていた。とてもおぞましくて、悲しい夢だった。
「待って、やっぱり僕も一緒に浴びるよ。目が覚めちゃった」
五条さんはそう言って下着を脱ぎ捨てて、俺に続いてシャワールームに入った。
浴室の鏡は外されたままだった。
頭上から降り注ぐ温かな雨を、目を瞑って受け入れた。五条さんはひと通りの洗髪や洗顔を済ませた後に、俺の体を洗った。指先にはまだ力が入らなかった。夢の内容はなにも思い出せないのに、身体だけが怯えている。
「大丈夫だよ、恵」
抱き寄せられて、触れ合った箇所から体温が溶けた。どくり、どくり。穏やかな心音が混ざり合う。
浴室から出ると、五条さんが二人分の髪を乾かして、朝食を作った。トーストと目玉焼きとコーヒーに、ジャムの乗ったヨーグルト。二人で一緒に平らげてから、五条さんは俺をドライブに誘った。
夜明けの五月の海辺は、湯上がりの身体にはまだ肌寒かった。羽織ってきた上着を首元まで閉じて、ごうごうと轟く波の音に耳を澄ませた。見上げた空が、ゆっくりと白んでいく。明けの明星は見えなかった。確かあれには周期があった。きっと今は宵にしか出会えない。
「今日は何をしようか」
五条さんが言った。久しぶりの休みらしかった。
「戻って、少し寝たいです。今ならいやな夢を見ずに済みそうだから」
「じゃあ僕も一緒に寝ようかな」
「今度は、ちゃんと隣にいてくださいね」
どうしてそんなことが口をついたのかはわからなかった。でも五条さんがいれば大丈夫だと思った。五条さんがいてくれれば何も怖くはない。五条さんさえ、いてくれれば。
7.六月(二〇二五年)
「こんなに雨続きだと、さすがに気が滅入っちゃうね」
五条さんが見上げる先には、どこまでも灰色の雲が続いていた。
「仕方ないですよ、六月なんだから」
「六月だからってずっと雨が降っていい法律なんてないですぅ」
尖らせた唇からはぶうぶうと音が漏れた。
「恵だって、晴れのほうが嬉しいでしょ」
「それはまあ、そうですけど」
「いっそのこと、波照間島にでも行く? あのあたりならもう梅雨明けしてるはずだよ」
「行かない。それは津美紀も一緒じゃないと行かない」
「冗談だって」
大事にしていた思い出を踏み荒らされたような気がして、あからさまな態度で五条さんから顔を逸らした。
「恵」
「なに」
「拗ねないでよ」
「すねてないですけど」
「ごめんね」
「すねてないです」
長い腕が伸びてきて、わしゃわしゃと髪を撫でられた。その感触は心地よかったけれど、それだけでは誤魔化されない。じとりと睨みつけると、五条さんが観念したように言った。
「南十字座、見られるのは六月半ばくらいまででしょ。だから今行ったって、次は十二月の終わりまで待たないといけない。僕だってちゃんと覚えてるよ」
そのひと言で、わだかまりは溶けていった。
昔に一度、五条さんが俺と津美紀を天体観測に連れていってくれたことがあった。理科の授業で星を習った津美紀が、どうしても自分の目で見たがった星座があったからだ。俺も五条さんも、天体にはあまり明るくなかった。それでも二人でこっそり調べて、近くで星が綺麗に見られる山を探した。日が暮れるのを待って、たくさん厚着をして、訝しむ津美紀を誤魔化して三人で出掛けた。五条さんの運転でたどり着いた先で、津美紀はこれでもかというほどにはしゃいだ。それからアイスクリーム座だ、ホットケーキ座だと騒ぐ五条さんを黙らせて、ひとつひとつ丁寧に指をさして解説した。
けれども津美紀が本当に見たかった星は、北半球で見られるものではなかった。それを知ったのは、帰る間際になってからのことだった。
『ごめんね、二人をがっかりさせたくなかったの。でも今日は本当に嬉しかった』
南十字座を、俺と五条さんが何と間違えていたのかはわからずじまいだった。もしかしたら津美紀は初めからこの近くでは見られないことを知っていて、違う星座を告げたのかもしれない。
南十字座は、日本では最南端の限られた場所で、限られた時期にしか見られなかった。だからあの星空の下で三人で、いつか大人になったら南十字座を観にいこうと約束をした。
『別にそんなに待たなくても、次の冬休みに五条さんに連れていってもらえばいいだろ』
