4:伏黒恵(I)
誰かが、俺の名前を叫んでいた。目が醒めるとたくさんぶら下げられた袋と管と、見たこともない天井。起き上がることもできず、ひどい倦怠感に、頭の中がぐらぐらと揺れた。身体じゅうがあまりに痛くて、全てを手放して、また眠りに落ちた。ずっと、誰かが俺を呼んでいた。恵。恵。恵。
次に目が醒めたときには、痛みは少しマシになっていた。俺に気がついた看護師が、視界の端で慌ててどこかに連絡を入れていた。
「どう、元気?」
また記憶が飛んだ。次に目を開けたとき、病室には家入さんがいた。そこで何があったのかと、当面の対応についての説明を聞いた。任務で大怪我をして、ここに運び込まれた。少なくともあと数日はこのまま入院。死んでもおかしくない怪我だったから、ゆっくり養生するように。
全く何も思い出せなかった。それから担当医だという男が会話に加わった。頭はぼんやりとして、まるで霧が掛かったみたいで、何を言われても、何も入ってこなかった。話し声と雑音が混ざり合った音が、かたまりのまま、そこかしこに反響していた。
「いいよ、私が聞いておくから」
家入さんはそう言って、ずっと医者と話していた。ぐったりとベッドに身を預けて、また目を瞑る。次に目を開けると、あたりはすっかり暗くなっていた。窓の向こうに、小さな月の欠片が浮かんでいた。家入さんの姿はもうなかった。
家入さんが置いていってくれた日用品の中に、画面がひび割れてボロボロになったスマホが入っていた。虎杖と釘崎からメッセージが来ていた。指先以外ろくに動かない身体をゆっくりと起こして、充電の切れかかった端末を電源に繋いだ。ホーム画面に表示されたのは山のような未読メールと、いくつかの不在着信。メールの大半は複数人に当てた注意喚起や事務連絡ばかりで、急ぎを要するようなものは何もなかった。確認だけして、画面を落とす。
目を閉じて、また目を開ける。その度に朝だったり、夜だったりするのを、幾度かもわからず繰り返した。
ようやく起きていられる時間と、眠っている時間との間隔が長くなって、少しは身体も頭も動くようになった。日中に一度、総監部直属の事故調査の部署の人たちが聴き取りにきた。話せることは何もなかった。ひどく苦しかったのと、今でも身体が痛いこと。それからずっと自分を呼ぶ声が聞こえていたこと。思い出せるのはそれだけだ。しばらくは五条先生のことを庇っているのだと思われていたようだったけれど、しまいには本当に何も覚えていないということを理解して、時間を無駄にしたと、男たちは腹立たしそうに帰っていった。
「記憶が飛ぶくらい、身体に負担が掛かる出来事だったんだろ。そういうこともあるよ」
次に見舞いに来てくれたときにそれとなく相談すると、家入さんはそう言った。
あの日以来、五条先生からの連絡はなかった。トークアプリでの最後のやりとりは、任務前の等級再確認依頼の件で止まっている。俺が送った打ち合わせの打診には既読がついただけで、以来、新たなメッセージは来ていない。もちろん、先生が見舞いに来てくれることもなかった。
「あいつはいま任務漬け。ここしばらくサボってたツケが回ったんだよ」
こちらから何も言わずとも、家入さんはそう教えてくれた。少し考えて、先生はしばらく俺が怪我をした任務の対応や後処理に時間を取られていたんだと思った。申し訳なかった。忙しいだろうに、また迷惑をかけてしまった。
本当は俺が目が醒めた翌日に予定していたという退院は、病院側の強い指導によって一週間先に延期されたらしかった。最終日に迎えにきたのも、また家入さんだった。
「五条はこれでもかというほど文句を言っていたが、私としては妥当な判断だったと思うよ。体力が戻らない限り、反転術式での治療もしてやれない。私も一般医療の専門家ではないし、これくらい設備の整った病院でしばらく療養できるなら、それに越したことはなかった。結果としては最善に転んだよ」
着ていた制服は損傷が激しく、処置後に処分されたと聞いた。衣服について特段のこだわりがあるはずもなく、また上半身のいくつかの部位には、まだギプスや固定具がついたままだったから、退院の日は、前に用意してもらった寝巻きのまま外に出た。乾燥した新鮮で冷たい空気と、雲ひとつない空から日差しが降りかかってくるのが、まだ非日常みたいで実感が湧かなかった。反応の鈍い身体を引きずって、車の助手席に乗り込んだ。椅子に座る、という簡単な動作だけでも、体のあちこちが軋んだ。
