3:家入硝子
上層部からの申請許諾の連絡を受けて、すぐに伏黒の運び込まれた総合病院に向かった。許可を待たずに先行することも不可能ではなかったけれど、伏黒が搬送された先が以前にも高専とトラブルを起こしたことのある病院だったのが二の足を踏ませた。
あそこの病院との確執については五条だって知らないはずがないんだから、わざわざそこに搬送させなくたっていいものを。伏黒が負傷した際に、どこまで冷静だったのかはわからないあの馬鹿への愚痴を噛み潰しながら、当の本人に電話を掛けて、これからの手筈を整える。
五条とは現地で落ち合うことになった。タクシーで敷地内に乗り入れると、予定通り、五条は病院の夜間出入り口の側で、暗がりに紛れてのっぺりと立っていた。すでに五条には、担当の看護師たちが一時的に伏黒の病床のことを認識しないよう、暗示をかけておいてもらった。今から気配を誤魔化して二人で忍び込んで、帳を下ろして反転術式をかける。
それが今回の申請で許可された範囲で、そこまでで万が一起きたトラブルについては、総監部が全て責任を負ってくれる。逆に言えば、回復させることはできても、勝手に連れ戻すことは許されなかった。明日改めて上が病院側に話をつけて、伏黒の退院はそのあとになるだろう。
「ハハッ、酷い顔」
「うるさいよ、硝子」
一級呪霊一体が討伐対象のはずだった任務は初期調査に不足があり、現地で一級複数体と特級と思われる呪胎に会敵したらしい。もともと不安要素があったからこそ五条に任務が割り振られ、高専生として伏黒が同行することになった。適役だと言って同行者に伏黒を指名したのも、五条だった。結果として伏黒ひとりが重傷を負い、任務は続行不可となった。
やられる瞬間は五条も見ていなかったというが、負傷部位は腹部で、運び込まれた先では消化管・腎臓の損傷と大量出血で非常に危ない状態だと言われたと聞いている。すぐに高専まで運び込んでもらえれば反転術式での治癒可能な範囲ではあったが、それまでに死んでしまってはどうしようもない。
私の反転術式は、例えるなら患者本人の治癒力を前借りして、体内に流れている時間を進めるようなものだ。当然、一度でもその時間の流れが止まってしまったら、その奔流自体を術式で元に戻すことはできない。
つまり、反転術式では損傷した臓器を元の状態に近づけることはできるが、たとえ患者が生きていたとしても、完全になくなってしまったものを無から再生することはできないということでもある。特級呪霊でもなければ、欠損した指先の、たったひと関節分を再生することすら難しいだろう。
だから不幸中の幸いと言うわけではないが、欠損ではなく損傷に止まった伏黒は運が良かった。これで腹部が大きく噛みちぎられるような怪我をしていたのであれば、たとえ即死を免れていても、治療するのは非常に難しかっただろうと思う。
「結構人いるね」
「着くまであんまり音立てないで」
こんな時間でも人が行き交う集中治療室の中、まるで透明人間になったみたいにすり抜けて、ずらりと並ぶベッドのひとつに辿り着いた。
五条は目隠しを下げることもせず、合流したときと変わらず静かに佇んでいる。決して伏黒には近寄ろうとはせず、まるで自分が近づいたら殺してしまうとでもいうように、離れたところで立ち尽くしていた。
「五条、突っ立ってないで帳下ろして。あとその前に機械に細工。結構時間が掛かるだろうから、私たちが立ち去るまでは管理システムに異常報告が飛ばないようにして」
「領域展開でベッド一帯を隔絶するんじゃダメ?」
「いいわけあるか阿呆」
「へいへい」
六眼を晒して大人しく呪力で医療機器を弄り出した五条を傍目に、伏黒の状態を診る。概ね事前に報告を受けていた通りだったが、損傷は腹部だけには留まらないようだった。
