心のいちばん柔らかなところの話 (R18) - 2/5

2.
 津美紀が呪われた。
 補助監督からの連絡を受けて、それからどうやって病室まで駆けつけたのかは覚えていない。気づけば俺はいやに明るい人工灯の中で、たくさんの機械に繋がれ、ぴくりとも動かなくなった姉の身体を見下ろしていた。
 正体不明、出自不明。全国に同じような被呪者がいて、解呪方法もわからない。広範囲かつ被害者も多いため、呪霊の仕業ではなく、どこかの反社会的な組織による呪術テロの可能性も否定できない。途中で任務を切り上げて駆けつけた五条さんがいつになく慎重そうに選んだその言葉は、俺の周りでばらばらと砕けて散っていった。
 津美紀にはこんなろくでもない世界とは無縁の、凡庸で幸せな人生を送ってほしいと願っていた。その姉がいつかこんなふうに巻き込まれてしまうかもしれないことを、決して覚悟していなかったわけじゃない。ただ今まで何事もなく平穏に生きてこられたのだから、どうしてか、これから先もずっと同じように日々は続くのだと信じ込んでいた。
 高専所属の特級呪術師という立場もあってか、五条さんには先に事の詳細が行っていた。今できることは生命維持の措置のみで、反転術式も汎用的な解呪の術式も掛からない。同様の被害の報告が何年か前から全国的に上がってきており、件数は年々増えている。非呪術師であること以外に、被呪者に共通点はない。今に至るまで、目を覚ました者はいない。
 五条さんから現状について一通りの説明を受けても、取り乱すことはしなかった。ただどうにもひどく頭がくらくらして、自分の身体が自分のものではなくなったような感じがした。どこかで少し座って休もうと思ったのに、動かない頭では、どこに行けばいいかもわからなかった。とてもひとりでは帰れないと思った。
「恵」
「すみません、五条さん。家まで送ってください」
 五条さんの目はいつも通り包帯で覆われていて、その表情は読めなかった。腫れ物を扱うみたいに、俺に近づきあぐねているようだった。
「……私情です」
「いいよ。今日だけね」
 本当はすぐにまた任務に戻るはずだったであろう五条さんがどこかに電話を掛けて再調整の依頼をするのを、俺は待合室の椅子にうずくまって、他人事のように聞いていた。
 『家まで送ってください』。それは五条さんに言った、初めてのわがままかもしれなかった。いつも忙しそうにしている五条さんの負担になってはいけない、と言い出したのは津美紀だったけれど、俺もこの人が提示してくるもの以上に、こちらから踏み込もうとしたことはなかった。
 五条さんの車に乗せてもらって、病院を後にした。いつもヘラヘラと人の神経を逆撫ですることばかりを言う五条さんも、このときばかりは無言だった。重苦しい車内には、知らない道路の事故と渋滞の情報を淡々と読み上げるハイウェイラジオの、無機質な女性の声だけが流れていた。
「何か食べてから解散にしようか」
「俺は要りません」
 時刻はとうに夕方を回っていた。昼を食べたかも覚えていないけれど、いま何かを食べる気持ちにはなれなかった。
 車は高速を降りて、下道に戻った。五条さんはわざわざ近所のコインパーキングの空きを探して、その狭い区画に車を停めた。玄関先まで俺を送り届けるつもりなのだろうか。別にそんなことをしなくても、普段の任務同伴の帰りみたいに、家の前で下ろしてくれたら良かったのに。
「なんでついてくるんですか」
「心配だから泊まっていくよ」
 仕方なさそうに呟いたその様子に、五条さんがどうして俺にそこまでするのかわからなかった。同情だろうか。慰められたって、それで津美紀が帰ってくるわけじゃない。だったら解決策を探すことに時間を充ててくれよ。そう噛み付くだけの元気もなかった。真っ暗に静まり返った家の電気をつけて、もう誰もいなくなってしまった空間にただいまと呟いた。おかえりという声は後ろから降ってきた。

「風呂沸かしたから、先に入りな」
