月の欠片 - 5/6

5:七海建人

「伏黒君」
 用事があって立ち寄った高専内で、制服姿の彼を呼び止めようと思ったのは、端的に言い表すならば本能だった。行き惑うように歩くその後ろ姿はどこか虚ろで、とてもくたびれて見えた。
 今はもう秋も半ばだというのに、ふと、首元にまで絡み付くような夏の暑さと、むせ返るような鉄の匂いの記憶が通りすぎていった。
「ああ、七海さん。ご無沙汰してます」
「ひどい怪我をしたと聞きましたが、もう出歩いていて大丈夫なんですか」
 振り向いた彼は、記憶にあるよりも少し痩せたような印象を受けた。それとも昔のような子どもらしい丸みを帯びた輪郭を失って、青年に近づいただけだろうか。少し前に任務先での事故により、民間の医療機関のほうに搬送されたと聞いている。ずいぶんと大事になっていたようだったから、まだそれを引きずっているのだろうかとも思った。
「そんなに広まっていたんですね。もう大丈夫です。ただの、俺の不注意だったので」
 声に覇気はなく、呪力が澱んでいた。思い出すのは耳をつん裂くほどの蝉の声と、横たわる同期の死体、冷え切った地下安置室の椅子の硬さ。何年も昔の話だ。あのあと突然姿を消した一学年上の先輩の呪力も、今の彼と同じように澱んでいた。それをあのときにその場では気づけなかったのは、私自身も当時、到底まともな精神状態ではなかったからだ。あの日、夏油さんの隣で冷たい椅子にもたれたまま、薄暗い安置室で五条さんの任務引継の知らせを聞いた。初めからあの人が出ていれば死なずに済んだかもしれなかった同期の遺体が、処置台の上に寝かせてあった。それに真っ白な布切れが掛けられるのを、絶望に似た気持ちで眺めていた。始終、重たい空気が空間に滞留していた。二言三言交わして、それからどうしたのかは朧げだ。夏油さんが呪詛師として処刑対象に指定されたことを知らされたのは、それからすぐのことだった。
 今の伏黒君の雰囲気が、あのときの夏油さんと似ているなんて。そんな馬鹿なことは。嫌な考えを振り払って、立ち止まった彼の元に寄る。
 任務の帰りだろうか、制服姿の彼はよく見るとボロボロだった。右肩が不自然に下がり、肘から下が、本来と真反対の向きに捻れていた。素人目に見ても、まともな状態ではなかった。家入さんのところに行くのかと思いきや、では、と断った彼は真っ直ぐに学生寮に戻ろうとする。
「ちょっと、どこに行くんですか」
「家入さんには、これ以上怪我をしても治さないって言われてるんです」
「だからって、これをこのままにして良いはずがないでしょう」
 携帯電話の電話帳を探すと、目的の名前はすぐに見つかった。こちらから連絡することこそ滅多にはないが、高専での何年間かを共に過ごした、ひとつ上の先輩の番号くらいは知っている。何度かのコール音のあと、相変わらず酒焼けした低い女性の声が、怪訝そうな調子で電話を取った。
「七海? 珍しいね、何?」
 背後では騒々しい走行音が混じってた。現在地を尋ねると、家入さんは車の中だと言った。学外での会議のために出払っているが、あと三十分程で戻るとのことだった。状況を手短に説明して、ひとまず伏黒君を医務室に連れて行った。
 この場を動かないようにと伝えて、自販機に立ち寄って、三人分の飲み物を買った。適当に選んだジュース缶三つを抱えて戻ると、彼は私が医務室を離れたときと同じ姿勢のまま、右腕をだらりと垂らしてうなだれていた。
 買ってきた缶を机の上に並べた。どうぞ、と言っても伏黒君は俯いたまま、手を伸ばさなかった。
「七海さんみたいな呪術師になるには、どうしたらいいですか」
 顔もあげられないまま、伏黒君がそんなことを訊いた。憔悴しきった、絞り出すような声だった。文脈も何もわからない。とても曖昧な質問だと思った。
「一級に上がりたい、ということですか。それなら伏黒君であれば焦らずとも、そう遠くないうちに昇級の機会が来るでしょう」
