月の欠片 - 6/6

6:伏黒恵(II)

 あの日結果として反故にしてしまった鍋パの約束は、今週の金曜日にようやく実現した。しばらく泊まりがけの任務で不在だった釘崎の帰投予定に合わせて、虎杖と麓のスーパーまで鍋の具材を買い込みにいった。
 とにかく肉と野菜がごろごろしたやつ。そんな釘崎からの注文を叶えるべく、虎杖と二人で大量の肉と野菜を切った。昨日の任務で負傷し、家入さんに治してもらった右腕は問題なく動きはするけれど、まだ少し感覚が鈍かった。
「伏黒、そっち代わろっか」
 察しのいい虎杖が、俺の手元から自然な流れで包丁を抜き取っていった。
「悪い…」
「やば、釘崎もう高速降りたって。伏黒、肉煮込むの頼んだ!」
 画面の点いた通知を確認して、手早く菜箸を取り出して渡された。鍋パ会場は、鍋もまな板も包丁も菜箸も、すべてが一式揃っている俺の部屋がいつも通りに指定された。道具はあるものの俺は全くと言っていいほど料理をしないから、調理器具の在処はすでに虎杖のほうが詳しいくらいになっていた。

「それでは、伏黒の復帰を祝って」
「「かんぱーい!」」
 三人で座卓を囲み、ぐつぐつと煮立った鍋の蓋を開ける。こうして任務の場以外で顔を合わせるのは久しぶりだった。俺が怪我で抜けていたあいだも二人は俺の分の穴埋めで方々に駆り出され、復帰後もまだ、三人で呪術師業以外のことをする機会は得られていなかった。
「悪い、色々と迷惑かけたな」
「まずは『心配してくれてありがとう』だろうが」
 釘崎が遠慮なく肉からつついていく。
「伏黒、本当にもう大丈夫なん?」
「ああ」
 最近の任務で怪我が多いのは、もちろんよく行動を共にする二人にはばれている。わざわざこのタイミングで食卓を囲もうなんて誘いが来たから、いったい何を言われるかと少し気が重かったけれど、いざ始まってみれば誰かと話しているほうが、かえって気も紛れてあれこれ考えずに済んだ。
「お代わり、烏龍茶でいいか?」
「さんきゅ。気が利くわね」
「あ、俺も俺も」
 空いた紙コップに、順々に二リットルのペットボトルの中身を傾けていく。途中でその重さを思わず取り落としそうになって、まだ本調子じゃないことを痛感した。利き手なのに、逆で持ったときのような扱いにくさがあった。こぼしてしまった液体をペーパータオルで拭いているあいだに、虎杖が俺に代わって飲み物を注いでいった。
「それ、本当に大丈夫なの? アンタは手が武器みたいなもんでしょ」
「一応問題なく動くから平気だ。寝たら治る」
「いざというときに式神が出せなきゃ、また怪我するわよ」
 恵の術式は手が命なんだから、大事にしなきゃだめだよ。釘崎の声と被るように、またあの人の声がした。昔、あの人にも同じことを注意されたことがあった。わかっている。大丈夫。誤魔化すように、二人に週末の予定を聞いた。
 日曜なら暇だと釘崎が答えた。
「アンタからそんなこと言うの、珍しいわね」
「俺はどっちも空いてるよ」
「じゃあ日曜日に飯行こう。今回の件で、お前らには結構迷惑掛けたし」
「「焼肉!!!」」
「奢りだからって高いもんばっか頼んだら即割り勘にするからな」
 笑って、食べて、また笑った。
 あれだけ切り刻んだ具材は一時間と経たずに無くなった。残った鍋に白米を投入し、雑炊でしめた。具材も米もこれでもかというほどに入れたつもりだったが、全てを食べ終わるころには、ほどよい満腹感に収まっていた。
「あー食った食った」
「そうだ、デザートにお土産あるわよ」
「マジで。釘崎様〜」
「崇めろ崇めろ」
 釘崎が買ってきた生菓子を三人で頬張った。用意した食料とペットボトルがすべて空になっても、しばらくそのまま喋り続けた。最近の任務のこと、学校の課題のこと、それからいろんな人の近況について。今日は金曜日だ。翌日の起床時刻を考えずにゆっくりできるのは久しぶりだった。
「そういえば五条先生、最近忙しそうだよね。俺ひとつ書類に判子もらいたかったのに、全然会えねーんだもん」