 お手伝いさんのたくさん住まうあの五条家の屋敷で、とても五条さんが自分で湯船の準備をしていたとは思えない。五条さんにうちの風呂の準備ができたと告げられたとき、この人はそんなこともできたんだ、と思うのと同時に、いかにこの人が俺と津美紀の日常に食い込んでいたのかということに思い至った。出会ってからそれなりの月日が経っていたから、頻度はそう高くなかったけれど、五条さんがうちに泊まることもそれなりにはあった。五条さんボックス、と名付けられた五条さんの日用品や寝巻きを入れておくための小さなカラーボックスが、うちのせまい部屋の一区画に置かれるようになったのも、思えばずいぶんと昔の話だ。俺が意識していなかっただけで、うちの古いバランス釜での風呂の入れ方も、夜に俺と津美紀が敷く布団の位置も、いつのまにか増えた三組めの布団を仕舞う場所も、予備の食器を片付ける棚の位置も、五条さんはとっくに全部知っていたのだ。
 促されるままに風呂に入ってから、台所の流しに残っていた二人分の朝食の食器を洗って、畳の上に布団を二組敷いた。押し入れの中に取り残された津美紀の分の寝具を見ていたくなくて、さっさと扉を閉めてしまった。寝支度をするあいだも、五条さんとは特段会話は生まれなかった。呪術に関すること以外で、話すことなんてない。日常生活では、いつも津美紀がにこにこと取り留めもない話題を振っては、俺と五条さんを会話に巻き込んでいた。その緩衝地帯がいなくなったのだから、この沈黙は当然の帰結だった。
「呪術師、続ける?」
 ふと五条さんがそう言った。
「ぜんぶ津美紀のためだったでしょ」
 俺は姉との生活のためだけに、呪術師になる道を選んだ。それを津美紀本人は知らなかったが、ずっと俺の水先案内人を請け負い続けた五条さんは当然知っていた。目的がなくなったんだから、もう頑張ろうとは思えないんじゃないの。そんな意味が込められているような気がして、腹立たしかった。それじゃあまるで、津美紀が元通りになる見込みがないみたいだ。
 このまま呪術師を続けるのか。今までさんざん援助を受けて、高専入学を翌年に控えたこの状況で、そうする以外の選択肢は俺には与えられていなかった。それを誰よりもわかっていながら、五条さんはわざと俺にそう訊いたのだ。
「今さら辞められるはずがないだろ」
「まあね」
 照明からぶら下がる紐を引っ張って、部屋の明かりを落とした。いつもだったら聞こえてくるはずの姉貴の優しい声の代わりに、俺がおやすみなさいと言った。おやすみ、と隣から五条さんの声が返ってきた。

 暗がりに寝転がったものの、いつまでたっても寝付けそうになかった。
 目を閉じるたびに浮かぶのは、昼間に見た、あの生気の感じられない真っ白な病室の光景だった。どうして俺がこの部屋に寝転がっていて、津美紀はあの病室で機械に繋がれたままなのか。俺がどこでどう振る舞っていれば、こんな結末にならずに済んだだろうか。そんな思いが何度も心のうちを交錯した。その度に寝返りを打っては目を閉じた。瞼の裏にはあの病室が浮かんだ。また目を開けて考える。その繰り返しだった。
「眠れないでしょ、恵」
 五条さんの声がした。眠気がどんなものだったかも思い出せないほどに目は冴えて、頭の中ではずっといくつもの光景が巡り続けていた。眠れない。けれど、眠れないから何だ。俺が眠れようが眠れなかろうが、津美紀は戻ってこない。今さら慰めや同情はいらない。ずっと心の支えにして頑張ってきた、その動力源だった人を失った。その事実を五条さんから改めて言葉という形で蒸し返され、突きつけられたくはなかった。今はただ放っておいてほしいと思った。
「寝たふりでいいよ。そのまま聞いてて」
 その先に続くであろう言葉を、俺は無視してしまおうとした。耳を塞ぐことまではしなかったけれど、何か別のことを考えていようと思った。慰めなんていらない。あれは五条さんすら祓えない呪いだ。五条さんにもできないなら、俺にできることは何もない。自分は最強だと言っていたくせに、五条さんは解呪の手立てはないとまで言い切った。本当は何かを知っていて、でもそれを隠しているんじゃないだろうか。本当は、五条さんなら、何かやれることがあるんじゃないか。八つ当たりに近い気持ちを押し殺して、今朝までの、津美紀がいた日々を思い出そうとした。いつか津美紀がいないことを当たり前だと思う日々が来るのが恐ろしかった。