 それこそ、五条さんに聞いてみたほうがいいのではないかと思った。直接担当している五条さんでは伏黒君の一級への推薦要件は満たせないが、どのみち生徒の育成関連はあの人が裏で糸を引いてる。昇級時期も、きっとあの人の意向に依るのだろう。何より伏黒君は、五条さん自身が高専生として在学していた頃から面倒を見ている、長い付き合いの弟子だ。同学年の他の二人よりも、余計にその進退が五条さんの支配下にあることは、想像に容易かった。
「……七海さんみたいに、五条先生に認められる術師になりたい」
 まるで幼な子が夢を語るみたいに、伏黒君はぽつりとそんな言葉を漏らした。
「それは、難しいですね」
「……そう、ですよね」
 難しい質問だ、と言ったつもりだった。けれども目の前の彼は、それを自体を難しいと言われたと取ったようだった。
「違いますよ。伏黒君は十分良くやっていると思います」
 ちょうど去年の今頃だった。二級術師として高専への入学が決まったと、五条さんがとても嬉しそうに話して回っていたのは未だによく覚えている。私が入学したときのひと学年上の先輩たちが例外中の例外だっただけで、大半の呪術師は二級・準一級で現役を終える。乙骨君のようなイレギュラーもごく稀にいることにはいるが、入学時点で二級ともなれば、一般に十分に天才と称される部類だった。
「私はこの前虎杖君との任務を、──というより、虎杖君の育成ですね。虎杖君の育成を五条さんに頼まれて引き受けたりしていたのですが、君の場合は、昔から五条さんが手放さないでしょう。ずっと手元に置いておくというのは一長一短で、なかなか成長が見えづらいということもありますから」
 そんな彼がどうしてこんなところで壁にぶち当たり、悩みを抱え込んでしまっているのかはわからない。まったく、あの人は今度はいったい何をしでかしたんだか。信頼も信用もしているけれど、未だにいっさい尊敬しようとは思えない、あのデリカシーのないはた迷惑な先輩のことだ。やらかしそうなことは、考えても枚挙に暇がない。
「君の努力云々ではなく、単に認める側、つまりあの人のほうに問題があるのではないかと思いますよ」
 だからあまり気負いすぎないことが大事だ、というのが外野としてのひとまずの意見だった。
 まあ、そもそもあの人に問題ないところなんて見当たらない。本人に聞かれたら確実にめんどくさい絡まれ方をされそうな言葉を、そっと心のうちに仕舞った。
「気になるなら、五条さんと話してみてはどうですか。何はともあれ、伏黒君については、五条さんより他に適任者はいないでしょう。もしかしたら、直接話してみることで、今まで自分では気づいていなかった意外な課題が見えてくるかもしれません」
 もう一度飲み物を勧めたが、伏黒君は受け取らなかった。それでは、と遠慮なくひとつ選んで、プルタブを引いた。小気味の良い音がして、ふわりと柑橘系の香りが漂った。ゆっくりと傾けて中身を啜った。
「……怖いんです。面と向かって拒絶されたら、と思うと」
「そんなこと、君に限ってはあり得ない」
 伏黒君はゆっくりと横に首を振った。一切の謙遜のない否定だった。

 家入さんは先程電話で聞いていた通り、三十分ほどで医務室にやってきた。コートを掛けて、バッグを置いて、持ち帰った資料を棚の中に乱雑に並べ立てた。その隣の棚から怪我人の記録を残しているバインダーを引っ張り出してきて、ようやく我々の向かいに座った。
「それで伏黒、昨日の今日でまた怪我をこさえてきたんだって?」
 伏黒君は俯き、黙ったままだった。
 状況は電話である程度伝えてあったから、家入さんは迷うことなく右上半身の診察に入った。
「また酷いことになってんね。転んで手をついただけじゃこんなふうにはならないでしょ」
 家入さんは呆れ果てていた。
「お願いします、五条先生には言わないでください」