「肋骨、帰ったら治してやろうか」
「お願いします。これ、大きく吸うとまだ結構痛くて」
人手不足のこの業界で、任務でもないのに補助監督の送迎がつくことはない。乗り込んだ車は見覚えのある高専のナンバーだったが、運転席には家入さんが座った。
「あれから、五条から何か連絡来た?」
びくり、と無意識に体が揺れた。病室に置いてきたはずの絡みつくような嫌な倦怠感が、ゆっくりと指先から腕へと這い上がってくる感じがあった。自分でもその反応に驚いた。それほど、今、一番聞きたくない名前だった。
「いえ……五条先生、何か言ってましたか?」
「別に何も。でもだいぶ心配はしてたから、無事に今日退院しましたって、後で連絡を入れておきな」
「……はい、そうします」
家入さんは首都高には乗りたくないと言って、しばらく下道を走った。ずっと何もない病室で過ごしていたから、窓から見える雑踏はまだ別世界のように見えた。いくつ目かの赤信号で止まったとき、家入さんが切り出した。
「五条とやりづらい、みたいなのはある? 今回の件について上もかなり心配したみたいだから、もし今後の任務でアイツと組むのが嫌だったら、たぶん相当な範囲で聞き入れてもらえるよ」
「大丈夫です、本当に。心配をおかけしてすみません」
家入さんはあまり納得していないようだった。けれども何かを言う前に信号が青に変わってしまって、それ以上の追及は受けずに済んだ。
一時間ほど高速道路を走って、また下道に降りた。懐かしくも見慣れた、高専への帰り道の景色だった。ろくなランドマークもない山のあいだを上っていけば、じきに高専のある筵山が見えてくる。
「こんなにひどい怪我を負わされても、まだアイツと一緒にいたい?」
家入さんがふとそんなことを聞いた。高専敷地内手前の、小径を上っているときだった。
「これは、俺が悪かったんです。詳細はたぶん聞いていると思いますけど、一度引き返して現場責任者に相談すべきところを、俺が独断で任務を続行してしまったんです」
事故調査部の結論も、そう締め括られたはずだった。本件はあくまで伏黒恵の独断先行が原因で、その行動は五条悟の監督可能範囲外だった、と。
家入さんは黙り込んだまま、何も言わない。
じとりと手が汗ばんだ。必死になって言葉を探した。そうでもしなければ、引き離されてしまうような予感がした。これだけ怪我をしても、怒られても、あの人の元に居続けたい理由。
「『もう要らない』って言われるまでは、あの人のところで頑張りたいんです。ずっとそうやって頑張ってきたから。だから、大丈夫です。……すみません、うまく言えなくて」
「じゃあ、本当にそうやって伝えておくよ。学長から探りを入れておけって言われてんだ」
「はい、お願いします。あまり期待に応えられてはいないですけど、あの人から離れたくないんです」
「あんなモラハラ野郎のどこが良いんだか」
家入さんは呆れたように笑った。ほっと、肩の荷が下りたような心地がした。
所定の場所に車を停めて、家入さんに続いて車を降りた。風に揺れる白衣を追って、医務室に向かった。約束通り肋骨を含め、いくつかの骨折や不具合を治してもらった。ギプスが外れて、ようやくシャワーを浴びられるようになった。
平日昼間の寮棟には誰もいなかった。脱衣所で服を脱ぎ、ふと鏡に写った自分の姿が目に入った。腹の傷はもう塞がっていて、薄いケロイドとして、過去の傷の中に紛れていた。頬がこけて、顔色が悪かった。床に落とした服を拾う。少ししゃがんで、立ち上がるだけでも息が切れた。しばらく寝たきりだったから、筋力も体力も落ちている。出来ることから始めていかないと。具体的な復帰予定はまだ知らされていなかったが、すぐにまた任務に駆り出される生活が始まるだろう。
大浴場の湯船に浸かって、ため息が漏れた。久しぶりの風呂だった。ようやく戻ってきた実感が湧いた。風呂から上がって着ていたものと持ち帰った服を洗濯に出して、しばらく空けていた自室に掃除機をかけて換気をした。休んでいたあいだのノートを借りるために夕方に虎杖と約束をしていたけれど、いつのまにか疲れてベッドの上で寝てしまっていたらしい。次に目が醒めたのは夜中だった。アプリには「起きてる?」というメッセージとともに、虎のスタンプが届いていた。それに対する謝罪を送って、もうひとつ届いていた釘崎からの連絡を開いた。「濡れたまま放置してんじゃないわよ。部屋の前に置いといたから」。ドアの前には、乾燥機までかけ終わった洗濯物が、洗濯室に置き去りにしたカゴに入れて置いてあった。悪い、疲れて寝てたみたいだ。ありがとう。そう送り返して、画面を落とした。