「今週末には帰ってくるってこのあいだ伊地知さんが言ってたわよ」
「今週末ってもう今日しかなくない? 先生、土日も働いてるんかな」
 少し前までは聞いてもいないのに先生から月の予定が送られてきて、だいたいいつどこにいるのかの見当がついた。けれどもあの日以来、ひと言も連絡を交わしていない。どこで何をしているのか、何一つとしてわからなかった。

「じゃあ一旦解散ね。大浴場が閉まる前に風呂入ってくるわ。日曜の予定はまた後で考えましょ」
 釘崎はそう言って、食卓の片付けを手伝った後に、一度女子寮に戻ってしまった。
「そうだ、せっかくホラー映画選んでおいたのに、流すの忘れちゃった。伏黒いまから観る?」
 鍋底に焦げ付いた米粒を擦り落として、虎杖が言った。上手く取れなきゃ鍋ごと買い替えてもいいと言ったのに、伏黒家のだから、と虎杖は頑として受け入れなかった。
「いいけど。お前の部屋?」
「畳のほうの談話室が空いてたらそっちにしよ! そのほうが雰囲気出るから」
 一歩出た廊下は寒かった。東京とはいえ、秋も半ばの山奥ともなれば、朝晩はすでに十度台前半まで冷え込んでいる。暗い廊下の先、談話室の電気をつけて、虎杖が備え付けのデッキに円盤を入れた。
「結局何にしたんだ?」
「『残穢』」
「うわ最悪」
「俺もさすがに一人で観るのは嫌だったんよ」
「嫌なものに他人を巻き込むな」
 一人暮らしは絶対に観るなとか、自分の部屋の人感センサーが壊れてからが本番だとか、映画に疎い俺でもその悪評は耳にしたことがあった。おまけに『残穢』という言葉選びも、呪術界では少し話題になっていた。ほぼ業界用語に等しかったそれが、全然無関係ではあるものの映画のタイトルにまでなったのだから、任務の合間を縫って観にいった呪術関係者も多かったらしい。呪霊って見えているだけ可愛いもんだよな。見えないものが怖いと思ったのは初めて。そんな感想をちらほらと聞いた。
「釘崎が戻ってくるまで待とう。犠牲者は多いほうがいい」
 ホラー映画上映会、とメッセージを送ると、「三十分待て」と返ってきた。どうせ女の風呂上がりは申告の通りには済まないだろうが、別に明日何か用事があるわけでもない。ゆっくり待てば良かった。
「暇だし何かやるか」
 薄らと埃を被ってはいるが、談話室にはたくさんのボードゲームが置いてあった。駒がいくつか無くなっていたり、飲み物をこぼした跡が残っているものもある。歴代の先輩たちが買い足し、遺していったであろう箱を漁って、いくつかのゲームを見繕った。
「釘崎あとどれくらいで来るって?」
「三十分」
「ってことは一時間は掛かるな。カタンでいい?」
「二人じゃおもしろくないだろ。真希さん誘ってみるか」
「真希さんはな……強すぎるんよ」
 結局消去法でオセロの箱が残った。半々に分けた時点で石が明らかに足りていなかったが、二人とも手持ちが尽きたら終わり、という追加ルールで合意した。
 パチン、パチン。
 盤面に石を置いて、挟んだ石をひっくり返す。交渉系のゲームではないから、会話は生まれない。あっ。あー。時折狙っていたマスを取られて、ずらりと盤面の色が入れ替わった。また取り返して、色を戻す。しばらくはそうして領地を広げつつ、四隅や端のほうを狙っていった。
 ふと、虎杖が口を開いた。
「言いたくなかったらいいんだけどさ、最近、五条先生とちゃんと連絡取ってる?」
 パチン。角を一つ押さえて、石の色を返した。
「……取ってない。退院報告もまだ送れてない」
 男同士、何となく話しやすかった。余計な気を使わなくて済むからかもしれない。取り繕うこともなく、事実だけを口にした。
「先生、すごく心配そうにしてたよ」
「そりゃあ、あんな大事になっちまったからな」
 次の一手を考えて、手が止まった。選択肢はあまり多くなかった。一番マシなところに石を置いて、大して増えなかったマスを返した。
「先生、何か言ってたか?」
