心のいちばん柔らかなところの話 (R18) - 3/5

3.

 津美紀が倒れてから半年が過ぎた。季節だけは飛ぶように移り変わっていったのに、未だにあの呪いを解くための手がかりは見つかっていない。調査は依然として細々と続けられていたが、聞くところによれば目ぼしい成果は上がっていないらしい。俺自身もできるかぎり協力をし、労力を割いた。一人で周辺の聞き込み調査を行ったことも何度もあった。けれども何も得られなかった。今の俺の等級の関係上、五条さん同伴でないとまだ呪術師としての活動は許されておらず、自分だけで行動できることは限られていた。五条さんに頭を下げれば、五条さんの監督下でもう少し活動の範囲を広げられるかもしれないという期待はあった。ただその私情に近いお願い事を、最近いつにも増して忙しそうに飛び回っている五条さんに切り出すのはどうにも憚られた。
「なんで五条家と禪院家が仲悪いか知ってる?」
 五条家の離れでの稽古の合間に、五条さんはふとそんなことを言った。
 そもそも、仲が悪かったこと自体が初耳だった。式神を扱うにしろ単に体術の稽古をつけてもらうにしろ、道場の併設された五条家本邸の離れは最適で、津美紀の一件以来、前にも増して頻繁に五条家に出入りするようになっていた。けれども、俺はこの家の人たちから一度だってそんな冷遇を受けた覚えはなかった。いつ訪れても実孫のように良くしてもらっていたから、五条さんに連れられて同行した地方任務の地では、わざわざ俺が五条家宛ての土産を選んで買って帰っていたくらいだ。
「江戸時代? 慶長? 忘れたけど、そん時の当主同士がね、御前試合で本気で殺り合って両方死んだの。五条家当主は僕と同じ六眼持ちの無下限呪術使い」
 サングラスの下で、五条さんの六眼が怪しげな光を湛えていた。五条さんがこの表情をするのは、ろくでもないことを考えついているときだ。自然と背筋が伸びた。何を問われても良いようにと身構える。
「ちなみに相手の術式は恵と同じ『十種影法術』。僕の言いたいこと、分かる?」
 何百年も前に、五条さんと同じ眼と術式を持つ呪術師が、俺と同じ術式を持つ呪術師と御前試合で相討ちをして、二人とも死んだ。それ以来、五条家と禪院家は仲が悪い。それはそうだろう。互いに一番の戦力であっただろう当主を殺されているんだ。間違ってもそれで両家の友好が深まるはずがない。
 顔も名前も知らないご先祖だという人たちを、それぞれ和服を着た俺と五条さんに置き換えて考えようとした。当然ながら、五条さんと刺し違えるくらいの実力をつけた自分の姿は、思い描くことができなかった。この人にそこそこの痛手を負わせることすら、そう簡単にはいかないだろう。俺でなくとも、七海さんや直毘人さんだって無理に違いない。
 第一、無限という途方もない概念を発散させたり収縮させたりする五条さんの術式とそれを用いた結界術に、真っ向から対抗できる術を持つ呪術師なんてまずいない。それを、よりにもよって十種影法術師が殺しただって?
