2:虎杖悠仁
急遽任されたナナミンとの任務が終わったのは夜九時すぎだった。そこから釘崎から来ていたメッセージを返して、学食で取り置いてもらった夕飯を食べて、さてゲームでもするか、と思ったところでスマホのアラームが鳴った。
なんでこんな夜に鳴るんだっけ。前に昼寝したときのやつ解除してなかったかな。スマホを手に取ると、リマインダの件名が表示された。明日、数学の宿題、期限。
「伏黒ー! 伏黒きゅーん!」
「だからそれやめろってバカ。何だよこんな時間に」
「あのさあ一生のお願い! 俺がちゃんと宿題終わるまで見張ってて! あとついでにこいつのレベル上げしてて!」
「お前の一生はいくつあるんだよ」
伏黒が先に帰ってきてて良かった、と隣の部屋の扉を叩きながら思った。今日はこのあいだの任務の後処理をしてから定期巡回に合流した、って釘崎から聞いた。伏黒も俺たちもみんな一年だけど、二級術師の伏黒は一人だけで任務を遂行することが可能で、三人で行くときには、現場の作業責任者、みたいな立ち位置になるらしい。今日もいろんな大人と話して回ったんだろうな、と思うとこんな夜に押しかけるのはちょっと気が引けたけれど、それはそれ、これはこれだ。大丈夫、伏黒はなんだかんだで優しいし押しに弱い。というかそもそも、今からじゃまず絶対に俺一人でこんな宿題終わらせられない。
「んで、これどうやって操作するんだ?」
「さっすが伏黒! 俺の中のモテ男ナンバーワン!」
「いいから早く宿題終わらせろ。追い出すぞ」
さっそく部屋に上げてもらって、伏黒の机の上にノートと問題集を広げる。机の上も部屋の中も几帳面に整理されていて、俺の部屋とは大違いだ。
ベッドに寝転がった伏黒に持ってきたゲーム機を手渡して、基本の操作を教えた。
「とりあえず歩き回って、こいつに経験値貯めさせておいてもらえれば大丈夫だから」
「虎杖、バトル始まった」
「あああ、ごめんちょっと貸して! 回避方法も教えるね!」
慌ててベッド横にしゃがんで、バグのような小技をいくつか伝授した。伏黒はふーんと相槌を打って、画面の中のキャラクターを動かした。草むらに入ったり、水辺を回ったり。小さなデフォルメがひょこひょこと歩いていく。ひとまずこれで大丈夫そうだと机に戻った。途中でふと、入り口近くのキッチンスペースが目に入った。
「そういえば伏黒ってあんまり料理するイメージないけど、調理器具一式揃ってるよな」
「ああ、実家から持ってきた。もう誰も使うやついねえし」
「そっか姉ちゃん入院してるんだっけ。父ちゃんと母ちゃんも料理しないの?」
「あれ、言ったことなかったか? 父親も母親も、俺と津美紀を置いて十年くらい前に蒸発した」
「えっ……」
まるで今日食べた昼ごはんのメニューについて話すくらいの無感動さで言うから、俺のほうが面食らった。伏黒は表情ひとつ変えずに、ずっと同じ姿勢のままゲームの操作に興じていた。
「……それは、その、ごめん」
「どうせもう顔も覚えてねえし、いい。初めからいなかったも同然だ」
気まずい沈黙が流れてしまった。伏黒はきっと気を使われるの、好きじゃないだろうな。慌てて別の話題を探す。
俺の手元のデスクマットの下、ちょうどノートを広げていたところに、浦見東小学校の卒業式の写真が挟んであった。黒髪の女の子がとびっきりの笑顔で笑っている。
「あ、ねえねえ、もしかしてこれが津美紀の姉ちゃん? あと、あっ…、これ、五条先生……?」
ノートを少し寄せると、写真の全貌が現れた。一番端には中学の制服の女の子。真ん中が胸に卒業生用のコサージュを付けられて憮然とした顔で立っているミニ伏黒で、それから、逆の端には五条先生によく似た大人が、サングラスにスーツを着てしゃがんでいた。小学校の卒業式の看板の前で撮られた写真だった。背後では、早咲きの桜が舞っている。
「それ、卒業式の日に五条先生がカメラ片手に押しかけてきたから、三人で撮ったんだよ。津美紀がずっと飾ってたのを、入寮のときに持ってきた」