「ううん。怖くて聞けてない。地雷踏んじゃいそうでさ。俺が口出ししていいのかもわかんなかったし」
 それから虎杖はしばらく盤面を見つめたまま、真剣そうに考え込んだ。虎杖の手元近くに、取られたら形勢逆転されてしまいそうなマスがあった。それには気づかず、虎杖は右端のほうに石を置いた。パチ、パチ、と石が返される。
「ちゃんと、伏黒から話してみたほうがいいと思うよ。何があったのかは知らないけど、復帰してから、伏黒ずっと上の空じゃん。怪我ばっかりしてる」
 俺が次の一手に悩んでいるあいだに、虎杖はそう言った。思わず、手が止まった。
「好きなんでしょ、五条先生のこと」
「そういう『好き』じゃねえんだよ、たぶん」
 先生とどうにかなりたいわけじゃない。付き合いたいとか、デートしたいだとか、そういう感情の想像もつかなかった。
「『頑張ってるね』って言って、呪術師として側に置いてもらえたら、それでいい」
 甘えたことを言っている自覚はあった。でも、ほかに何て言ったらいいかわからなかった。置く場所に迷ったまま、手にしていた石を握りしめた。眼は盤面の上をさらうばかりで、次の一手は定まらない。
「付き合いたいわけじゃないんだ。たとえ五条先生が知らない誰かと結婚したって、別にいい」
 静かに聞いていた虎杖が、口を挟んだ。
「そうかな、俺はそんなことないと思うよ。人間やっぱり欲が出ちゃうから。欲しかった言葉がもらえたら、きっと次はそれ以上のものが欲しくなる。そのときに、例えば五条先生が結婚しちゃってたら、伏黒はきっとその言葉を後悔すると思う」
「恋愛感情じゃないだろ、こんなの」
「それは伏黒にしかわからないよ」
 パチ、パチ。交互に石を置いていく。気づけば、お互いに手持ちは尽きていた。盤面は白と黒が半々くらい。気持ち、白のほうが優勢にも見えた。
「どうする、もっかいやる?」
「やる」
「じゃあ次は俺が先攻ね」
 盤面の石を回収して、虎杖が半分に分けた。始めに真ん中に四つ置いて、それから先攻の黒色が石を置いた。パチン、パチン。盤面の白黒が入れ替わる。
「あ、五条先生だ」
 虎杖が言った。ぴたり、と手が止まった。ここは談話室という名称がついていたが、実際は角の何もない空間に畳が敷かれているだけだ。当然扉もなく、内からも外からも、様子がうかがうことができる。学生寮の玄関から、長身がやってくるのが見えた。
「よ、健康優良不良少年たち。華金だからって羽目外してない?」
 落としてしまった石は、机の下に転がっていった。やってきた先生は、楽しそうに立ち止まってそう言った。いつもの任務の服ではなく、ラフなジャケットとパンツに、サングラスだった。格好からして、上層部に呼び出されていたのだろうと思った。
「先生久しぶりじゃん。任務だったん?」
「ううん、上にとっ捕まってただけ。今から麓のコンビニに行くけど、ふたりとも一緒に行く?」
 まるでここ数週間のあいだに何事もなかったかのように、先生がそう誘った。
「俺はいいや。先生、伏黒を連れていってあげてよ」
「は? なんで俺…」
 急に名前を出されて、思わず顔を上げた。サングラス越しに先生と目があった。本当に、顔を見るのはすごく久しぶりだった。不自然に間が空きそうになったのを巻き取って、先生が明るく茶化した。
「どうしたの恵、替えのパンツでも尽きた?」
「違います。俺はもう寝ます、明日も用事あるんで」
 本当はそんなのは嘘だった。別にこれといった予定はなかったけれど、そんなのどうせバレやしないだろう。それに用事くらい、作ろうと思えばいくらでもでっち上げられた。適当に朝から都内に出て、何か食べて、本でも読んで帰ってくればいい。
 何かを持ってきたわけではなかったから、盤面もそのままに、身ひとつで立ち上がってその場を去ろうとした。ディスクを読み込んだままのテレビ画面にも触れなかった。きっともうすぐ釘崎が戻ってくるだろう。そのときにどうにかすればいい。
「先生、伏黒が思い詰めちゃってるから、相談乗ってあげてよ」