「うわ、肺も三分の一くらい潰れてるよ。一緒に肋骨も何本か折れてる。それでいて消化管と腎臓もダメで大量出血? 他の部位もまあまあ……。全身ボロボロだな」
体温が異常に高く、脈拍も早い。一番酷い状態こそ脱しているけれど、依然としてあまり良くないのは確かだった。
「本当に瀕死じゃん。これでも救急車が着いたときにはまだ意識があったんだって?」
「縁起でもないこと言わないでよ。はい、機械のほうは現状のまま凍結した。これでいい?」
試しにひとつ、貼られたセンサを取り外してみた。繋がれたモニタの数値は変動せず、異常音も鳴らない。
「さすが。良いね、完璧」
「まあね」
賛辞を当然のように受け取って、五条は人差し指と中指を宙に揃えてピンと立てた。
「闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
ベッドから半径一メートルほどを、舐め尽くすような闇が降りる。五条が帳を下ろすの、久しぶりに聞いたなあ、と思った。高専生時代以来じゃないかな。それも、夏油がいなくなるより少し前から三人で行動することはほぼなくなってしまったから、最後に聞いたのは相当前だ。お互い高専の教員になってからも、五条が派遣されるような危険度の高い現場に、私みたいな回復役が直接同行を命じられることはまずあり得なかった。
さて、と白衣の袖を捲る。ここからは私の作業だ。限られた呪力と被術者の体力の下で、修復する部位の優先順位を決める。もちろん内臓からだ。骨折も切り傷、擦り傷もたくさんあったけれど、そんなのは生きてさえいればどうせ放っておいてもくっつくんだから、後でいい。
「恵は、ちゃんと気づいてたんだよね」
「何が?」
集中しているときに話しかけられて、しばらく何の話なのかもわからなかった。
「事前調査に入った窓の子にも個人的に聞き込みをしたみたいで、今回の任務の呪霊が事前情報よりも強力な可能性があるって、前日に連絡を入れてくれてた。でも僕は、乙骨に頼んでいた別件でちょっとゴタついてて」
「ああ、呪具の海外持ち出しの件?」
「そう。それに事前に参考資料として渡されていた内容には懸念はなかったし、問題ないと判断して、恵から来ていた確認の依頼を断った」
五条の湿りきった告解の言葉を聞き流しながら、伏黒の状態を確認する。当然だけど、何の代償もなく怪我が巻き戻るなんて、都合のいい魔法のような術式は存在しない。反転術式はあくまで掛けられる本人の生命力を前借りするようなものだから、被術者の身体にもそれ相応の負荷が掛かる。
特に今の伏黒は死にかけで、体力なんてほぼゼロだ。状態を見ながら最低限かつ回復に欠かせない損傷だけを選んで治しつつ、不要になった医療装置を見定めて都度外していく。
「今思えば、必要以上にキツめに言っちゃったかもしれない」
「でも、それで萎縮して任務遂行に不可欠な伝達を怠ったなら、それは伏黒に非があるだろ」
「まあね。そもそも恵が最初からアポ取りじゃなくて、相談内容とその根拠まで送ってくれていれば、僕も連絡をもらった時点で違った判断を下せていたはずだったからね」
「なおさら伏黒が悪いな。上司の効率を考えて動いてこその部下だろ」
作業をしながら適当に同意してやっても、五条はまだ何か言いたそうにしていた。
呼吸器に繋がれて安定している肺には時間をかけず、腹の中身のほうを重点的に修復した。まだもう少しいけるかな。キツいか。残存体力を見ながら、調整を掛ける。
最後にもう一度術式を回すと、伏黒が苦しそうに身じろいだ。そろそろ限界だ。できればしばらくはこれくらい医療設備の整った環境で回復に努めてほしいところだが、明日の上層部同士の話し合い次第では、即日退院となるだろう。
「終わり?」
「うん」
「恵、起きるかな」