「僕の、一番の親友をね、いつか僕が殺さなくちゃいけないの」
 俺が予想だにしなかった言葉は、そっと夜の帳の編み目に溶け込んでいった。唐突に振られた脈絡のない話題の行く先を見透かすかのように、不思議と、心臓が嫌な鼓動を打った。俺の無反応を気にも止めず、五条さんはその先の言葉を続けた。
「高専時代の同期だったの。僕も青かったからさ、二人でいればどんなことだって成し遂げられるって、あの時は本気で信じていた。でも、そいつは三年のときに、僕たち呪術師を取り巻く仕組みそのものが嫌になってしまって、たくさんの人を殺して呪詛師に堕ちた。ずっと苦しんでいたんだって。知らなかったんだ。一番隣にいたはずだったのに、僕はそれに気づけなかった」
「……何かあったら話せって、俺には一人で堕ちるなって言いたいんですか」
 まるで告解のようだと思った。振り向いた視線の先、薄灯りの中、五条さんはぼんやりとどこでもない、天井の向こうを見上げていた。
「ううん。もし恵が呪詛師になったとしたら、それは恵が最善だと、そうするしかないと考えて選んだ道だろうから、僕はきっと何も言わないよ。お前が僕の手を取ると決めた時から今に至るまでずっと、僕が何か口を出したことなんてなかっただろ」
 じゃあどうして、と思った。五条さんは何のために今ここで、この話を持ち出したのだろう。
「そいつが喧嘩別れみたいに僕の前から去っていったときにさ、そうやって苦しむ誰かの思いを、僕がすべて肩代わりすれば済む世界になればいいなって思ったんだ。だって現代最強なんだよ、僕。もちろんできないことも少なからずあるけれど、それでも、僕ができればいいなと願ったことは、なんだって叶えられると思っていたんだ」
 その声色に、思わずぎゅうと胸のあたりが苦しくなった。話の着地点が見えて始めていた。それは違う、アンタは悪くない。そう叫びそうになった。けれどもそれを言葉にすることができなかった。
「今回もまた、何もしてあげられなかった。誰かを救えないってのは嫌だね、恵」
 さっきまでの俺と同じだ。この人はきっと、慰めなんて求めていない。とうの昔に枯らしてしまった涙腺からは、互いにもう何も溢れてはこない。
「僕の時間は、あのときから止まったままだ」
 どこかで、この人は何の苦労も不自由もなく、すべてを手に入れてきたのだと思っていた。自分とは違って、初めから恵まれていて、何だって持っている人。でも本当は、ともにかけがえのない青春を過ごした、たったひとりの親友すら助けることができなかった。一人ではどうにもならないことがあると知って、己の無力に打ちひしがれた。それが五条さんの原点だ。自分一人の力では成し遂げられないことがあると知ったからこそ、この人は、自分とともに肩を並べられる仲間を育てようとしたんだ。
「ねえ恵。眠れなくても、目を閉じて、少しでも体を休めたほうがいいよ。どうしても苦しければ僕のことを起こして。それくらい許容し合える仲でしょ、僕たち」
 どれほど足掻いて追いかけたって、心のどこかでは、決してこの人に届くことはないと思っていた。その五条さんがいま、限りなく俺と同じところにいた。その事実は、津美紀を失ったことへの慰めにはならなかった。けれどもひとつの光明として、その後もずっと今に至るまで、俺の傍でぼんやりとした灯りを放ち続けた。

 結局、あの日は一睡もしないまま朝を迎えた。隣で起きている気配があったから、きっと五条さんも眠らなかった。
「学校、休むでしょ」
「はい」
「じゃあこっちで連絡を入れておくね」
「いらないです、そんなの」
「駄目だよちゃんとしないと。恵が無断欠席するたびに、毎回僕のところに連絡が来るんだもん」
 そう言って眠たそうに笑った五条さんからは、あの明け方のしめやかな感傷はすっかり抜け切っていた。俺の悪事なんて全てお見通しだと言わんばかりに小突かれて、ムッとした気持ちで脛を蹴り返した。当たり前のように無限という障壁に阻まれて、その蹴りは届かなかった。五条さんは手元の端末で俺の通う中学への連絡を済ませた。それから、朝ごはんにしようと言った。