「おい、虎杖──」
 がしっ、と馬鹿みたいに強い力で手を掴まれて、崩れ落ちそうになる。ちょっと引っ張ったくらいじゃ全然抜けない。離せよ馬鹿。だったら逃げんな馬鹿。馬鹿はお前だ。あ、やんのか。表出ろ。表出るくらいなら先生とコンビニ行け。お前が行けばいいだろ。
「恵、少し散歩しにいこうよ。ちょうど話したいこともあったんだ」
 しばらく笑いながら傍観していた先生が、とうとう見かねて声を掛けた。
「というわけでごめんね悠仁。恵を借りていくね」
「いいよいいよ。ごゆっくり」
 ひらひらと手を振って、それから虎杖が何かに気づいたように言った。
「俺のあの丈の長いパーカー貸してあげよっか。そのままじゃ外寒いでしょ」
「僕のを着たらいいよ。恵、行くよ」
 先生は脱いだばかりのジャケットを俺に被せて、スタスタと先を歩いていった。下は半袖のTシャツ一枚で、剥き出しの腕が寒そうだった。先生は俺がついてくることを信じて疑わず、通ってきたばかりの玄関に向かっていく。別にこのまま踵を返して、自室に帰ってしまってもよかった。
「伏黒、ちゃんと行っておいでよ」
「──悪いけど、片付け頼んだ」
 でもそうしなかったのは、先に上着を貸されてしまったから。部屋に帰るにしたって、まずはこれをどうにかしなければならない。先生も、きっとわかっていて俺に貸したのだと思った。

「今日はずっと悠仁とゲームしてたの?」
「三人で鍋食べて、それから前に約束していた映画を観ようって、ゲームしながら釘崎が戻ってくるのを待ってました」
 まるで何事もなかったみたいに先生が話しかけるから、ぎこちない会話にならずに済んだ。いつも通りの、昔と同じ接し方だった。靴を履いて寮の玄関を出る。先生は懐かしそうに笑っていた。
「あのオセロ、買ったの僕なんだよね。今の恵と同じくらいの歳のときに親友と二人でお金を出したんだけど、石を呪力で飛ばしたりして遊んでたら、すぐに十個くらいどっかいっちゃった」
 石、足りなかったでしょ。先生が笑う。
 それがなんだか怖かった。まるで全てが終わってしまう直前の、最後の平穏みたいだった。先生はさっき、俺に話したいことがあると言った。いったい何を言われるのだろう。家入さんから、直近の怪我のことを聞いたのかもしれない。あまり厳しいことを言われるのは、きっと今の精神状態では耐えられない。嫌味くらいで済めばいいと思った。

「恵、怪我はもう平気?」
 高専の正門を出て、未舗装の坂を下っていった。しばらくずっと避けていた話題に触れられたのは、長い鳥居を抜けたあとだった。
「はい。おかげさまで、もう何ともありません」
「退院の日、迎えにいってあげられなくてごめんね。本当は僕が行くはずだったんだけど、恵の退院予定が一週間ずれちゃったから」
「こちらこそ、いろいろと迷惑をかけてすみませんでした」
 本当に、もう任務に出るのにも支障はないくらいには回復していた。結局上席指示を無視した俺に非があったということで、経緯報告とともに反省文も出して、総監部からも本件解決済みの連絡を受けていた。あの日からは、それだけの日数が経っていた。
 五条先生の突っ掛けがパタ、パタ、と地面を叩く。夜の山はどこまでも冷たく、澄んでいた。時折鈴虫が鳴くのが聞こえてくるくらいで、あたりには誰もいなかった。五条先生が寒そうに剥き出しの腕を擦った。上着、返さなくて平気ですか。平気、平気。空のずっと上のほうには、白い満月が透き通るように輝いていた。
 いろいろ考えたんだけどさ。先生はなんの前置きもなくそんなことを言った。作り物のような、少し張るような明るい声だった。
「恵、僕の生徒を辞めてもいいよ」
 一瞬、心臓がぐちゃぐちゃに潰れたかと思った。息を吸うことも忘れて立ち止まった。パタ、パタ。俺に合わせて、五条先生の足音が止まる。