 現実味のない昔話を前にして、集中を欠いた俺の頭の中ではすでに、五条さんのあのひとつの銀河のような領域の中を、玉犬や無数の脱兎たちがなすすべもなくふわふわと漂う珍妙な光景が出来上がりつつあった。
「恵、まじめに考えて。口元が笑ってる」
「だって…」
「僕が思うにね、十種影法術師のほうが不意をついて、共倒れ覚悟で僕のご先祖を調伏の儀に巻き込んだんだよ。だって僕と同じ術式と六眼を持っていたならば、たとえ禪院家随一の相伝持ちが相手だって、殺意を感じた瞬間にいくらでも先手を打てるだろう」
 確かにそれならばある程度の筋は通る。異戒神将を含めて、俺の術式にはいくつかまだ調伏の手がかりすら掴めていない式神があった。使い手ですら御せないそれをぶつけられた相手が、いくら稀代の才能に恵まれていたとしても、何の事前情報もなしに攻略し生還できるとは思えなかった。
「でもそれにしたって不自然だよね。例えば僕と恵が港区赤坂の迎賓館に呼ばれてさ、今の総理大臣に『やや、ここはひとつ、今をときめく呪術師同士の模擬試合で場を盛り上げてくだされ』なんて言われたってさ、魔虚羅なんか出さないでしょ」
 この件について、きっと五条さんはひと通り考え尽くしたあとなのだろう。何と言われても確かに、と思うばかりで、特段五条さんの興味をくすぐるような、新規性ある解釈は思い浮かばなかった。
「それで結局、この話から五条さんは何を言おうとしていたんですか」
「何って、恵ならこの話を聞いてどう考えるかなって思っただけだよ。まあ大方予想通りだったけどね。それじゃあ、僕は任務関連でひとつ連絡を済ませてくるから。僕が戻ってき次第、稽古再開」
 淡々と紡ぎ出された何色も乗らない言葉からは、五条さんが本当にただ俺とこの話題で雑談がしたかっただけなのか、あるいは何か別の意図があって話題を振ったのかはわからなかった。年度始めの津美紀の一件、それから乙骨先輩の保護の件と、ずっと何かにつけて忙しそうにしていた五条さんだったけれど、今日は珍しく余裕があるようだった。道場の外に向かおうとしていた背中を引き止めて、思い切って用件を切り出した。
「津美紀の件のことで、相談があります」
「相談? お願いじゃなくて?」
 振り返った五条さんは片眉を吊り上げて、意地の悪い顔をしていた。
「まあ、お願い、かもしれないですけど……」
 まさか本題に入る前に足を掬われるとは夢にも思っておらず、予想外の切り返しに言葉がつかえた。津美紀の、ひいては全国的に発生している被呪被害の件について、どうにかもう少しできることはないかが聞きたかった。そしてはそれは俺ひとりの力ではどうにもならないことだから、必然的に五条さんの助力を乞うことにもなる。
「前にも言ったと思うけど」
 たっぷりと与えられた弁論の猶予を使い切っても何ひとつ返答できなかった俺に、五条さんはひと言ひと言を選び取るようにそう前置きした。その仕草はどこか芝居掛かってもいた。完全にお説教モードだった。外したな、と思った。
「呪術師同士の頼みごとはね、恵。『一緒に命を懸けてください』が前提なの。『僕も命を懸けるので、あなたも命を懸けてください』。その覚悟もできていない曖昧な相談なんて、僕は乗ってやらない」
 それから今まさに開けようとしていた襖から手を離して、五条さんは俺の隣に戻ってきた。長身がどかりと胡座をかいたので、仕方なく俺も腰を下ろした。
「お前がどうしたいかは、自分で決めるんだよ。お前が自分で何に命を懸けて、僕に何に命を懸けてほしいかを決めて、頭を下げる。僕がやるのは、それを受け入れるか受け入れないかの判断だけだ」
 俺の命なら初めから懸かっている。それこそ、五条さんの元で呪術師になることを決めたときからずっとだ。
「なあに、言いたいことがあるなら言ってみな」
「……いくら津美紀のためだって、アンタに命を懸けてくれって頼むことはできません」
「ウケるね。恵ってば、僕と津美紀のことをちゃんと天秤に掛けられたんだ」
 ずい、と五条さんは俺の顔を覗き込んだ。冷たい青色を放つ瞳は、隠しようのない残忍さに煌めいていた。まるで獲物を今に丸呑みしようとする蛇のようだと思った。
「それで、どうしてその天秤が僕のほうに傾いちゃうわけ?」
「どうして、も何もないでしょう。アンタの命より重いものなんてありませんから」