薄い瞼の下で、眼球が小さく動いている。意識の階層を海に例えるとしたら、ここに来たときには何十メートルも深いところを彷徨っていたものが、今は限りなく水面近くにまで浮上していた。苦しげに眉間を寄せ、それからゆっくりと翡翠色が覗いた。
「あまり刺激するなよ。まだ意識も混濁してる」
「恵、僕のことわかる?」
いまに溶けて消えそうな声が、何かを言ったように錯覚した。もちろん今は気管挿管されていて、伏黒が喋れるはずはない。一度だけ視点が定まったように見えた瞳は、すぐにまた虚ろに宙を彷徨った。
「恵はね、大怪我したから、いま反転術式で応急処置したの。呪術のことと、あと僕たちが来たこと、ここの病院の人たちには内緒にしてね。また明日迎えに来るからね」
反応はなく、それが伝わったのかもわからない。
名残惜しそうにする五条に帳を上げさせて、廊下に出た。予め五条が見繕っておいた逃走経路を進む。突き当たりのドアの向こう、非常階段の手摺りに足をかけ、共にふわりと闇夜に飛び出した。掛かるはずの重力はなく、つかの間の空中散歩を堪能する。眼下には、日の落ちた暗い敷地が広がっていた。
パチン、と五条が指を鳴らした。医療機器に施していた細工が解除された。あの大部屋では、今に係数異常のアラートが鳴り出すだろう。超常現象じみた回復に慌てた看護師のところに医師が駆けつけ、騒ぎを聞いたあの狸みたいな院長から高専(ウチ)にクレームの電話が掛かるのも、時間の問題だった。
私たちは弧を描くように空中をゆっくり降下して、とん、とアスファルトの上に降り立った。着地、というよりも、羽根がふわふわと地面に着くような柔らかさだ。この不思議な感覚は、学生のころから何度体験しても、未だに慣れない。
「送っていくよ。高専でいい?」
「ああ、ありがたい」
少し離れたところに停めてあった五条の車に乗り込んで、市街地から首都高に乗った。夜だというのに、都心環状線にはトラックや乗用車が何台も走っていた。
「さっきの話の続きなんだけど、いい?」
いつのまにかサングラスに掛け替えていた男の顔が、こちらを見ていた。
何だったっけ、と惚けてやってもよかった。高専まではここから二時間ほどだ。それまでの暇つぶしとして掛けるラジオにしては、五条の話はきっと重たい。
「その前にSA寄ってよ」
「このあたりにはないよ。便所?」
「コーヒー」
はいはい、と仕方なさそうなため息が聞こえた。次の出口で一度降りて、コンビニに寄った。
「買ってくる。温かいのでいいよね」
「うん」
五条は私を車に残して、店先でホットコーヒーと、カップの底が透き通るほどのガムシロップを入れたアイスカフェラテをひとつずつ淹れて戻ってきた。手渡されたカップにさっそく口をつけて、香ばしくて苦い液体を流し込んだ。再びエンジンが掛かり、車体がゆっくりと動きだす。しばらく下道を進んでから圏央道に乗り、今度こそ高専への帰路についた。高専があるのは東京都の外れの山奥だ。二十三区を抜けると、次第に窓から見える灯りが減っていく。
「五条。さっきの続き、いいの? コーヒー代の分くらいは聞いてやるよ」
ハンドルから手を離してはカップの底に淀んだシロップを啜るばかりで、いつまでも口火を切らない五条を見かねて、そう切り出した。別に、ただ気まぐれに一杯奢ってくれただけというのなら、それに越したことはなかったけれど。
「あんまりまとまってないから、ただ聞いていてくれればいいんだけど」
しばらく考え込んだのちに、五条はそう言った。それは内容次第だろう。言葉をひとつずつ選ぶように、五条はゆっくりと喋り出す。
「恵ってさ、怪我しても全然泣き言を言わないでしょ。いつも捨て身で。どこかで、最後は自分が犠牲になればいいと思ってる」
「相伝で引き継いだのがそういう術式なんだっけ」