『そうそう。早めに言ってくれれば休暇取れるよ』
『ありがとう、でもいいの。今日のこの光景があまりにも綺麗だから、私はまだこの思い出を大切にしていたいの』
『じゃあ二人とも成人したら、そのお祝いで連れていってあげる』
『その頃にはきっと私たちだって働いているんだから、私たちが五条さんを連れていってあげるよ』
『それじゃ五条さんは喜ばねえだろ。観たがってんのは津美紀なんだから』
『ふふ、なんだか僕も観てみたくなっちゃったから、大人になった二人に本当に連れていってもらおっと。それまでに次はちゃんと予習しようね、恵』
あの夜に取り付けた約束はまだ叶っていない。
「津美紀と恵が成人したら、だもんね」
家の窓から見える空は相変わらずどんよりと曇っている。それがぽつりぽつりと水滴になって落ちるまで、二人でずっと眺めていた。
8.七月(二〇二六年)
学校に行こうと支度をしていた俺を、五条先生が呼び止めた。
「どこ行くの?」
「どこって、高専」
「今日は休みだよ。休校日」
「でも今日は平日です」
「夏休みだよ。だってほら、こんなにも暑い」
僅かに開けられた窓から、気怠い熱風が入り込んだ。驚いて空調の効いた部屋奥へと逃げ込んだ俺に、五条さんが笑った。
今日は何日だったっけ。さっき見た日付は思い出せなかった。五条さんは何を言っているんだとでもいうふうな顔をして、俺をソファに座らせた。
「今日はお休みなので、僕と一緒に映画を観ます」
「何を観るんですか」
「何がいい?」
差し出された映画のパッケージには、どれも見覚えがあった。
「これ、昔アンタと修行したときに見せられたやつだ」
「そうだよ、よく覚えてるね」
五条さんが言った。その笑顔はどこか寂しそうにも見えた。
小学生の頃に、狭く暗い地下室に閉じ込められて、呪力コントロールを覚えるまで延々と外国の映画を鑑賞させられた。有名どころからB級まで、五条さんコレクションの守備範囲は広かった。その中でも、今五条さんが差し出しているのは超一級の有名どころばかりだ。くじ引きのような気持ちでひとつを選んで、五条さんに手渡した。
初めに再生した映画は、殺し屋と少女の話だった。二人の凶暴な純愛がやがて終わりを迎えるまでの僅かな月日を鑑賞しながら、五条さんが唐突に言った。
「僕、あの雇い主はレオンの資産を貯蓄なんかしていなかったと思うんだよね」
「最低ですね」
「やっぱり恵もそう思う?」
「違います、そんな発想をするアンタのことですよ。今良いところなのに、情緒もへったくれもない」
クライマックスは過ぎていた。画面の中で、主人公だった男が死んだ。男の雇い主の前で、少女は自分も同じように育ててほしいと泣いた。生前レオンは、マチルダに殺しをさせなかった。彼女の心に寄り添いながらも、彼女の帰るべき道だけは守り続けた。マチルダは寄宿舎に戻って、レオンの形見の観葉植物を校庭に植えた。根無草だった観葉植物が、その地で育つのかはわからない。ひとり泣き続ける少女は元の世界に帰ってきた。
映画はそこで終わりだった。彼女はこの先もきっと、垣間見た裏社会とは無縁な人生を送るのだろうと思った。
「まるで僕たちとは正反対だね」
昔観たときと全く同じ感想を述べて、五条さんが再生を止めた。取り出された円盤は元のパッケージに戻されてしまった。
「五条さん、高専は明日もお休みですか」
「うん」
「じゃあ次はこれを観ましょう。昔アンタがお気に入りって言ってたやつ、『モーターサイクル・ダイアリーズ』。俺、ずっと気になっていたんです」
返事はなかった。
「……五条さん?」
「これは今日はいいよ。観たらたぶん、どこか遠くにいきたくなっちゃう。もっとバカ明るいやつにしよう」
「じゃあ、ロアルド・ダールの『チャーリーとチョコレート工場』」
「いいね。僕、ウンパ・ルンパの踊りが好き。一緒に踊り出しちゃうかも」
五条さんはその映画を観て号泣した。『レオン』を観てもけろりとしていたのに、五条さんはチョコレート工場の最後でぼろぼろ泣いた。誰もが幸せになる、よくある家族愛のハッピーエンドだ。それがどうしてか、五条さんの琴線に触れたらしかった。