 だって、それはどうしたって釣り合わない。この件について五条さんに動いてもらうためなら、もちろん俺はいくらでも頭を下げられる。もし土下座でも足りなければ、何だって言いなりになるだけの覚悟がある。けれどもどれほど俺にとっては大切な人でも、津美紀はなんの術式も持たない一介の非術師だ。それと相対する天秤の皿に、五条さんの命を乗せることはできない。この人を失うことがどれほど世界の損失となるかを、俺はいやと言うほど聞かされている。通すべき我儘とそうでないものの分別がつけられないほど、俺は不見識なわけじゃない。
「アンタにもし万が一のことがあったら、何もかもが終わる。それくらい、俺だってちゃんとわかってます」
「ふうん」
 意地悪そうに吊り上がっていた口元が、いっそう美しく、酷薄に歪んだ。ぞくり、と背筋が冷えた。気づかぬうちに、俺はだいぶ長いことぬるま湯に浸っていたらしかった。五条さんを怖いと思うのは久しぶりだった。
「じゃあいいよ、トロッコ問題だ」
 五条さんは唐突にそう言って、すらりと細長い指先を二本、天に向けた。
「ここに二つの軌条があるとしよう。上にそれぞれ津美紀と僕がいて、前から暴走した列車がやってくる。お前の手元には分岐器があって、それを切り換えて、列車をどちらかの線路に引き込むことができる」
 その論題はどこかで聞いた覚えがあった。暴走する列車の先には、五人がいる線路と、一人がいる線路。最大幸福のためには一人の命を犠牲にすることが許されるか。あるいは、誰かの命は他の目的のために利用するべきではないか。有名な、功利主義と義務論の話だ。
「僕のいるほうに列車を引き込めば、津美紀は助かる。そのまま見過ごせば津美紀は死ぬ。さあ、恵はどうする?」
 その状況下なら、俺はきっと分岐器を切り換えるだろうと思った。だって五条さんは自分の身を守ることができる。無下限という無敵に近い術式と、それを限りなく絶対的無敵にまで押し上げる六眼も、反転術式も持っている。前提からして成り立たない。もし仮に全ての『あり得ない』を取り払ってその状況をまじめに考えるのだとしても、列車が五条さんのほうに行くことさえ告げておけば、五条さんは難なく対応するだろう。すべての事が済んだら恨み言のひとつやふたつ、食らうかもしれない。でもそれだけだ。
「もちろん切り換えますよ。でも、それはそうすることが一番合理的で、アンタがそんなんじゃ死なないって信頼しての判断です」
「そういうんじゃなくってさ」
 俺の答えなど予測していたように、五条さんが首を振る。
「呪術師としての強さも術式の有無も関係ないよ。どちらか一人しか選べないとしたら、恵はどうするのって話だ。置き石も脱線もない。自分を犠牲にして二人とも助ける、なんていうのもできない。恵が選ばなかった方は絶対に死ぬ。それこそ目の前で、一生耳奥に残るほどの断末魔をあげて死ぬだろう」
 五条さんは決して優しい人ではない。優しく振る舞っているように見せられるだけの人生経験を積んできたのであって、性根では意地悪な人だ。今だって、俺の全身から血の気が引いていくのを、目を細めて笑っている。
「だんまりは駄目だよ。どちらかを選んで」
「……ひとつ、いいですか。その線路に乗せられている津美紀は、もう呪いからの回復の目処も立たない、寝たきりの津美紀ですか」
 心の中で、分岐器からそっと手を外す自分を想像した。もしそうだとしたら、いや、そうでなくとも、俺は一人の呪術師として、五条さんを取らないといけない。せめてもの救いは、初めから列車が津美紀に向かっていることだ。それなら、俺は今に暴れそうな自分の身を抑えているだけでいい。自分の手で切り換えなければならないなら余計な迷いも生じるだろうが、何もしないことを選ぶだけなら、きっと一番の最悪は避けられる。
「馬鹿だね、恵。何を考えたらそんなふうになるの」
 静かな声が言った。五条さんは興醒めだというふうに、精巧な作り物のようだった顔からすべての表情を消してしまった。感情の読めない瞳は俺ではない、どこか遠くを見つめていた。
「そのときの津美紀がどんな状態だろうと、ちゃんと、僕のほうに引き込むんだよ。さっきまでの御前試合の解釈の話とは違うんだから、悩むような問題じゃないだろ。そんなうじうじ迷って、間に合わなかったらどうするの」
「でも、」
「どっちもは選べない。どっちを選んだって、後悔は残る。僕がいなくなるくらい何だっての」
 僕の出番はもう終わっているの、と五条さんは言う。とうの昔に舞台から降りていて、でもまだやらなければならないことがあるから、ここにいる。それは道を違えてしまった親友にとどめを刺すことであって、またそれは五条さんと肩を並べられるような後進を育てることでもあった。