「まあ、簡単に言うとそうかな。最終手段が自爆技みたいな感じ」
前方の大型トラックをひとつ追い越すと、視界が開けた。しばらくはずっと直線道路だった。視界の先には、どこまでもオレンジ色の明かりが続いている。
「そんなんでさ、あのときの傑みたいに、何もかも溜め込んで、突然いなくなっちゃうのが怖いんだよ。初めから、選択肢なんて与えてやらずに、僕があの子を呪術師にしちゃったから」
「別に、何も特殊じゃないだろ、そんなこと。呪術師の家系に生まれたやつなら、誰しも同じだ。お前だってそうだったし、禪院真希や狗巻棘だって」
「でも──」
常に合理主義を貫くこいつが、そんなことで食い下がろうとするのも珍しかった。それこそ生まれつき特別な眼を持って、術式にも恵まれた五条こそ、呪術師になる以外の道は用意されていなかっただろうに。
「それでも伏黒に対して負い目を感じるというのなら、それは伏黒の置かれた環境が特殊なんじゃなくて、伏黒自身が、お前にとって特別だってことだ」
諭すように言った。その前提すら履き違えているのではないかと思ったからだ。
わかってるよ、と五条は言う。
「……確かに、僕にとって恵は特別だよ。あの子は僕の初めての生徒で、小さい頃からずっと面倒を見てきた。受け継いだ術式も文句なしの一級品。贔屓目を抜きにしても、このまま行けば、いずれ僕を頂点から引きずり下ろす術師になるだろう」
伏黒が成長するだろう姿について、五条は自分を超える、とも、肩を並べる、とも言わなかった。「頂点から引きずり下ろす」。その言葉のもつ意味と彼らの一族のあいだに何百年も続く因縁の話は、ずっと昔、まだ私たちが三人で一学年だった頃に、五条本人から聞いたことがあった。
「……期待、しすぎているのかな。僕は本当に、心からそう思っているんだけど」
ふと火が消えるように、声から熱が抜けていった。
「悠仁や野薔薇が入ってきてから、恵にどうやって接したらいいのかわかんなくなっちゃった。あの二人はさ、特別に強い術式を生まれ持ったわけじゃないけれど、一秒前の自分に打ち勝つ、みたいなイメージを掲げてものすごい成長を見せるときがあるんだよね。でも恵は、──ちょっと前に稽古を頼まれたときに本人にも説教したんだけど、恵は、成長した少し先の未来の自分の姿を描けない」
私だってそうだった。思わずそう叫びそうになった。まるで白黒映画に彩色が施されるみたいに、心の奥底で埃を被ったまま仕舞われていた記憶が蘇る。
もう何年の話だ。呪術界でも片手に数えるほどもいない特級が、同じ学年に二人もいた。それも、たった三人だけの学年に二人。私以外はみんな特級だった。
毎日が、まるでだだっ広い森の中で、大きな木を見上げているみたいだった。自分の背が少し伸びたくらいでは、見える景色は何も変わらない。陽も差さないし、空も見えない。
ただ、幸いなことに私は、私だけの強みがあることを知っていた。だから時折遥か上にいる二人の姿を見上げることはあっても、二人と比べることだけはせずに済んだ。木々を掻き分けて空を見ることはできないけれど、私の手には反転術式という、月の欠片があった。私はそれを足元に並べてやって、森を見上げるばかりの人々に、本物の空を夢見させてやることができた。
「恵は自分の心の真ん中に、自分自身を据えることができない。いつも誰かの幸せばかりを願って、自分にはこれ以上の先はないみたいな顔をして。そうやって、最後には自分が犠牲になればいいと思ってる」
伏黒はそんな環境に、私よりももっと幼いころから置かれてきた。初めくらいは、自分でも手が届きそうだと錯覚したかもしれない。けれども気づけば大きな森の中で立ち尽くして、焦って、もがいて。どれほど努力しても自分の大きさなんてこれっぽっちも変わらないのに、日々、早くここまで登ってこいと声が降ってくる。