 捨てられた。その言葉が真っ先に頭に浮かんだ。それから、かつて継母だった人が帰って来なくなった日のことが頭に浮かんだ。自分たちが要らなくなった、という事実を飲み込むには、とても長い時間が必要だった。父親は碌でなしだったから、アイツが帰ってこなくなったときは、どうでもよかった。唯一血の繋がった人だったけれど、縁が切れてせいせいしたと、津美紀の前では強がった。でも本当はそうじゃなくて、親父は継母を選んで、俺たちを見捨てたんだ。継母が帰らなくなって初めてそう思い至ったとき、心の奥をぎゅっと掴まれて、抉り取られるような心地がした。何日も経っても誰も帰ってこなくなった玄関を見ながら、津美紀はずっと泣いていた。俺は泣けなかった。悲しい気持ちよりも、うろたえる気持ちのほうが大きかった。どうして、どうして。泣き疲れて眠ってしまった津美紀の横で、じっと蹲って考えた。結局、答えはわからなかった。答えてくれる大人は、誰もいなくなっていた。
「……辞めてもいいって、どういうことですか」
 やっとのことで絞り出した声には、惨めな音が乗っていた。どうして、どうして。薄暗いアパートの一室でずっと繰り返した言葉が、頭の中を駆け巡る。あの夜に流せなかった分の涙が、今になって込み上げてくる。それを、太腿を抓って耐えようとした。
 五条先生は優しいけれど、いざというときは冷徹に、合理的に他人を切り捨てられる人だ。未練たらしく縋って、情に訴えていい相手じゃない。どうしても、ここでだけは泣きたくなかった。
「どういうことも何も、辞めたければ僕の生徒であることを辞めていいよって言ったの。規則があるから今年の高専の担任だけはそう簡単には変えられないけど。まああと半分くらいだし、当面は任務で出払うか、二年に混ぜてもらえばいい」
 努めて明るく振る舞うように、五条先生はそう言った。
「それとも、呪術師自体を辞めたいかな」
 そんなことない。そんなこと、思ってなんかいない。言葉が、喉奥につかえて出てこない。
「恵はどうしたい? もし僕に直接言いづらいなら、あとで話は通しておくから、夜蛾学長と直接面談してもいいよ。さっき悠仁が言ってた悩み事って、きっとそういうことでしょ」
 気遣いの言葉が遠く聞こえる。ここで答えなければ、もう二度と会ってもらえないような気がした。きっとまた距離を置かれて、この人まで俺の前から消えてしまう。どうして、どうして。視界が勝手に滲んでいく。
「はい、これで僕からのお話はおしまい。コンビニは一人で行くから、もう寮に戻って──」
「要らなくなったんなら、そう言ってください」
 絞り出した声は、呆れるほど震えていた。泣いたって何も解決しないのに。こんなところで泣いても、困らせるだけだ。
「期待外れだって、五条先生がもう要らないって言うなら、先生の言う通りにします。でも、それなら、ちゃんとそう言ってください」
 もう顔も覚えていないあの人たちが置き手紙ひとつなく蒸発したとき、いつか帰ってくるんじゃないかという望みを、長いこと抱いたまま捨てられなかった。また同じように、そんな不毛な気持ちでこの先を過ごしていくのは嫌だった。そうなるくらいなら、先生には、はっきりと言葉にしてほしかった。
「じゃないと、俺、また……」
 その先は詰まってしまって、言葉にならなかった。何て言っていいかわからなかった。太腿をつねっても、痛いくらい爪を立ててみても駄目だった。堪えきれず、ぼろぼろと温かい涙が頬を伝って落ちていく。
「なんでそんな話になるの」
 優しい声が降った。
「恵、泣いてる」
 五条先生はじっと俺の発言が続くのを待った。それから俺がもう一言も発せないほど泣き出したのを見て、困ったように呟いた。
「僕なにか嫌なこと言った? ──ああ。言ったか」
 冷たい親指の腹が、濡れた頬を拭った。
「別に、恵のことがいらなくなったとか、そういう話じゃないんだ。たぶん勘違いしてるだろうから先に言っておくけど」
 ぼろぼろと濡れ続ける頬を、先生は何度も撫でた。親指の腹で拭って、親指全体で擦って、次に人差し指の背を優しく押し当てた。それでも全然間に合わなくなった。