「その手がまだ届く限り、お前にとって一番大切な人を幸せにしてやりな。それができるだけの強さがあることを見込んで、僕はお前を側に置いているんだから」
 もし逆の立場で俺がそんなふうに言ったら、五条さんは烈火のごとく怒るに違いなかった。初めから諦めて自分を犠牲にしようとするな、勘定に含めろ。そうやって俺には怒っておいて、でももし同じような選択を迫られたら、五条さんならきっと最大幸福のために動くのだろう。物ごとをちゃんと割り切れる人だ。どんな冷酷な判断を下すことにも躊躇わない。
「……じゃあ、俺もひとつ聞いてもいいですか。線路の先にいるのは俺と、アンタの親友だって人です」
「何、恵の考えたトロッコ問題? 僕は恵を助けるよ。そんなの考えるまでもないでしょ」
 今度こそ用事を済ませに行こうと、五条さんは立ち上がった。もしかしたら察しのいい五条さんは、そうしてやり返される前に逃げようとしたのかもしれなかった。
「ちゃんと最後まで聞いてください。ふたつの線路の先にいるのは俺と、アンタの親友だって人です。暴走した列車が前方から走ってきます」
 ただ二人の人間を置いただけでは、五条さんは自分の元を去っていった親友ではなく、まだ未来あるもう一方の誰かを取るだろうことは明らかだった。五条さんの手を取ることを選ばなかった日から、その親友は五条さんが守るべき対象から外れてしまった。それをわかっていながら、わざわざ問いにする意味はない。
「アンタの親友も俺も、共に深傷を負ってもう手遅れで、放っておいてもあと数時間以内には死にます」
 は、と小さな声が漏れた。ぎょっと目を剥いて、五条さんが立ち止まった。
「アンタの手元には線路の分岐器があります。術式は使えません。反転術式もなしです。近くこともできません。殺せるのは片方だけだ」
「……やめてよ、恵」
「とどめを刺してやるのがせめてもの慈悲だとしたら、アンタは」
「やめてってば!」
 発せられた声が霧散したあと、あたりに残されたのは、しんとした静寂だった。
 だだっ広い道場の真ん中で、五条さんは血の気の引いた顔で立ち尽くしていた。
「なんでそんなこと聞くの」
「すみません。でも、五条さんだったらどうするのかなと思ったんです」
 五条さんは言葉に詰まったまま、心の中で何かを探すように目を伏せた。瞬時に判断を下せなかった自分に対する動揺を、どうにか落ち着かせようとしているようにも見えた。
「気分悪い。帰って」
 命じられるがままに、俺は荷物をまとめて道場を出た。踏んではいけないところに触れてしまったようだったから、あの場に残っていても、今日はもう相手にしてもらえないだろうと思った。離れから母屋に戻って、五条家の人たちに暇の挨拶をした。晩ご飯くらい食べていけばいいのに、と声をかけてもらったのを丁重に断って、広い屋敷を後にした。

 翌日は、朝から五条さんの任務に同行する予定が入っていた。
 集合時刻の少し前にアパートの下におりると、どんよりと陰気そうな顔をした五条さんが立っていた。この人が待ち合わせに遅刻をしないのは珍しかった。俺が来たことに気づいていないはずがないだろうに、五条さんは何もないアスファルトの半畳先を見つめたまま、ぼんやりと物思いに耽っていた。
「おはようございます。待たせてすみません」
 ようやく顔を上げた五条さんの目元は、薄らと黒ずんでいるように見えた。それが光の加減でも目の錯覚でもなく、本当に隈であることがわかる距離まで近づいて、初めて五条さんが口を開いた。
「昨日はごめん。急に追い返したりして、大人げなかった」
「アンタ、まさか寝てないんですか」
「明け方にちょっとだけ寝た。でも大丈夫、任務に支障は出さないから」
 近くに停めてあった五条さんの車に乗り込んで、そう遠くはない任務地へと向かった。宣言された通り、五条さんとの任務は卒なく終わった。歩兵としてたくさんの低級呪霊の跋除を任され泥だらけになった俺に、一歩もその場を動くことなく指先一つで親玉を仕留め終えた五条さんは、涼しげな顔で本日の総評を寄越した。式神の切り替えの判断が遅い。身体の使い方は前よりだいぶ良くなっている。低級だと油断して闇雲に突っ込むのではなく、相手の状況を良く見て判断しろ。
「思ったより早めに終わったね。うちに寄って、昨日の稽古の続きをする?」
「五条さんさえ良ければ、お願いします」