こんなところにいても、自分の成長した姿なんて思い描けないよ。十年前の私が、空の在処を見上げている。
誰だって、五条悟の隣でそんなことは考えられない。絶対的な完璧を前にして、たとえその差が数センチ埋まった程度では、その成長にも気づけない。初めから木の上に腰掛けていたような男が、それでも自分にはできたことだからと無邪気に言って、誰かが上がってくるのを待っている。途中で落ちてきた人が、私の元に運ばれてくる。私は月の欠片で、その人に空を見せてやる。ありがとう、とその人はまた上を目指してしまう。次に運ばれてくるときにはもう、ぐしゃぐしゃに顔が潰れているかもしれないのに。
「顔が怖いよ。硝子、怒ってる?」
「うん。お前みたいなのが自分の師匠じゃなくて良かったなって」
「自分でも、最近厳しくしすぎているのはわかってるよ。でもそこを乗り越えられれば、恵なら、もっともっと上を目指せるはずなんだ」
五条に、人の気持ちはわからない。わからないからこそ五条は他人への、端から見れば残酷なほどの期待を、何の屈託もなく口にすることができた。そうやって期待されて、怪我をし、果てには命を落として運ばれる人々を、私は何人も診てきた。
「……それで、もっと上を目指せるって言って実力以上の呪霊をぶつけて、あんな大怪我を負わせたんだ? 今回こそ、伏黒、死んでもおかしくなかったよ」
攻撃的なことを言うつもりはなかった。ただ、その振る舞いはあまりにも無神経で、無責任だと思った。
「違う。恵をやった呪霊については、本当に僕も知らなかった。事前の情報とここまでの齟齬があれば、いつもの恵だったら、まずは一旦引いて僕の指示を待つはずだった」
それ込みで信頼して、今回の任務に適任だと思った、と五条は言う。
「でもお前は、伏黒が適切に助けを求められない状況を作り出した」
「……うん」
「伏黒に何て言ったの」
「覚えてない、忘れた」
「そんなわけないだろ」
あまりにも見え透いた嘘を容赦なく切り捨てられて、五条が言葉に詰まる。それでもなかなか口を割らない。言ったら、私に批難されるのがわかっているからだ。だったらそんなこと、初めから伏黒にも言ってやらなきゃいいのに。
「……行きの車の中で、売り言葉に買い言葉、みたいな感じで。本心じゃなかった」
「うん」
「『恵より、悠仁を連れてくれば良かった』」
頭を抱える。適任だと言って、同行者の選定を行なったのは五条自身だ。当然伏黒にも、任務前に指名の経緯を伝えていたことだろう。
「文脈を聞くまでもなくサイテーじゃん。良くないよ、ネグレクト経験ある子にそういうこと言うの」
ただでさえ自己肯定感の低いやつに、追い討ちをかけてどうするんだ。自分自身を大事にさせたいなら、まずはそいつ自身が大事だということを、誰かが教えてやらなきゃいけないのに。
「お前は伏黒のことが大事だし、伏黒にも自分自身をもっと大事にしてほしいんだろ。意地悪せずに、もう少し、ちゃんと向き合ってやりなよ」
「……意地悪したんじゃないよ。最近悠仁のことをかなり意識してるみたいだったから、いい発破になると思ったんだ。でも、それで任務直前に振り回して、こんなことになっちゃった」
五条が深いため息をついた。悪気がないなら、なおのことたちが悪い。
いっそのこと、もう自由にしてあげたら。
喉元まで出掛かった言葉に、カップの縁を噛んだ。ぐいと傾けて、冷めかけのコーヒーを流し込む。
「この前はじめて知ったんだけどね、恵、好きな子がいるんだって」
車がトンネルに入って、途端に世界の色が変わった。ごうごうと響く騒音の中で、五条はぽつりぽつりと話し続ける。
「それを聞いて、おかしな話だけど、とても安心したんだ。これでようやく、恵がもっと自分自身を顧みた生き方をしてくれるようになるって」