「五条さん、今日はもうやめにしますか」
「ううん、大丈夫。ごめんね、次は何にしようか」
鼻をかみながら差し出されたのは、やっぱり前に観た映画ばかりだった。それも当時の修行の内容が内容だったから、どれも感情を揺さぶるようなのばかり。そんな重たいものを、一日に何度もは観られない。
「ジブリとか、そういう穏やかそうなのにしませんか」
「僕持ってたかなあ」
「なければ借りにいきましょう」
「恵も一緒に行く?」
「俺も一緒に行きます」
家を出るついでにと、五条さんは部屋の隅にまとめてあったゴミ袋を持った。それを内廊下の奥のダストシュートに押し込んで、エレベーターホールに戻ってきた。中には五条さんの仕事着が入っていたはずだった。
「呪術師服、サイズ合わなくなっちゃったんですか」
「うん、そうなの。だから捨ててきた。もう要らないから」
七月の夕方は蒸し暑かった。レンタルビデオ屋でいくつか映画を借りて、帰りにコンビニに寄った。冷房が効きすぎた店内で、五条さんは小さなパフェを選んだ。俺は要らないと言ったけれど、五条さんは余ったら自分が食べると、俺の分の和菓子も買った。
夕飯を食べてから、またソファに並んで、借りてきた映画を再生した。隣では五条さんが早速コンビニで買ったおやつを開けていた。画面に写し出される田園風景は単調で、退屈だった。肩にずしりと重みが乗った。五条さんは俺の肩に身を預けて、薄暗い部屋の中でぼんやりと画面を眺め続けた。
「おもしろいですか、これ」
「うん、久しぶりに観るとまあまあ……恵、もしかしてこれ見たことない?」
「初めてだと思います。なんだかあまり、頭に入ってこない作品ですね」
「ジブリにそんなことを言うのは恵くらいだよ」
五条さんはDVDの再生を止めて、中身を取り出してしまった。それから改めて、次の暇つぶしの候補が差し出された。目の前に並べられたのは、やっぱり見覚えのある映画ばかりだった。
9.八月(二〇二七年)
「九年ってさ、長いと思う?」
「何の話ですか」
「さあ、なんだろうねえ。片思い?」
五条さんは手元で小さな花火を燻らせながら言った。
「九年の片思いは、長いですよ。そして重いです」
火遊びをしよう、と言ったのは五条さんだった。差し出された鮮やかな袋には、手持ち花火が入っていた。それを持って海辺に出かけた。車を降りて生ぬるい潮風を浴びながら、五条さんは線香花火に火を点けた。目の前に広がる真っ暗な大海を灯しながら、小さな光がパチパチと散った。薄ら明かりの中で、俺もひとつの花火の生と死を見送った。
すすきのような閃光が華開いて、地に落ち、光を失う。輝きは長くは保たなかった。棒切れはすぐに燃え尽きた。あたりには火薬のにおいが残った。
「叶う見込みはあるんですか、その片思い」
「ないよ。九年前から、もうずっとない」
こうこうと押し寄せる波に今にかき消されてしまいそうなその声は、とても静かで穏やかだった。
遠くの浜辺からは、賑やかな騒ぎが聞こえくる。すぐ横の国道には、海風を切るような速度で車が何台も通った。夏の夜の砂浜はまだ温かかった。それがとても心地よかった。
「そういえば高専の夏休み、いつまででしたっけ」
「月末だね、三十一日」
「まだもうしばらく休みってことですか」
「うん。だからもうちょっとだけ遊んでいこう」
立ち上がった俺の手を、五条さんが掴んでいた。そうですね、と呟いて足元の袋から新しい花火を取り出した。線香花火だ。ライターの火を灯して、細い先端を炙った。火玉が溜まって、眩いばかりの炎色が弾けた。散った火の粉を撫でるように海風が吹いた。
「叶わないのに好きなんですか、その人のこと」
「そうだねえ」
「じゃあ、いつか報われるといいですね。五条さんの片思い」
「ありがと」
手元の光は急速に勢いを失い、火花がひとつ、またひとつ砂浜の上へと散っていった。本当はここから花開くはずだった。仕方がない、運が悪かった。また新たな火を灯そうとして袋の中を探した。けれども同じものはもう見当たらなかった。
「ねえ先生、その人って」
「恵の知らない人だよ。もうずいぶんと前に、遠いところに行ってしまったの」