「そういえば入学前からの知り合いって言ってたよね」
「ああ。俺の両親が蒸発したあと、福祉介入される寸前で、ふらっと現れた五条先生が世話を焼いてくれて、」
安易に人には話したくはない過去だろうに、全然気にしていない風を装って、伏黒が言う。
「あの人、当時はまだ高専生だったと思うんだけど、俺が呪術師として将来働くことを条件に、生活費とかの援助を高専から引っ張ってくれたんだよ。あとはたまに任務に連れ出されたり、稽古につけてもらったり」
「……それって何歳くらいのとき?」
「忘れた。出会ったのは小一くらい」
ということは、それから十年近くもずっとがんばって、伏黒はちゃんと高専に入って二級術師として活動していることになる。
そっか、だから伏黒は五条先生のことが好きなんだ。昨日から浮いたままだったパズルの最後のピースが、ぴたりとハマったみたいだった。一番困っていたときに助けてくれて、小さい頃からずっと面倒を見てくれた。きっと呪術師になるための諸々を教えてくれたのも先生だったんだろう。
そりゃあ好きになっちゃうよ。
「伏黒ぉ、うぅ、ぐすっ、お前、幸せになれよ」
「泣いてないで課題を進めろ。というか、家庭環境だけならお前とそんな変わんないだろ」
そんなこと言われても、涙に濡れて問題文が読めない。もう諦めて「任務忙しくて無理でした!」って言って素直に謝って怒られたい気持ちに負けそうだった。でもせっかく伏黒にこんな遅くに助けてもらってさすがにそんなわけにはいかないから、地道に頑張るしかなかった。
それから一時間くらいはお互いそれぞれの作業に没頭した。途中でゲームに飽きたらしい伏黒は、歯に衣着せず「飽きた」と言い放ってゲーム機を脇に置き、代わりにタブレットを開いて何かの資料を読み込み始めた。
「伏黒ぉーおわんないよー」
「頑張れ」
「授業中に問題解く時間欲しいよー」
「それは一理ある。宿題に回されると意外と重いよな」
「とか言いつつ伏黒は毎回ちゃんと終わらせてるじゃんー」
何ならスマホに課題のリマインダー入れとけって教えてくれたのも伏黒だ。それを提出日前夜にセットした俺がバカだったのであって、次回からは絶対、もう数日前に通知が来るようにする。だから、苦しいのは今回までだ。
「あと何問あんの」
「ふたつ」
「もう模範解答写せば」
「いや、せっかくここまで来たから、明日起きてから頑張るよ」
遅くなっちゃったし、と見上げた壁時計は午前一時を回っていた。
慌てて片付けをして、伏黒の部屋の出口に向かった。それからいくつか言いたいことがあったのを思い出して、振り返った。
「そういえばこの前、立川のいつものビデオ屋でホラー映画仕入れてきたから、今度一緒に観ようよ」
「ホラーってかどうせB級ホラーだろ。いいけど」
「じゃあ明日は? 明日の夜鍋パしよって釘崎と話してたんだけど、伏黒もいける?」
「クソ映画観ながら鍋食うのはイヤだ」
「キラコンの件は本当ごめんて」
前にドイツ製のちょっと古い映画『キラーコンドーム』を食事中に上映するという最低のチョイスをした俺のことを、伏黒は未だに根に持っている。同じく一緒に観てた釘崎なんかは、刑事が陰部を食いちぎられたシーンで腹が捩れるほど爆笑してたから良かったけど。何なら釘崎が一番笑ってたし、伏黒が一番引いてた。
五条先生とかああいう下品なやつ大好きそうだけど、伏黒は『ムカデ人間』とか観せても怒りそうだなあ。あと犬が死ぬ系も駄目そう。まあ、ムカデ人間はそもそも食事中に流すものじゃないか。
噂をすれば、という程でもなかったけれど、こんな時間なのに、ちょうど廊下の向こうから五条先生がやってくるのが見えた。教員の寮棟は学生寮のすぐ隣にあって、中で繋がっている。天気が悪いときや急いでいるときなんかは中から回ったほうが良いらしくて、たまにこうして会うことがあった。
「あれ、悠仁じゃん。出迎えご苦労」
「おっす先生ー! 任務だったん?」
「そうそう、さっき盛岡から帰ってきたところ」