五条先生には、まだ退院の連絡を入れられていなかった。端末を手に取って、消したばかりの画面を再び点けた。五条悟、と表示された名前とふざけたアイコンを押すと、会話はあの日のまま残っていた。対面で用件を伝えるまで既読すらつかなかった打ち合わせ依頼のメッセージと、それ以降何のやりとりもないトーク画面に、文面を考える指先が自然と重くなる。こんな遅くに連絡をもらったって、きっと迷惑だろ。そんな理由をつけて、スマホを横に置いた。今日を逃したら、余計に連絡しづらくなることは、頭の中ではわかっていた。どのみちもう手遅れだ。そんなことを思う自分がいた。
数日して、正式に任務復帰の許可が下りた。しばらくは自分よりも上の等級の呪術師と組んで、手伝いに回って感覚を戻した。慣らしなんて不要です、と言えれば良かったが、あいにくそのあたりの権限を握っていそうな担任は長期出張でまた海外に出てしまっていた。補助監督の中で一番話しやすい伊地知さんにそれとなく伝えてみたが、結果は変わらなかった。一週間ほどのぬるま湯のようなリハビリを経て、ようやくまた三人での任務に戻った。
「おかえり、伏黒」
「焼肉奢れ」
久しぶりの再会の第一声はそんな感じだった。その日は五条先生も戻ってきていた。お土産ね、と言って三人分の、文字すら読めない、現地の菓子らしきものが配られた。それから先生は任務の概要を説明して、すぐに別の任務に行ってしまった。何か言われることも、言葉を交わすこともなかった。迷惑をかけてすみませんでした、くらいは言えればよかった。でも勇気を出して話しかけて、二人の前でまた何か注意を受けるのは怖かった。
「また五条にこき使われてんの?」
「違います。これは、俺の不注意で…」
俺が医務室に顔を出すたびに、家入さんはそう言って表情を曇らせた。日々焦るばかりで、怪我は増える一方だった。前までできていたことまで、できなくなっているような気がした。今までであれば怪我をするなんて考えられないような難易度の任務で、虎杖の肩を借りないと歩けなくなることまであった。二級術師だろ、段取りをもっとよく考えな。ひとつ上手くいかないことがあるたびに、その場に居もしない五条先生の声が頭に響いた。
『恵より、悠仁を連れてくれば良かった』
あの日どんな会話をしていたのか、今も朧げにしか思い出せない。でもその言葉だけは、呪いのように渦巻いていた。先行した現場に充満する呪力の気配だけで、それが自分の実力を遥かに上回る相手だということは、嫌というほどわかっていた。けれども、一度引き返して五条先生の指示を煽ぐという、正しい判断ができなかった。退路がないから、進むしかなかった。事前に聞き込みをした情報から、一級以上の力を持つ呪霊である可能性は念頭に置いていたけれど、まさかそれが複数体いるとは思わなかった。一度キツい攻撃をくらってしまって、一人では、容易には体勢を立て直せなくなった。視界の端で、今まで置物のように沈黙を保っていた呪胎の殻が割れていくのが見えた。二級術師としての振る舞い方。判断ミス。独断続行。血反吐を吐いて倒れ込むあいだも、五条先生の声が頭の中でそう責め立てた。君の奥の手のせいかな、そうやって、自分が死ねば全て解決できると思ってる。気づけば腹が縦にも横にも裂けて、地面まで真っ赤に染まっていた。だんだんと呼吸ができなくなった。手足が冷たく痺れていく。撤退はもう間に合わない。ふるべ、ゆらゆら。やつかのつるぎ。祓詞を口にするも、両腕が動かない。恵、恵、恵。五条先生の声が響く。何で僕を呼ばなかったの。恵。一本取られる寸前で、諦めて動きを止めてたでしょ、舐めてるよね。苦しいね、大丈夫、しっかりして。恵。恵。
「──伏黒。おい、伏黒。聞いてたか?」
「っ、…」
肩を掴まれて、びくりと身体が震えた。俺は医務室の椅子に座っていた。家入さんが怪訝そうに覗き込んでいた。
「何、大丈夫? まだ痛む?」
「いえ……」
いつのまにか額に浮かんでいた冷や汗を拭って、ここがどこだかを思い出した。任務の帰りに、家入さんの治療を受けるために医務室に寄ったのだった。今週だけでもう三度目だ。ここに来たことを五条先生には言わないでほしいと伝えて、外れた肩を戻してもらった。