五条さんは隣で、丁寧に火玉を灯し続けた。花がいくつも咲いては散った。次第に勢いが衰えて、赤みがかった炎が黄色く色彩を失っていった。花火はそれで終わりだった。最後に残った燃えさしから、ゆらゆらと煙がゆれていた。
10.九月(二〇二八年)
五条先生はどうしてもの用事ができたと言い残して、朝早くから出掛けていった。あの人は、本当はとても忙しい人だ。教師としてふらふらしていていい人材じゃない。
高専はまだ夏休みだった。暇を持て余して、俺はリビングに放り出されたままだった星座の本を開いた。津美紀は星を見るのが好きだった。狭い和室の床いっぱいに星座図を開いて、覚えたばかりの知識をよく聞かされたものだった。
そうだ、津美紀の見舞いに行こう。ふと思い立って、外出着に着替えた。大抵は五条先生の車に乗せて連れていってもらっていたけれど、あの病院には電車でも行くことができた。そう思い立ってからは早かった。部屋の外に出て、エレベーターを下りて、マンションの外に出た。家の前から、どこまでも続くアスファルトの上を歩いた。坂を上って、また坂を下りる。学校を通り過ぎて、公園の中を通り抜けた。たくさん歩いて、日が暮れるまで歩いて、駅に着いた。
ポケットの中にICカードは見当たらなかった。仕方なく券売機に並んだ。画面には金額のボタンがいくつも並んでいた。病院までの金額はわからなかった。調べようと思ったのに、スマホも見当たらない。
「お客さん、どこ行きたいの」
券売機の裏側から、駅員が顔を出した。
「浦見中央総合病院です」
「そうじゃなくて、駅名を聞いてるのよ」
「えっと……」
「悪いけど後ろが詰まってるから、わかんないならちょっと横にずれて。今そっち行くから」
そう宣言した通りに、制服姿の小柄な男性が、すぐ近くの扉から現れた。
「アンタ、学生さん?」
「はい」
「どこの子? 学生証ある?」
学生証は財布の中に入っているはずだった。カード類をひと通り抜き出して、一枚ずつ確認した。
「浦見って言ったら埼玉の東のほうでしょ。うちの路線じゃないと思うんだけどなあ」
「でも俺、浦見東に住んでで、ここが最寄りです」
駅員がいっそう眉をひそめた。津美紀の病院の面会時間、何時までだっけ。高専に理解のあるところだから頼めばきっと入れてくれるだろうけれど、できれば迷惑を掛けずに、規則通りに会いにいきたかった。
「今のそれ、何? ちょっと見せて」
「どれですか」
「それだよ、貸して」
財布の中の多種多様な券面に紛れていたのは、ラミネート加工のされた小さなカードだった。そんなものを入れていた覚えはなかった。カードには何行かの文字と、電話番号が書いてあった。
「ああ、やっぱりね。中においで。いま保護者と連絡取ってあげるから」
いくつか並んだ長椅子のひとつに座らされて、駅員が戻ってくるのを待った。中では事務の人たちが時折こちらの様子を伺いながら、机に向かって各々作業をしていた。
「あの、ここは……?」
「駅舎の中だよ。もうちょっと待ってな」
壁にもたれかかって、うつらうつらと船を漕ぐ。疲れたな、と思った。今日はたくさん歩いた気がする。足が痛い。事務員が一人、また一人いなくなった。そうして全員がいなくなって、部屋の電気の半分が落とされた。五条さんが来たのは、それからもう少し経った後だった。
「帰るよ、恵」
五条さんは何度も駅員に頭を下げて、俺の腕を掴んで駅構内を歩いていった。
「痛いです。五条さん、腕、痛い」
「ごめん」
振り解くと、皮膚が五条さんの手の形に赤くなっていた。五条さんは代わりに俺の手首を掴んだ。冷たく湿った指先が、手首をぎゅうと握りしめた。
タクシー乗り場を探して、二人で列に並んで順番を待った。先頭のスーツ姿の人たちが次々に乗り込んでは消えていく。ようやく自分たちの番になって、四人乗りの小さな車に乗り込んだ。後部座席から五条さんが行き先を告げた。遠いですよ、と運転手が言った。
「大丈夫、合ってますから」
五条さんはそれっきり何も言わず、ずっと暗い窓の外を眺めていた。手はまだ繋がれたままだった。