いやあ疲れた疲れた、と目隠しを下げた五条先生は相変わらずのイケメンっぷりで、全然疲れているようには見えなかった。何なら学生時代から全く歳を取ったように見えないって前に家入先生がボヤいていたくらいだ。
「先生よく東北行くね」
「あのあたりは厄介なの多いからね」
二言三言交わして、それから通りすがりに、先生はあれ、という顔をした。俺が今顔を出しているのが俺の自室じゃないことに気を止めたらしい。
「恵まだ起きてんの。明日僕と朝一で任務だよね」
急に険しくなった先生の声に、自然と背筋が伸びた。部屋の中の伏黒はいかにももう寝ますという風体ではあったけれど、五条先生はそれすら見咎めたようだった。
はい、と答えた伏黒の声は硬かった。
そんな伏黒に、心の中で謝った。明日早朝から任務だって知ってたら、こんな遅くまで居座らなかったのに。悪いことしちゃった。
「その件で少し打ち合わせしたいって夕方にメッセージを入れました」
「あれほんとだ。何、討伐対象呪霊の等級の再確認について? 過小評価の可能性があるってこと? 僕も帰りに資料に目を通してきたけど、さすがにあれは一級判定が妥当だと思うよ。資料に記載された以上の被害は確認されていないんでしょ」
でも、と伏黒が言いかけたのを、五条先生は容赦なく遮った。
「それにこれって別に明日の移動中にすれば済む話だよね。高専から車で一緒に行くんだから」
「……はい」
「二級術師だろ。段取りをもっとよく考えな」
それは無駄ひとつなく、それこそ上司と部下みたいなやりとりだった。それから五条先生は「おやすみ」と言い残して教員棟のほうに去っていった。
置き去りにされた俺と伏黒のあいだに、気まずい沈黙が流れた。
同期が叱られている現場に立ち合わせるほど、いたたまれないものはない。端から聞いていてもそんなに怒るほどのことでもなかったような気がしたから、なおさらだった。
「変なところ見せて悪かった。お前ももう寝ろよ」
俺が部屋に置き忘れていたゲーム機を手渡して、伏黒が言った。
「明日の鍋パ、俺もいける。任務だけど、夕方には帰ってくるから」
明らかに落ち込んだ様子だったけれど、結局なんて声を掛けていいかわからないまま解散してしまった。俺もすぐに寝支度を整えたけれど、どうしても気になって、壁ひとつ隔てた空間に向けて、トークアプリでスタンプを送った。このあいだ見つけて伏黒が好きそうだと思った、可愛い子犬のやつだ。アプリの画面をしばらく眺めていたけれど、結局既読はつかなかった。伏黒はきっとこんなことでは泣かないだろうけど、もしかしたら聞こえてくるかもしれない物音が怖くて、イヤフォンをつけた。苦し紛れに流した場違いなバラードは、子守唄にもならなかった。
翌朝俺が起きたときにはもう伏黒は出発したみたいで、隣からは物音ひとつしなかった。「忘れ物、ドアのところに置いておいた」。携帯にはそんな連絡が入っていた。部屋の前には俺の筆箱が置いてあった。去り際にいろいろと抱えていたから、うっかり落としてしまったらしい。感謝の虎のスタンプを送って、身なりを整えて、少し早めに教室に向かった。昨夜残してしまった数学の宿題二問を、どうにか二限までに片付けなきゃいけなかった。
「一年ども、悟から伝達。恵が怪我で救急搬送されたって」
真希さんが教室までそう伝えにきてくれたのは、放課後すぐのことだった。ちょうど釘崎と今日の鍋の具材の買い物リストを作っていたところだった。思わず隣にいた釘崎と顔を見合わせる。
「え、何があったんですか」
「わからん。朝から悟と任務だったらしいけど」
真希さんも詳細は知らされていないらしく、すぐに別の任務に駆り出されていった。『伏黒だいじょうぶ?』『ゆっくり休みなさいよ』。三人のグループにそれぞれメッセージを入れるも、当然伏黒の既読はつかない。
「救急搬送って言ってたけど、治療なら高専でやるよね。もう帰ってきてはいるんかな」
「しゃーない、医務室寄ってやるか」