「私としては、そろそろドクターストップを出したいところなんだけど」
家入さんは分厚いバインダーに記録をつけながら、そんなことを言った。
「まあでも一応は仕事のうちだからね。いきなり次からは治さない、なんてことは言わない」
パラパラとめくったページには、個人ごとにいつどんな治療をしたのかが記載されていた。俺がお世話になったのは今週だけで三回。まだ水曜日だから、ここのところ毎日だ。通常任務に復帰したばかりの先週も三回で、その前はあの大怪我に関するものが何度か。一番古いもので、九年前の日付が記録されていた。これは未だに覚えている。五条先生に家の前で投げ飛ばされて、右手首が折れたときのものだった。
「次に私の反転術式が必要な怪我をしてきたら、今度こそ五条に伝える。直近の分も含めてね。それでも変わらなかったら、これ以上怪我を増やしても私は治さない。どう?」
素直に頷く以外の選択肢が、俺にあるはずがなかった。ほぼ一方的に結ばされた約束の内容を文字に起こして、家入さんは俺のページに付箋として貼りつけた。
「退院してから、五条とは話した?」
「……任務関連では何度か」
「そういうことを聞いてるんじゃないよ」
五条先生には、まだ連絡できていなかった。何か言いたげな様子の家入さんに治療のお礼を言って、逃げるように医務室を出た。
自室に戻って、治癒の反動で怠い身体をベッドの上に投げ出した。手元の端末から、先生とのやりとりを呼び出した。ここ最近何度も開いては閉じるだけのこの画面に、変化はない。
さっき見せてもらった、九年前の日付。稽古と称して先生に投げ飛ばされて、手首を折った。初めて高専に連れていかれたのも、このときだった。おかしな方向に曲がってしまった右手を抱えて蹲った俺を見て、五条先生が慌てて駆け寄った。ごめん、ごめんね。大丈夫だから。いつものヘラヘラした感じはなくて、先生はすぐにどこかに電話をして、通りがかったタクシーを捕まえて、俺を抱えたまま乗り込んだ。腫れ上がった右手は、吐いてしまいそうなほど痛かった。まさかあれくらいで折れるとは思わなかった。たしか、先生はそんなことを家入さんに告げていたと思う。折れた骨は、すぐに元通りにしてもらえた。次はちゃんと患部を固定してから連れてこい。今日の記録をつけたあの重たそうなバインダーで、家入さんは容赦なく先生の頭を叩いた。
五条先生の任務に勝手に連れ出されるようになるまでは、そこまで大きな怪我をすることはなかった。基礎的な体術訓練や式神調伏は継続的に行なっていたから、もちろん、擦り傷程度は日常茶飯事だった。
初めて先生に任務に連れていかれたときの日付は、あの台帳には載っていない。大きな怪我だけはせずに済んだからだった。けれど、それは今でもたまに夢に出るほど、強烈な体験だった。
「今のが三級呪霊ね。いいね。初めてにしては、意外とよく動けたじゃん」
何の説明もないまま帳の中に放り込まれて、ぐちゃぐちゃに泣きながらも異形の呪霊を倒し切った。心細くて怖かったのもあったけれど、何より、また意地悪をされたという悔しさを我慢できなかった。
祓い終わるまでに一時間ほど掛かっていたらしいが、戦っている最中に時間の感覚なんてなかった。死に物狂いの格闘を終えた後、白と黒の玉犬に呪いの残骸を食らわせながら、あの理不尽な男にだけは泣いた跡を見られたくないと、真っ赤になるほど頬と目を擦った。
本当は怖かったし、嫌だった。瘴気を浴びた身体はそこかしこがべたべたで、寒くて気持ち悪かった。それでも辞めたいと思うことすら、俺自身が許さなかった。ここで投げ出したら、俺も津美紀も路頭に迷う。禪院家に貰われても、津美紀はきっと幸せにはなれない。
恵、と名前を呼ばれて隣を見上げた。
迎えにきた先生が手を差し出していた。帰ろう、津美紀が待ってるよ。膨れっ面のままそっぽを向いても、先生はずっと手を出したまま待っていた。先に根負けしたのは俺のほうだった。戦いながら何度も転んで、擦り切れて泥だらけになった手を伸ばす。それを大きな手が、ぎゅっと握り返した。温かくて、また泣きそうだった。慌てて目を擦って、ばれないように小さく鼻をすすった。五条先生は隣でずっと上機嫌そうにしていた。