帰宅してからも、五条さんは俺に何も言わなかった。俺は何をどう切り出せばいいのかわからなかった。迷惑をかけたのかもしれない。中学のときには、五条さんは俺のせいでこうして何度も学校に呼び出された。いつになったらこの人は諦めるだろうかと、試すような気持ちがあった。けれども五条さんは呼び出されたら必ず、浦見東中の校長室まで出向いた。任務を途中で切り上げたことも、私用から引き返したことも幾度となくあったはずだ。あのときはざまあみろと思っていた。でも今は違う。今日のことは、そんな気持ちで起こしたわけじゃなかった。
「五条さん、あの」
「悪いけど、しばらく一人にして」
「はい、すみません」
「……恵は悪くないよ。僕が、ちょっと、ね」
珍しく歯切れは悪かった。五条さんは、その先を続けるのをためらっているようだった。
「帰ってきて誰もいない家の中を見たときに、一瞬だけ、終わったんだって思っちゃったの。そんなこと思うはずなんてなかったのに」
11.十月(二〇二九年)
夕飯の洗い物が終わると、五条さんは冷蔵庫から小さな缶を出してきた。ほろ酔い、と飲んだときの様子がそのまま商品名となった缶をローテーブルに置いて、ソファの座面を背もたれにする俺のすぐ隣に腰を下ろした。
「飲む?」
「未成年に飲酒を勧める大人がどこにいるんですか」
「まあまあ、お堅いこと言いなさんなって」
へらへらと笑って五条さんがプルタブを引いた。辺りには甘い桃の匂いが漂った。それをひと口煽って、五条さんが缶を俺の口元へと差し出した。
「なにごとも経験だよ」
からかわれているのだと思って、俺はじっと動かなかった。五条さんはなおもその甘ったるい匂いのする缶を俺の唇に突きつけた。好奇心に負けてそっと舌先を出した。飲み口の液だまりをぺろ、と舐めた。甘い、そして少し苦い。怯んだ隙に、五条さんの手が缶を奪っていった。
「返して。やっぱりだめ」
「どうして」
「お酒は体に悪いから。恵は飲んじゃダメ」
五条さんはぐいと缶を傾けて、がぶがぶと中身を飲み切ってしまった。再び机に置かれた缶はすっかり空になっていた。底がテーブルにぶつかって、こん、と音を立てて缶が転がる。
五条さんが下戸だというのは周知の事実だ。度数三パーセントの酒でも、五条さんは十分に酔うことができる。そんな人が、こんなやけっぱちな飲み方をしていいはずがない。
「水もってきます」
「いらない。いかないで」
五条さんの手が俺の腕を掴んだ。
「でも……」
「平気だよ。僕だって、もういい大人なんだから」
五条さんがへらりと笑う。
本当に真っ当な大人だったら、酒缶をこんな、風呂上がりの水みたいには飲まない。度数三パーセントだろうと、アルコールを未成年には勧めない。そもそも体質的に受け付けないとわかっていて、酒なんか飲まない。
「恵はお酒、飲んでみたかった?」
「別に。アンタが飲めって言ったから飲もうとしただけです」
「本当はちょっとくらい飲ませてあげようと思ってたんだよ。でも見てたら、やっぱりやだなって思っちゃった。だってお酒なんて体に悪いじゃん。恵には元気に長生きしてほしいの。できればね、僕のとなりで、ずっと」
五条さんは囁くように言った。すでに酔いが回り始めたようだった。頬の紅潮が、首元を染めていく。
「それでね、もう寿命が尽きてどうしようもなくなって、最後の最後になっても、まだ生きていたいって願ってほしいの」
俺に向かって話しているはずなのに、その言葉はどこか遠くから響いていた。
「みっともなく、泥まみれになって足掻いてよ。その人生にもう何の意味がなくても、何も成し遂げることができなくなっていても、恵には、幸せな人生を送ってほしいの。最後の最後になっても『まだ生きていたい』って、思わず、そう願ってしまうくらいの」
掴まれたままだった手から、次第に力が抜けていった。それでも五条さんは俺の手を離さなかった。今に振り解けそうになっても、俺の手は握られたままだった。
「……ねえ恵」
「はい」
「時が経つのは、早いね」
俯いたまま、視線はどこか遠くを見ていた。真っ赤に色づいた身体からとうとう意識が消えてしまうまで、五条さんは俺を隣に置き続けた。まるでそうでもしなければ、俺がどこかに行ってしまうと思っているみたいに。