 抱き寄せられて、Tシャツ越しに胸板に押し付けられた。温かかった。溢れた涙が、繊維のあいだに吸われていく。
「恵のことは、一番大事に思ってる。ごめんね、泣かないで。泣かせるつもりはなかったの」
 子供みたいに泣きじゃくる俺を、五条先生はずっと撫で続けた。優しい手つきに、いっそう涙が溢れ出す。それを先生は何度も拭った。
 そうしているうちに、どうして泣いているのかもわからなくなって、涙は自然と止まっていった。ひくり、と喉が震えた。目元一帯が腫れぼったくて重かった。
 厚い胸板を押して、腕の中から抜け出した。泣き疲れた目は乾燥して、ずっとは開けていられなかった。何度も瞬きを繰り返す俺を、五条先生は傍で静かに見守った。
「落ち着いたね」
「すみません……」
「部屋まで送るよ」
 先生はそっと背中を押して、元来た道を帰ろうとした。
「コンビニ、いかなくていいんですか」
 へ、と場にそぐわない間抜けな声がした。きょとんと丸くなった目が、サングラス越しに覗いていた。
「だってさっき、買い物に行くって……」
 五条先生には目的があったはずだった。廊下で虎杖と話していたときに、上層部にずっと捕まっていたと言っていた。だから、きっと日中に済ませられなかった買い物の用があったのだろうと思った。
「そうだね。そうだった。コンビニ、行こっか」
 吐息のような笑い声が耳元をくすぐった。
 先生は俺の肩を抱き寄せて、寄り添うように隣を歩いた。泣き腫らした目ではもう暗い足元はよく見えなかったけれど、そうしてもらったおかけで、置いていかれずに済んだ。
 高専から目的地までは、ずっと下り坂だった。国道のうんと先にある四角い平屋の明かりを求めて、二人で下っていく。途中で何度か車とすれ違った。照りつけるヘッドライトに目が眩んで、手の甲で目を擦った。その度に俺が泣いたのだと思って、先生が心配そうに覗き込んだ。
 目的地には、二十分ほど歩いて到着した。先生が足りなくなった日用品を選ぶのを、ぼんやりとしたままついていった。たくさん泣いた頭は重たくて、何も考えられなかった。泣き疲れて眠くなるなんて、子供みたいだと思った。
「はい、これ飲んで待ってて」
 レジの前で、手渡されたほうじ茶のペットボトルで暖を取る。袋詰めを待って、それからコンビニを出た。外はしんと冷えて寒かった。買ってもらったペットボトルに口をつけた。ほっと力が抜けた。優しく温かい液体が、胃袋の底に溜まっていく。
「帰ろう、恵」
 初めて連れていかれたあの任務の帰りみたいに、先生が手を差し出して、俺の手を握った。ガサガサと、歩くたびに袋が揺れる。片道二十分を掛けてゆっくり下りてきた坂を、同じだけの時間を掛けて上っていく。俺も先生も喋らない。時折この温かな手の存在を思い出して、忘れていた呼吸が小さく震えた。
 遠くに高専の明かりが見えた。
 筵山の麓にひっそりと入り口があって、連なった鳥居の坂をさらに登れば、正門に着く。そこにたどり着けば、この時間は永遠に失われてしまうだろう。今日のやりとりも、泣いてしまったことも何もかもがなかったことになって、またいつも通りの日々がくる。五条先生は俺の手を握ったまま、すぐ隣を歩いていた。今ならまだ、手を伸ばせば、触れることができると思った。
「好きです、先生」
 白む吐息に紛れて、ふわりと言葉がこぼれ出た。
「ずっと好きでした」
 伝えるはずのなかった気持ちが、勢いのままに溢れていく。
 先生のほうを見るのは少し恐ろしかったから、その先の帰路はずっと正面ばかりを眺め続けた。そうしてやがて麓についた。そこが終着駅だった。別にこの先に何も敷かれていなくても平気だと言い聞かせて、先生を見上げた。この想いは届かなくていい。初めから、届くことなど考えていない。勝手に溢れ出てきてしまった感情は、元あったところに戻すだけだ。
「さっきのは忘れてください、困らせたいわけじゃないので」