 それから何事もなかったかのように、俺と五条さんは屋敷の離れに戻って昨日の稽古の続きを再開した。五条さんは俺の投げた論題のことについては、一度も触れなかった。あんな隈をこさえるまでずっと考えた末の結論が気になったけれど、そこにずけずけと切り込めるほど気やすい関係ではなかった。
 結局その日は早朝から任務に出て、夕方遅くまで稽古をつけてもらった。終わるころには全身が鉛のように重かった。最後の組み手で容赦なく突き飛ばされた体はなかなか起こせず、しばらくのあいだ無作法承知で畳の上に転がった。
「恵の分の晩ご飯の用意はあるって。もう泊まっていけば」
「じゃあ、お言葉に甘えます」
 あの薄暗い家に俺の帰りを待つ人がいなくなってから、こうして飛び入りで五条家に泊まらせてもらうことが増えた。だってあそこに帰っても何もない。ろくに家事もできない一人暮らしでは、誰かと共に夕飯にありつけるだけでも有り難かった。
 高専入学までうちに住み込めばいいという誘いを五条さんからだいぶ前にもらっていたが、そろそろ本当に頷いてしまいそうだった。ここから中学のある埼玉の外れまで距離があるのだけが引っかかっていたが、もうじき十二月で、年が明けたら三学期だ。大半が高校受験を目前に控える中学三年生のその時期に、登校を求められることはほぼなくなるだろう。次の終業式とともにここに転がり込むのは、悪くない選択に思えた。
「今日は塩鮭だって。やったね〜」
 二人分の配膳盆を抱えて五条さんが戻ってきた。五条さんは母屋ではなく、道場のあるこの離れで家族とは別で食事を取ることを好んだ。離れ自体が五条さんの生活空間になっていて、泊まらせてもらうときは俺も基本的にここで寝起きをしていた。
 隅に寄せてあった座卓を引っ張り出し、向かい合うように盆を並べた。座布団を敷いて、そこに座って手を合わせた。いただきます、と言って碗に掛けられたラップを外すと、ふわりと温かな匂いが香った。
「そういえばさ、昨日の続きだけど、いい?」
 ふっくらと焼かれた鮭の身を箸で崩しながら、五条さんはふとそんな言葉をこぼした。
「どっちの線路に列車が向かっていようと、僕はきっと、分岐器には手を触れないよ」
 それは有耶無耶になったままだった、あの論題の答えだった。俺と、五条さんの高専時代の親友。ともに瀕死の二人がいる線路と、暴走した列車と、どちらか一人だけを殺すことのできる分岐器。それらがすべて揃った光景にようやく現れた五条さんは、目の前を列車が走り抜けるのを、ただぼんやりと立って眺めていた。
「そうですか、わかりました」
 それが一番五条さんらしい回答だと思ったから、それ以上の深堀はしなかった。やり返して困らせたいと思う反骨的な気持ちは、昨日のうちにどこかへと消えてしまっていた。
「恵の想定では、列車はどっちに向かっていたの」
 やめておけばいいのに、五条さんはそんなことを聞いた。とっさに嘘をつくだけの器用さは、俺に備わっていなかった。
「アンタが切り換えていたら、俺のところ」
「そっか」
 それが五条さんにとってどのような意味の持ったのかは、俺にはわからなかった。ただ少しのあいだ箸を止めて、五条さんは何かを考えていた。とん、と箸を置いた手が、湯呑みへと伸びた。湯気の揺れるそれを静かに啜って、それから、五条さんはぽつりと言った。
「それなら、僕は恵のほうに引き込んでやらないとフェアじゃないな」
「答え、変えますか」
「うん、そうする。昨日、僕を犠牲にすればいいと言ったのは本心だから」
 置かれた湯呑みがことんと音を立てた。サングラス越しに覗く瞳は、昨日とはまた違った色の光を湛えていた。
「恵が僕を殺すなら、僕は恵を殺してあげる」
 いつか俺が五条さんと津美紀のどちらかを選ばなくてはいけない状況に置かれたら、俺は五条さんのほうに列車を引き込むだろう。天秤の皿が軽かったからじゃない。そうするように五条さんが言ったからだ。
 俺がその選択をする限りにおいて、五条さんもまた親友ではなく、俺に向けて線路を切り換えると言った。想像の中で、選択を迫られた五条さんが目いっぱいの力で分岐器を引いた。進路の変わった列車は大きく一度ぐらりと揺れて、死にかけた俺へと加速する。
 鉄の塊がぶつかるまでの最後の間際に、ふと、俺がここでいなくなったら、分岐器を切り換えた五条さんには、いったい誰が列車を引き込んでやるのだろうと思った。恵が僕を殺すなら、僕は恵を殺してあげる。あまりにも等価交換のようにそう言うものだから、それが全く双務的ではないことに、俺はすぐには気づけなかった。