俺がひとつずつ何かできるようになるたびに、五条先生が嬉しそうな顔をするのが好きだった。今では当たり前に呪術師としての在り方を受け入れているけれど、あの頃は、物事をそんな簡単には捉えられなかった。たまに理不尽で、意地悪で、横暴で、俺よりも子どもみたいな振る舞いをするあの人が、今のは良かったよ、と自分のことのように喜んでくれたから頑張れた。そうじゃなきゃ、とっくに心なんて折れていた。
あの人に置いていかれないくらいの呪術師になる。それがどれほど大変なことかを知るより先に、与えられる飴の味を知ってしまった。だからその後に何度鞭打たれても、たとえその先に待つものが地獄しかなかったとしても、ずっとその背中を追い続けることができた。
先生には、呪力操作の基礎の基礎から教わった。普通に呪術師の家系に生まれていたら当然のように叩き込まれ、身につけているはずの知識も技量も、すべて先生から教わった。土台を固めた小学校高学年以降は、玉犬を使って蝦蟇、大蛇、と次第に使役できる式神を増やしていった。
稽古だと称して、立ち上がれなくなるまで痛めつけられることが増えた。さっきのは百点満点、なんて褒められるたびに、照れ隠しに顔を背けた。理不尽なくらい痛めつけられるたびに、もう二度と口もきいてやらないと下唇を噛んだ。時折何もかもが嫌いになって、その吐け口として非術師の不良相手に喧嘩をした。ちょっと喧嘩が強い程度の一般人には、負けるはずがなかった。けれども、どれほど人を殴って、蹴って、痛めつけても、気分は晴れなかった。こんなことをしている場合じゃない。内心ではわかっていた。
先生は中学で問題ばかり起こしてくる俺には、何も言わなかった。何度も中学校に呼び出されて俺の素行の悪さを切々と説かれても、ヘラヘラと笑って受け流していた。ただ呪術師としての振る舞い方について何か思うところがあると、そんなんじゃ強くなれないよと言って、すぐに教育的指導が入った。
先生が俺の日常に興味がないのと同じくらい、俺がちゃんとした呪術師として育つことについて関心があることが、青くさい反抗心を抱いていた俺にも何となくわかった。だから最後には結局耐えて、食らいつくことを受け入れた。痛いし、嫌なことばかりだった。それでも、寄せられた期待に応えたかった。
あの人のことが好きだ。たぶん、ずっと好きだった。隣に居続けるためには、強くなるしかなかった。
そうやって、今まで頑張ってきた。今さら、こんなところで見捨てられたくない。でも焦れば焦るほどから回って、怪我ばかりが増えていく。どうしていいかわからなかった。
『恵より、悠仁を連れてくれば良かった』
事故調査部門の聴取で、ひとつだけ嘘をついた。本当は、忘れてなんていなかった。何があの事故のトリガーとなったのか。言われたくないことを言われて、不貞腐れて、命令違反をした。それで、大怪我して搬送された。自業自得だ。そんな馬鹿みたいな私情のせいだったなんて、言えるはずがなかった。
だから前後の記憶も曖昧で、何も覚えていないと言った。ほとんど何も覚えていなかったから、全部が全部、嘘なわけでもなかった。客観的に見ても非があるのは俺のほうだったから、事故調査部の結論において、五条先生の監督責任は問われなかった。俺は俺で、負傷の度合いに情状酌量の余地ありとして、経緯報告書を兼ねた反省文を課されるだけで済んだ。先生が上に何をどこまで伝えたかはわからない。あの人はあの人で総監部が嫌いだから、きっと適当にやり過ごしたのだろう。
『恵より、悠仁を連れてくれば良かった』
ぐちゃぐちゃに靄掛かった記憶の中で、先生の声が響いている。
虎杖の成長が目覚ましいことはいい。あの身体能力を羨むことはあっても、妬ましいとは思わない。努力をして得られるものとそうでないものの区別は、年相応にはついてるつもりだった。それにあいつは、元を糺せば俺に巻き込まれてしまっただけの一般人だ。優しすぎるほどの善人。幸せになってほしいとさえ思う。
『恵より、悠仁を連れてくれば良かった』
でも、比べるようなことを言わないでくれ。これが全力で食らいついて、ずっと追い続けた結果なのだから。もう要らなくなったのなら、ちゃんとそう言って欲しかった。そうしたらもう自分には何もなくなってしまうけれど、それでも、期待外れだという顔を見続けるよりはマシだった。逃げ場なんてどこにもない。初めから、ここで生きていくしかなかった。
先生のことが好きだった。でもきっと、これはそういう『好き』じゃない。だって、期待されなくなることが何よりも怖い。高望みなんてしない。伝えるつもりもない。ただ、ずっと側に置いてほしかった。