 心の奥底の引き出しを開けて、両手に掬ったばかりの感情を、暗い底にそっと置いた。ちょっぴり名残惜しい晩秋の空気を吸うと、代わりに言うべき言葉が紡ぎ出されていった。
 一番大事だと言ってくれた。たとえ先生のその言葉が嘘だったとしても、その事実だけで十分だ。それ以上は望まない。だから、ここで終わりでいい。
 そう覚悟していたはずだった。
「僕の部屋においで。少し話そう」
 優しく手を引かれて、気づけば鳥居の中を上っていた。先生はその先の灯りに向かって、俺の手を引いていく。二人一緒に正門をくぐった。学生寮の脇を抜けて、教員の寮棟の玄関を跨いだ。木造の廊下がミシミシと鳴った。

 冷え切った部屋に入っても、坂を上ってきたばかりの身体はまだ熱いままだった。鼓動がどくどくと鳴っていた。それが先生にも聞こえてしまうのではないかと思うくらい、大きな音に思えた。急に戻された日常に、頭が追いつかなかった。今までだって何度も踏み入れたことのあるこの部屋が、今日ばかりは異世界のように見えた。
「何か飲む? 貰い物のお茶があるから、それでもいい?」
 こくり。回らない頭で、理解するより先に頷いた。
 五条先生は備え付けられたキッチンに立った。お湯を沸かして、二人分のカップを用意する。
「ソファ座ってて。あ、これ緑茶だと思ったら紅茶だ。ノンカフェインのハーブティーだって。まあいいか、夜だしね」
 半ば独り言のように聞こえたそれに返事はせず、勧められるがままに布張りのソファに腰を下ろした。
 先生はタオルを濡らして、目元に当ててくれた。たくさん泣いちゃったからね、しばらくそうしてて。ずっと昔にも、同じようにしてもらったことがあったと思った。あれは俺が熱を出したときだっけ。津美紀から連絡を受けて、夜中に高専から飛んできてくれた先生は、夜が白んで月が消えるまで、ずっと慣れない看病をしてくれた。
「昔も、こんなことしたよね」
 同じことを思い出したのだろう先生がそう笑って、それからキッチンへと戻っていった。冷たい感触が心地良かった。それから少しして先生はカップを持って戻ってきたから、温くなったタオルを目元から退けた。形の揃わない二つのマグカップが、ことんとローテーブルに置かれた。
「さっき僕のこと、ずっと好きだったって言ってくれた」
 二人分の重さを受け止めたソファが、ずっしりと沈む。
「ずっと、っていつから?」
 たっぷりとそそがれたカップの水面を見つめながら、その答えを考えた。
「僕と、恋人になりたいって思うの?」
 五条先生のことが好き。気がついたときには好きだった。心の奥に仕舞ってあったその気持ちが、ふとした弾みで音を持って、表舞台に引っ張り出されてしまった。だからその前後のことなんて何も考えていなかった。
 わかりません、と素直に告げた。それから言葉足らずだと思って、心の奥底の引き出しをさらった。きらきらとゆらめく砂金を洗って、それを掻き集めて言葉にした。唯一、今の自分にできることだった。
「ずっと先生の側に置いてほしいんです。これからも先生の元で呪術師としての経験を積みたい。さっき手を繋いでくれたのも、抱きしめてもらったのも、撫でてもらえたのも嬉しかった。前みたいに、何でもない中身の連絡が先生から来るのも、言ったことはなかったけど、本当はずっと嬉しかった」
 ここ何週間かみたいに、疎遠になってしまうのは嫌だった。恵みたい、ってコメントとともに送られる、道端で見かけた黒猫の写真。美味しかった出張先のお菓子の感想。聞かずとも送られてくる向こう一ヶ月の出張の予定。長々と続くわけではなかったけれど、自分だけに宛てて来る、あのやりとりが好きだった。
「たぶんね、恵にはずっと僕しかいなかったから、好きだって勘違いを起こしているんだと思うよ」
 優しい声で、先生はなだめるようにそう言った。
 わかっている。俺の生活の全てに五条先生がいたから、それを恋愛感情だと錯覚したのかもしれない。与えられた環境を生き延びるための手段として、勝手にそう思い込んだのかもしれない。