容赦なく浴びせられる眩い照明の大行列が、一瞬のうちに横を通り過ぎていく。トンネルは長くは続かなかった。ぴたり、と騒音が止んだ。次に飛び出した世界は、物寂しいくらいに静かに見えた。
「でも、恵はその子のこと、ずっと前から好きだったんだって。それなら、今までと何も変わらないじゃん。いったい誰だったんだろうって思った。もしそれが津美紀だったら、と考えると怖かった。津美紀のことだって、僕のせいだったも同然だから」
津美紀、というのは伏黒の姉だった。再婚した母親の連れ子で、血は繋がっていない。何度か会ったこともあるが、利発的で、聞き分けの良さそうな子だった。
「恵が御三家の相伝、それも一番の当たり籤を引いたというだけで、その身内が良くない目的で狙われ、利用されることは十分想定できたはずだった。津美紀自身は嫌がっていたけど、どうせ一年したら恵も高専の寮に入る予定だったし、初めから無理にでも全寮制の高校に入れてやっていたら、こんなことにはならなかったかもしれない」
彼女に最後に会ったのは、もう一年以上も前のことだ。原因不明の呪いにあてられて、暗い病院の一室で人形のように眠っていた。当然、私のところにも治療の依頼が回ってきた。誰が診ても、何もわからなかった。同じような症例は全国で何千件も発生していて、他にも私の元には何百人と運ばれてきた。
「恵の父親も僕が殺した。あの子の家族を奪って、呪術師になる以外の未来も奪った。結局、恵が持っていたはずのものは、全部僕のせいで無くなっちゃった」
五条は静かにそう言った。高速道路を降りて、大通りを抜けて郊外に出た。街灯が減って、民家の明かりがまばらになっていく。
「あの病院で、死人みたいな顔をして眠っている恵を見てたらさ、いつか、恵の命まで僕が奪ってしまうんじゃないかって、恐ろしかった。今日みたいに血塗れの恵が、いつか苦しそうな息すら途絶えて、なす術もなく、僕の手の中で冷たくなっていくの」
気づけばあたりは真っ暗だった。対向車の灯りもなく、前照灯の届く先が世界の全てに変わっていた。結局、五条は最後までしゃべることをやめなかった。
「そんなの、とてもじゃないけど耐えられないよ。僕があの子を殺してしまう前に、いっそ手放してやったほうがいいのかもしれない、と思うくらい」
「まさか、伏黒に呪術師を辞めさせるつもりか?」
「……ううん。でも、少なくとも、僕と組むのをやめさせてあげることくらいはできる。今回の件できっと上からさんざん絞られるだろうから、そのあたりの融通は利くようになるはずだ」
すでに総監部直下の事故調査部門が動き出したことは、私にも連絡が来ていた。高専協力外の民間機関にまで影響を出してしまったため、事は平常時よりも大きくなってしまっている。五条も伏黒も、本件についての何らかの処遇は免れないだろう。
「それにさ、仮に呪術師を辞めたって、七海みたいにまた戻ってくることだってできるだろ。少し、お互いに距離を置いたほうがいいんじゃないかと思うんだ」
確かに、この二人が現状のままでいいとは到底思えない。ただ、それは五条が伏黒と向き合ったあとの検討事項だ。初めから失うことを恐れて突き放すだなんて、それこそおかしな話だろうに。
「好きなんだろ、伏黒のこと」
「好きだよ。できることなら、ずっと僕の手元に置いておきたい」
何のためらいもなく、そんな答えが返ってきた。
「でも、それがいつか、恵の命まで奪うことになるなら──」
その先を、五条は続けなかった。
車はずっと暗い山の中を進んだ。もうじき高専の敷地内だった。これ以上は話すことはないと、五条はすっかり黙り込んでしまった。私からも、特段何かを言いたいとは思わなかった。
コーヒーのカップを傾けて、最後の一口を飲み干した。ゆっくりと流し込んだ中身は、とうの昔に冷たくなってしまっていた。