第12回「月が綺麗」

「そういえば月が綺麗ですねってさ、夏」
「夏目漱石が本当に言ったのかもわからないのにアイラヴユーをそう訳したって言説が広まって今じゃ本当に綺麗な月をそう指差すのも気が引けるようになったクソフレーズですよね。それが何か?」
 カタカタと苛立たしげに、恵の指先はハンドルを叩いている。曇天を戴く高速道路。かれこれ二十分ほど経つが、眼前の車列はピクリとも動かない。
「恵チャン今日はご機嫌斜めね」
「ようやく早く帰れると思った途端にこれですよ。やってられっかって話です」
 先ほどの任務の合間に聞いた話は二十連勤だったか、三十連勤だったか。ハンドルを握る可愛い弟子の目の下には、ちょっとやそっとでは消えそうもない黒ずんだ隈が鎮座している。
 ハイウェイラジオからはひとごとのように渋滞情報が流れてくる。運転席に断りも入れずに五条はその周波数を上げた。がさついた音ともに切り替わった先はローカル局の番組だった。キャスターかパーソナリティかもわからない女性の声が、甘ったるい名称とともに、見えもしない今日の月が特別であることを告げた。
「ストロベリームーンってこの前もなかった?」
「毎年あるでしょ、六月の満月のことです」
「あれ、じゃあ恵がみんなと一緒に屋上で見たやつは?」
「皆既月食と天王星食ですね。アイツら、月より団子って感じでしたけど」
 一瞬だけ和らいだ表情は、すぐにまた顰めっ面へと戻った。こりゃあダメそうだな。助手席の五条も手持ち無沙汰で、とうとう座椅子を倒して寝転んだ。
 のろのろと進み出した車はまたすぐに止まった。何キロも先で起きたらしい衝突事故に、夕方の帰宅ラッシュ。雨天一歩手前の曇り空の下、渋滞は切れる気配もない。静まり返った車内に場違いなサウンドエフェクトを響かせて、ラジオは下界の流行を知らせている。今週のヒットチャートはどれも知らない。新着ニュースに芸能ゴシップ。それから日記のようなラジオネームとともに読み上げられる、切ない恋のお悩み相談。そんなあなたにはこの曲を、と軽やかなイントロが走り出す。
「雨降りそう」
「降ったら、俺はここで車を捨てて歩いて帰ります」
 恵は空になったペットボトルを凹ませて言った。気晴らしにちびちびと口をつけていたそれも、とうとう飲み干してしまった。
「影に仕舞って持ち帰ればいいじゃん」
「いやですよこんな重いの」
「環境破壊はんたーい、税金泥棒、呪術師は即刻高専敷地を日本国政府に返還せよー」
「何でしたっけそれ、正門前の座り込み集団?」
「そうそう、盤星教の」
「まだいるんですか」
「ずっといるよ、僕が学生だったときからいる」
「暇すぎんだろ、任務分けてやりたい」
「硝子も昔似たようなこと言ってたな」
 深いため息が返されて、五条も口を噤んだ。ラジオはCMに入って、そのまま首都圏の天気予報に変わった。今夜は雨だと告げるその声を待ち侘びていたかのように、ぽつり、と水滴がフロントガラスを打った。
「あーあ、降ってきたね」
「あ゛?」
「空にメンチ切ってどうすんのよ」
「じゃあ俺、歩いて帰ります。五条さん運転席どうぞ」
「えっ、やだよ。恵が帰るなら僕も帰るよ」
「じゃあそれで」
 何のためらいもなく恵は車を降りた。刻々と強まっていく雨足が、容赦なく恵に降り注いだ。よいしょ、と五条も助手席から長い足を出した。雨粒は彼だけを避けていった。
「これ、本当に置いていくの?」
「文句あります? いま機嫌悪いんで、説教なら聞きたくないです」
「ううん、いらないか聞いただけ。ゼロ円食堂みたいなもんだね」
「はあ」
「あれ鉄腕DASH知らない? うわジェネギャ」
「知ってますよ、無人島で竪穴掘って猛獣狩ってるおじさんたちでしょ」
「さすがにもうちょっと農耕寄りだった気がするけど」
 いよいよ始まった本降りの中、恵は額に張りつく髪をかき上げて、路肩につまらなさそうに立っている。
「非常階段あっちなんで俺は下に降りますけど、五条さんは? 飛んで帰ります?」
「ちょっとだけ待ちなさいな若人よ。急いては事を仕損じるよ」
「俺もう二十六ですけど」