「でも、それでもいいんです。勘違いでも、ずっとそれで頑張ってこられたから」
 そうやって背中を追いかけて、ここまで来た。好きだと伝えてしまった気持ちが紛い物でも、勘違いでも、別にいい。呪術師としてずっと先生の元にいたいという気持ちだけは、嘘じゃなかった。
 先生はしばらく黙り込んだ。それから「何から話そうかな」と言って、また口を閉ざした。思案して、言葉を選んでいるようだった。
「このあいだ恵が大怪我をして運ばれたとき、もし恵がこのまま死んじゃうなら、僕も死のうって思った」
 本当だよ、と先生が笑う。その話は虎杖たちからも聞いていた。だから言われずとも、疑おうなんて気持ちはなかった。
「でも僕にも曲がりなりにも当主だったり、特級としての立場があるから、もしそんなことが起こっても、本当に死ぬところまではいかなかっただろうと思う。僕は、たまに自分でも嫌になるくらいの現実主義者だからね」
 知ってますよ。そう告げると、先生は再び笑った。
「だからきっとそこまでは狂えない。ただ恵が無事に目を醒ましたって連絡をもらうまでは、他人に反転術式を使えない自分のことをずっと責めたし、初めからもっとちゃんと、恵の言い分を聞いていてあげていればとも思った。結果として恵がしっかり持ち直してくれたから、それ以上のことは考えずに済んだんだけどね」
「本当はね、恵を僕の手元に引き留め続けて、また同じような目に合わせてしまうのが怖かった。いい機会だから、ここで一度手放してあげるのが最善なんだと思った。だからさっき『僕の生徒をやめてもいいよ』って言ったの。でも恵がそんなのは嫌だって泣いてくれて、正直すごく嬉しかった」
「僕はね、恵にはとても期待してるの。別にプレッシャーを掛けているわけじゃない。恵は、きっといつか僕の存在を根底から揺さぶるような術師になる」
「でも、たとえば、例えばの話ね。もしかしたら恵はこれからあまり大成せずに、そこまでの域にたどり着かないかもしれない。仮にそんなことがあったとしても、それを理由に恵のことが要らなくなるわけじゃないんだ。もちろん、恵が僕を追い越すほどの成長してくれたら、それ以上のことはないけどね」
「でもそんなことよりも、恵が元気で、僕の隣にいてくれたら、それが一番嬉しい。好きだよ、恵。僕の好きは、そういう好き」
 これが俺の告白に対する返事だと、五条先生が言った。
 気づけばまた泣いていた。ぼろぼろと涙を溢す俺に、先生は慌てふためいた。え、え、と動揺するその姿がおかしくて、泣きながら笑った。感情が交通渋滞を起こして、頬の上はぐちゃぐちゃだった。
「これはただの嬉し泣きなんで、ほっといてください」
 泣き濡れた声でつっけんどんにそう返したのに、五条先生は可愛くてたまらないというように、口元の緩みきった笑顔を浮かべていた。それから先生は俺が泣き止むまでずっと隣に座って、俺の頭を撫で続けた。それがあまりにも心地よくて、幸せで、いつのまにかそのまま眠ってしまった。目が醒めたときには、窓の外は薄らと明るくなっていた。涙の乾いた頬を擦って、身を起こした。
 隣には、先生が同じように身を丸めて眠っていた。着ている服も、テーブルの上に残されたマグカップも、何もかもが昨日のままだった。きっとあのまま寝落ちたのだろう。掛けたままだったサングラスをそっと外して、テーブルに置いた。
「好きです、先生」
 昨夜の記憶を辿りながら、もう一度そう口にした。氷のような月が浮かぶ夜に、二人っきりの散歩。まるで全てが夢だったみたいな、遠い過去のような気がした。あのとき溢れてしまった想いの在処を確かめる。好き。好きです、昔から。ずっと好きでした。
「僕も泣き虫な恵が大好きだよ」
 伸びてきた手にさらわれて、またソファの上に引き戻された。温かい腕に身を委ねて、脈打つ胸元に頬を寄せる。
 いつのまにか起きていたらしい先生が、幸せそうに笑っていた。

(了)