 そう懇願した伏黒君の声色はどこかヒステリックで、震えていた。家入さんはため息をついて、反転術式で治癒を施すとさっさと追い返してしまった。台帳に記録をつける彼女に、偶然ではあるにせよ片足を踏み入れてしまった者として、当然抱いた疑問を口にした。
「何かあったんですか」
「最近あまりに怪我が多いもんだから、これ以上続くならもう治療しないよって伝えたんだ。まずかったかな、余計に追い詰めちゃった」
 状況は未だによくわからなかった。ただそれを改めて問いにする前に、去っていった伏黒君と入れ替わるように、五条さんが医務室に顔を出した。
「硝子。恵、大丈夫そうだった?」
「そんなに気になるなら、直接声かけにいってやりなよ」
 聞けば、二人は先ほどまで同じ会議に出ていて、五条さんの車で戻ってきたという。当然私が電話をしたことも伏黒君の怪我のことも、五条さんには筒抜けだった。
「伏黒君と喧嘩でもしたんですか」
「違うよ。最近ちょっと、あんまり顔を合わせられていないだけ。任務が忙しくて、予定合わなくて」
 隣で家入さんがまたもや呆れた顔をしている。二人のあいだに、何かのわだかまりがありそうなことだけは確かだった。だから伏黒君の雰囲気もどこかおかしかったのだ。
「あの子、何か言ってた?」
「ええ、まあ……」
「いいよ七海、甘やかすな。こいつが伏黒に直接聞きにいけばいい話なんだから」
「七海、今からメシ行こうよ。都内のフレンチ、僕の奢り」
 五条さんが猫撫で声を出した。一番苦手な先輩の一番苦手な声色に、ぞくりと寒気が走った。
「嫌です。アナタとなんて、三つ星クラスのタダ飯でも割に合いませんから。それこそ伏黒君を連れていってあげたらどうですか」
「ちぇっ、相変わらず可愛くねえ後輩だな」
「アナタは、相変わらず他人の心がわからない人ですね」
「ひどーい。相変わらずって何」
 年甲斐もなく頬を膨らませた五条さんは、何なら高専生だった十年前よりも若くみえるくらいだ。稀に組むことがある任務で依頼人の元に向かったときに、私が部長か何かだと思われて「隣の子は高校生のアルバイトですか」と言われたことがあった。あとでこの人に老け顔だ何だと揶揄われて嫌な思いをしたが、五条さんはその歳を取っていなさそうな見た目以上にさらに子供っぽいこの振る舞いが、年齢詐欺を助長しているような気がする。
「言葉の通りですよ」
「何だよ七海、僕のことそんなふうに思ってたの」
「いえ、昔灰原がそう言っていたんです。高専の自販機の前で、夏油さんと一緒に盛り上がっていました」
「傑はわかるけどさあ、灰原マジか。あいつ、僕のこと先輩として世界で一番尊敬してるって言ってたのに」
「それなら、同じことを夏油さんと家入さんにも言っていたのを聞いたことがありますね。灰原は、そういうところも含めて、憎めないやつでしたから」
 思い出話、それも故人の話に花が咲くなんて、それこそ歳を取った証拠だ。灰原も夏油さんも、もういない。その現実を受け入れて、こうして話題に出せるだけの年月が経ってしまったことを痛感する。
「それはそうと伏黒君の雰囲気、少し変わりましたね」
「そう?」
 聞き返した五条さんは、あくまでも平常そうに振る舞おうとしていたが、とても気にしているようだったのは明らかだった。
 伏黒君の纏う雰囲気が、まるであのときの夏油さんみたいだった。さすがにそんなことは言えなかった。いくらあの日々から長い年月が経ったからといって、流石に躊躇われるものはある。余計に面倒な目を見るだろうことは、火を見るより明らかだった。伝える言葉は慎重に選んだ。
「復帰したばかりであることを差し置いても、とてもやつれていたように見えましたよ。彼にはもう、アナタしかいないんでしょう。逃げ回っていないで、ちゃんと向き合ってあげてください」
 五条さんはヘラヘラとして笑顔を引っ込めて、む、と唸った。ああ、また変なところを踏んでしまったと思った。それでも会話を切り上げなかったのは五条さんのためではなく、曲がりなりにも幼い頃から知っている伏黒君のどこかおかしな様子が、外野なりに心配だったからだった。