「え、なになに、年齢言い合う大会? 五条悟、京都出身三十九歳でぇえす! じゃ、オッケー出たんで、もらっちゃいまーす!」
 きゃらきゃらした声とともに、五条はひょいと指先を突き出した。メキョ、とこの世のものとは思えない音がして、さっきまで乗っていたはずのミニバンが忽然と形を消した。五条の手の中には、恵の車と同じ色をしたBB弾もどきが浮いている。
「いやあ、いくら日々特権を貪り食らう呪術師たれども、車の不法投棄は捕まりますからね」
 イカれてる、と恵が口元をつり上げて笑った。記憶にある限り本日初めて拝むその笑顔に、自然と五条も愉快な気持ちが心に浮かぶ。
「何トンあるんですかその鉄塊」
「知らない、でもそんなに重くないよ」
「ラヴォアジエが泣きますね」
「誰それ?」
 五条は車だったものをポケットに仕舞い込んで聞いた。
「知らないおじさん」
「やだあ、恵が話題にするおじさんは僕だけがいい」
「おじさんの自覚あったんですね」
「さすがにもう四十近いからね」
「独身貴族おじさん」
「手のかかる子供がいるからいいんですぅ」
「いつのまに私生児もうけたんですか」
「僕が十九のとき」
「初耳だ」
「もしかして恵君は、鏡というものをご覧になったことがおありでない?」
 しょうもない軽口を叩き合って、防音壁をひらりと飛び越えて手を繋いだ。放り出されるはずだった身体はぴたりと宙に浮いて止まる。このわずかな時間だけでいくつもの物理法則を嘲笑ってみせた二人に、仰天した空が雨を浴びせる。
「ヒュウ、水も滴る良い男」
「どうせなら俺にも無限張ってくれりゃいいのに」
「さすがにそこまで甘やかしてはやんないよ」
「手のかかる子供じゃなかったんですか」
「親離れしな」
「親のほうが好き好き言って離れてくれねえんですよ」
「毒親じゃん、行政に相談したほうがいいよ。そいつ昔からお前のこと痣だらけにしてなかった?」
「鏡が家におありでない?」
「うるさ」
 げらげらと笑って、空中散歩は雲へと向かう。分厚い乱層雲の狂騒を抜けて、開けた視界は満天の夜空。遥か遠く向こうの空に、小ぶりな満月が輝いている。
 はは、と恵が声を上げて笑った。
「人生で一番綺麗な月」
「アイラブユーにしては控えめね、恵チャン」
「アンタ相手に、今さら言葉にしなくてもいいでしょ」
「あ、良くないんだからねそういうの。言葉にしなくても伝わってるだろ、みたいな。すれ違いの原因よ」
 連綿と続く雲の上を、帰り道を探して二人で歩く。恵はふと気になって、隣を歩む男に話しかけた。何となく真っ当な答えは返ってこないだろうと思った。
「ねえ五条さんなら、何て訳します?」
「ヤダァ、雰囲気台無し!」
「声デカ」
「僕にベッタベタなロマンスを持ち込もうだなんて十年早いのよ」
「十年経ったらあんた五十だろ」
「だまらっしゃい」
 いまいち締まらないやりとりに、恵は苦笑する。それでもこの気取らなさが好ましくて、気づけばもう何年も隣にいる。いいや、それだけじゃない。今日だけでもいくつもの我儘を聞いてもらった。それに恵が今すぐあの月を吹き飛ばしてよと言えば、五条はまずは一考して、理由を聞いてくれる。それから、きっと本当に月を吹き飛ばしてはくれないけれど、今日みたいにまた隣に寄り添って、責められるほどでもない悪事を一緒に働いてくれるのだろう。
「腹減った。帰る前に何か食いたいです」
「でも、冷蔵庫に昨日僕が作った煮物があるよ。あと特売だったから冷食も買い足しておいた」
「それ、五条さんのアイラブユー?」
「寝言と馬鹿は休み休み言えよ」
 そっけなく言い放って、それから五条は繋いだままの手をぎゅうと握った。
「早く帰ってご飯にしよう」
 それが渾身の愛の言葉だったのだろうことに、恵は何十歩か進んだ後に気がついた。少なくとも、そうですねと気軽に流されるつもりで放たれた言葉ではなかったらしい。
「朴念仁。唐変木」
「言葉にしなくても伝わるだろ、みたいなの良くないって言ったのアンタですからね」
「ちゃんと言葉にしたもん」
「そうだけど違うだろ」
 やっぱりどうにも締まらない。そんなやりとりを見下ろして、遠い満月が笑っている。