全然情報がないから、事態がどれくらい深刻なのもわからない。医務室は講義棟とは離れていて、どちらかというと学生寮のほうに近い。途中それぞれ自室に教科書の入った鞄だけ置いて、釘崎とともに医務室に向かった。
「そういえば五条先生ってさ、最近伏黒にだけ厳しいときない?」
「わかる。昨日もそんな感じだったわよね」
「あの渡した資料読んでなかったみたいなやつ? あのあと夜中に廊下でも会ったんだけどさ、そのときも先生、伏黒に対してだけ当たりキツくて怖かった」
「訳わかんないわ。一番頑張ってるでしょ、アイツ」
釘崎の言葉にはただただ頷いた。確かに俺も釘崎も日々頑張ってはいるけれど、呪術師としての等級が上なことを差し置いても、伏黒はすごく頑張っていると思う。あれだけ毎週たくさん割り振られる任務の事前調査や資料の読み込みもちゃんとやるし、依頼人との渉外もうまい。それでいて授業での課題も溜め込まずにきちんと終わらせているし、たぶん、合間を見ては新しい式神の調伏も進めている。
それでも全然頑張ってない、と言わんばかりに五条先生は伏黒にばかり冷たく接する。求めるレベルが高いのかな、と思うけれど、俺たちが入学したばっかりのときは、もうちょっと親しそうに話していたはずだった。
「……あのさ、五条先生が付いてたのにそんな大怪我することってあるかな」
あまり考えたくないことだった。でも最近の二人の感じからして、もしかしたら伏黒が怪我をしたのは、五条先生が助けに入らなかったからなのかなと思った。
「わざと助けなかったとかそういうこと? いくらアイツでもさすがにそんなことはしないと思うけど。昨日だって、伏黒のいないところで、すごく気にかけていたし」
「うーん、余計にわからんね」
考えれば考えるほど嫌な方向に行ってしまいそうで、払拭するように自然と俺も釘崎も足早になった。
医務室の扉は閉まりきっていなくて、中から人の話し声がした。どうする、と釘崎に合図を送って聞き耳を立てる。待て、という仕草が返ってきた。
「まだ許可は下りないの」
五条先生の声だった。開いたドアの隙間から、家入先生と話しているのが見える。
「まだだな。何か動きがあればすぐにお前にも連絡がくるだろ」
「そのあいだに本当に死んだらどうするの。いい、何かあったら僕が責任を取るから、今すぐ病院に──」
「あのさ、先生たち。伏黒ってもう帰ってきてる?」
行け、という釘崎の合図とともに、医務室の引き戸に手を掛けた。びくり、と二人が身じろいだ。二人とも、俺らには全く気づいていなかったようだった。
「ああ、お前らか。伏黒はな──」
「恵は任務で大怪我して、大きめの病院に搬送されたの。高専に戻していたらたぶん間に合わなかったから、僕が救急車を呼んだ」
いつになく感情のない声で、五条先生が言った。上層部の悪口を言うときとも、京都校のじいちゃんをやり込めるときとも違う。室内に漂う異様な雰囲気に、体ごと飲み込まれてしまいそうだった。
「アイツ、大丈夫なの?」
「緊急手術して一命は取り留めたから、あとは反転術式で治せばすぐ動けるようになるよ」
五条先生は俺たちを安心させるようにそう言ったけれど、その声はやっぱりどこか硬かった。きっと何かの事情があって、伏黒は高専に戻ってこられていないんだ。じゃなきゃ、さっき漏れ聞こえてきた会話の緊迫感の説明がつかない。
「それで、その伏黒はなんでここにはいないのよ」
「ちょっと、釘崎」
俺ですら聞く勇気が出なかったのに、釘崎は遠慮なくぶっ込んだ。五条先生の周りの空気が冷え込んでいく。特大級の地雷を踏み抜いたようで、怖いと思った。
「それは…」
「伏黒はいま集中治療室に入れられて、面会も制限されている。限られた家族しか中に入れないんだ」
代わりに答えてくれたのは家入先生だった。
「五条ならまだしも、私なんかが入れば不法侵入でトラブルになる。運び込まれた先が、もともと高専と良好な関係にあるとは言い難い病院なんだ。だから上層部に申請を出して、いま呪術師の緊急保護の許可が下りるのを待ってるところ」