「もし恵が望むなら、呪術師を辞めさせようと思ってる」
 五条さんはふとそんなことを言った。
「伏黒君、高専に借りがあるんじゃなかったんですか」
「まあね。でもお金の問題だけなら、いくらでも解決しようがあるだろ」
 そう言えてしまう五条さんの金銭感覚は相変わらずだ。けれど、確かにその通りではあった。
「そうですね。まあ、お金に色はありませんから。たとえば伏黒君の借金を今ここでアナタが払ったとしても、完済は完済です」
 それは五条さんの意図を組んでの発言だった。
 この歳にもなれば、金勘定のだいだいの話が察せられる程度の社会経験は積んでいる。さすがに、今の高専生としての給与半年分だけでは十年近く、それも二人分だった生活費その他諸経費は払えるはずがない。担保も信用もないのに、そんな大金をどこかから借りてくるのも難しい。たとえできたとしても、そんな金貸しはろくでもないところだから、今よりもっと悲惨なことになるのは目に見えていた。五条さんがそれを許すとも思えなかった。
 きっと伏黒君が呪術師を辞めることを望んだら、五条さんはそれを全額肩代わりするつもりなのだろう、と思った。他人への評価こそ甘いものの、無条件に人に楽をさせてやるような性格ではない五条さんだったが、どうしてかなんとなく、その想像だけはついてしまった。
「本人は辞めたいって言ってるんですか」
「わかんない。でも最近ずっと無理してるように見える。このままじゃまた大怪我するよ」
 今までいっさい会話に加わろうとはせず、医務室の机で作業をしていた家入さんが、わざとらしく咳払いをした。
「わかってるよ、僕のせいでしょ」
「私は何も言ってないけど」
「言ってたよ。さっき車の中でも散々説教されたもん」
 五条さんは不貞腐れたようにそう言って、ため息をついた。
 どうしたもんかな、と覇気のない声が言う。
「僕としては、しばらく距離を置いてあげたほうがいいんじゃないかな、と思っていたんだけど」
「初めから突き放してしまうのはおかしいでしょう」
「やだなあ、硝子みたいなこと言わないでよ」
 驚いて、思わず咄嗟に口を挟んでしまった。五条さんは、全く見当違いの方向に舵を切ろうとしていた。この人は昔から世間からはだいぶズレたところにいるが、肝心なところで変な外し方はしない人だと思っていた。何も考えていないように見えて、ちゃんと一番大切な局面で、ど真ん中を撃ち抜いていく。五条さんはそういう人のはずだった。
「実を言うと、今日高専に立ち寄ったのも、本当は恵と話をしに来たつもりだった。でも今会いに行っても、たぶんまた言い争いになるだけだよ」
 視界の端で、家入さんがまた何か言いたそうにしているのが見えた。結局、彼女は口を挟まなかった。
「こんなふうに小さい頃からずっと関わってきたのは恵だけだから、どう接してあげたらいいかわかんないんだ」
「何も、アナタが何もかもを舵取りしてあげる必要はないでしょう」
 むむ、と五条さんは再び黙り込んだ。家入さんがこれみよがしに肩をすくめたのにも、五条さんは気づかない。話はそれで終わりだった。

「これ、ひとつもらっていい?」
「ええ、お好きにどうぞ。家入さんも良ければ」
 結局手のつけられることのなかったジュースの缶を、五条さんが手に取った。先に家入さんに選ばせてから、残ったほうを開けた。
「本当は伏黒君にと思って買ってきたのですが」
「ああ。恵、甘いのあんまり得意じゃないからね」
 さらりと返された言葉ひとつにも、彼らが共に過ごした年月の長さを思い知らされる。それだけたくさんの時間を一緒に過ごしていて、今さらどう接したらいいかわからない、なんてことはないだろう。
 いや、そうでもないか。器用そうに見えて、昔から不器用な人だった。特に、自分の懐に入れた人に対しては。
 ふと夏油さんが離反した直後のことを思い出して、そんなことを思った。