五条先生が舌打ちした。俺たちに対してではなく、このどうしようもない現状に対しての舌打ちだった。普段から飄々として掴みどころのない先生が、感情を剥き出しにするのはめずらしかった。
「僕が、反転術式を使えてさえいれば」
「できないことを嘆いたって仕方ないだろ」
「あの子が死んだら僕も死ぬ」
子供の癇癪みたいにそう言い捨てて、五条先生は医務室を後にした。どうやらまた伏黒のいる病院に戻るらしい。
「なら普段からもっと大切にしてやれって話だ」
「あ、硝子さんもそう思います?」
「十年近くずっと思ってる」
それから家入先生は、五条先生がずっと前から伏黒の面倒を見ていたことと、面会可能な家族に唯一該当することを教えてくれた。ちょうど昨日伏黒が教えてくれたことと同じだった。初めて聞くらしい釘崎は驚きつつも、納得がいったというふうに頬杖をついた。俺も空いた椅子に座って、話の続きを待った。
「だからあんなに荒れてんのね、アイツ」
「そもそも任務中にちゃんと伏黒に付いていてやれば、ここまで酷いことにはならなかっただろうしな。あの調子じゃ監督責任放棄やら教員職務云々で、また上層部から槍玉に挙げられるぞ」
本人がいなくなったからか、家入先生も言いたい放題だ。家入先生は五条先生とは高専時代からの同期らしくて元からあまり遠慮はしない仲だけれど、さすがにそれでも、あの刺々しい空気を纏った五条先生を前にしては、そんな軽口は叩けなかったんだなと思った。
「あの二人って昔からあんな感じなんですか。最近なんだか伏黒にだけ理不尽に当たりがキツい気がするって、さっき虎杖とも話してたんすよ」
「いや、どうだろ。前からずっとあんな感じだよ。稽古と称してボッコボコに痛めつけたあとに、ぐったりした伏黒を抱えて、早く治療してくれって夜でもお構いなしに私のところにくる」
ひと言断って、家入先生がコーヒーを淹れに席を立った。お前らもいるか、との気遣いに二人揃って遠慮する。カップを片手に戻ってきた先生は湯気の立つ暗い液体を啜って、ふぅ、と長いため息をついた。
「まあでも、さすがに今日のはやりすぎだな」
「まさか、全部アイツがやったの」
「違う違う。窓による事前調査の報告と現地の実態が食い違ってたんだって。任務自体は一級一体の討伐だったはずだけど、伏黒に怪我させたのは報告になかった別の一級か、呪胎から出てきた特級呪霊だよ」
「でも特級だったとしても、伏黒が負けるわけないでしょ」
釘崎の言う通り、辛勝ではあったけれど、伏黒は前にも八十八橋の事件で特級をひとりで撃破している。未完成ながらも領域展開もできるようになったって言っていたし、そう簡単にやられるとは思えなかった。
「まあ、現場責任者である五条から伏黒に、然るべきタイミングで手が差し伸べられなかったのは事実だな。それが教え子の実力に対する過信だったのか、単に教育のために突き放したのは知らないけど」
それから家入先生の携帯が鳴って、ワンコールと置かずに電話を取った。はい、はい、と事務的な相槌を続けながら、空いた手が素早く身の回りの物をかき集めていく。
わかりました、と電話を切ったときには、家入先生はすでにコートを羽織るところだった。
「総監部からの許可が下りた。お前らは早く帰りな」
「えっ、硝子さん今から行くんですか」
「実を言うと、病院側の見立てでは、今日明日が山場らしいんだよね。だからさっさと治しにいってやらないと」
言われたことを飲み込む暇もなく、医務室を追い出された。家入先生は手際よく室内の棚のいくつかを施錠して、電気を消した。
「学食が開いてるうちに夕飯でも食べに行きな。何かあればまた連絡してやるから」
ヒラヒラと手を振って、先生が去っていく。
「山場、って……」
去り際に告げられた事実を確認したくて、隣の釘崎と今日何度目かの顔を見合わせた。今から麓に買い物に出る気も起きず、結局二人で学食に向かった。会話はあまり弾まなかった。