5.
終業式は十二月二十二日に滞りなく終わった。ちょうど俺の誕生日でもあるその日から、俺は五条家の厄介になることになった。午前中に大掃除と式典を済ませ、冬休みを目前に誰もが浮ついた雰囲気を醸し出す校舎を早々に後にして、一度アパートに戻った。それから日用品を収めたスポーツバッグを肩に掛けて、通い慣れた五条家に向かった。
五条家の立派な門を叩くと、出迎えてくれたのは五条さんだった。
「もう高専のほうに詰めているのかと思いました」
「そろそろ出ようかと思っていたところ。会えてよかった」
今日の五条さんはどこか違う雰囲気を纏っていた。ここにいるのに、ここにはいないような。どこか大人びていて、実体のないふわふわとしたとした曖昧さがあった。そのときはまだ何も知らなかったから、都市部での大規模な呪術テロを目前に、五条さんでも緊張なんてするのかと呑気なことを思った。
「ちゃんと帰ってくるから、ここで僕の無事を祈って待っててね」
「アンタが負けるはずありませんよ」
うん、と五条さんが頷いた。
俺が離れで荷物を解く傍らで、五条さんは高専に泊まり込むための荷造りをした。荷物といっても、高専の教員寮にも拠点を置いているらしい五条さんが、ここから持っていくものはあまりない。クリスマスには帰ってくるだろうと言うくらいだから、どのみち三泊程度だ。服と携帯端末といくつかの呪具をひとまとめにして、五条さんは外套を纏い、サングラスを外していつもの包帯を巻き直した。
「恵にひとつ、隠していたことがあるんだ」
離れを去る間際、五条さんはそんなことを言った。俺に打ち明けていることのほうが少ないだろうに、このタイミングでいったい何の話をされるのだろうと思った。それから続いた言葉には、長いことどう言ったものかと考えた末のような、しっかりと用意のされた響きがあった。
「今回の百鬼夜行の首謀者、夏油傑は、僕の高専時代の同期だった」
「それって、アンタの親友の……」
「言わないで行くのはフェアじゃないと思ったの。ごめんね、それだけ。じゃあね、行ってきます」
そう言い残して、五条さんは高専へと去っていった。何の感情も読み取れない五条さんの背中を見送って、俺は告げられたばかりの内容を噛み締めた。いくつもの思い出が頭の中を駆け巡った。津美紀が倒れた日に、五条さんが泊まっていったときのこと。即断できなかったトロッコ問題の答え。いつに増して働き詰めで、不調まできたした誕生日会と、自嘲するように語られた六眼の話。そして今日のあの、どこか現実味のない五条さん。思えばいつだって、そこには親友という人の影が付き纏った。
「それを今さら俺に伝えて、どうしろってんだよ」
きっと意味などない。考えるだけ無駄だと、五条さんなら言うだろう。
たった一人の親友だという人を、五条さんは今から殺しにいく。五条さんなら抜かりなく、自らの手で成し遂げるだろう。五条さんと青春を共にした親友はすでに過去の人で、その後始末をすることが五条悟のやるべきことの半分だからだ。そして残りの半分のうちのひと欠片を、五条さんはこの家に置いていった。それ以上のことは、憶測にしかならない。
それから丸二日が経過して、俺は五条家の敷地内でクリスマスイヴを迎えた。日没よりも少し早い時間に、都内と洛中に大量の呪霊が放たれたのが確認されたことを、五条家の人から教えられた。御三家に高専OBOG、アイヌの呪術連までが総動員ともなると、当然家中からその動向への関心が集まった。話題に上がるのは想定される被害規模と、終結の予測時刻ばかりだ。もちろん五条家当主がいて高専側が負けるとは誰も考えてもいないから、必然的にテロが挫かれたあとの対応やその予想の話が中心となった。
異分子であるはずの俺にも、五条家の人々はすれ違うたびに話しかけ、届いたばかりの戦況を教えてくれた。優しそうで、普通の人たちだ。とても良くしてくれるこの人たちが本当に、いつかもう戦えなくなった五条さんに対して、死を願うのだろうか。俺には、その光景を思い浮かべることはできなかった。
五条家からも派遣された呪術師や補助監督を通じて、戦局はその後も都度伝えられた。「悟様は新宿で呪詛師の一派に足止めを食らっている」。「京都のほうは概ね片付いた」。「正犯は高専敷地内にいる」。「悟様が高専に向かった」。「特級クラスの呪力衝突が筵山方面から複数確認されている」。
不定期に届けられる報告は、事態が終息に向かうにつれて減っていった。
ふと母屋の台所の前を通り掛かると、婆やが夕飯の支度をしながら、おろおろと次の報告を待っているのが見えた。やってきた俺に気がつくと、「恵ちゃん」と不安そうな声で俺の名前を呼んだ。
「大丈夫ですよ。五条さんが負けるはずがありませんから」
当然の事実は慰めにもならなかった。晴れない表情のまま、婆やは仕掛かりの寸銅鍋を火にかけて、静かにそれをかき混ぜた。
「……夏油くんは、坊ちゃんが呪術高専に通っていたときの同級生だったの。休み明けに学校のみんなにって坊ちゃんにお菓子を持たせたら、それは丁寧なお手紙をくれて。とても優しい子だったのよ」
血縁者だからだろうか。伏せられた目は、どこか五条さんに似ていた。
「どうして、こんなことになってしまったんだろう」
呪術テロの首謀者が処刑された旨の連絡が入ったのは、とうに日が暮れた後だった。呪詛師夏油傑は、五条悟の手によって処刑された。吉報に湧いた屋敷の中で、婆やだけがその報せにそっと顔を俯かせていた。
クリスマスまで掛かるだろうと言った五条さんが帰ってきたのは、想定より少し早い、イヴの夜更けすぎだった。夜中にそっと離れの襖が開いて、知らない残穢と血の匂いが香った。
「おかえりなさい、五条さん」
「まだ起きていたの」
いつもと変わりないふうを装っていたが、その表情は何かが欠落したように空虚だった。この人は本当に、やるべきことの半分を終わらせてきたのだと思った。
「ただいま、っ、目が痛いな…」
「いま冷やすものを持ってきます」
「いらない。大丈夫だから、ここにいて」
五条さんは離れの奥に消えた。シャワーの音がしているあいだに、いつもここに泊めてもらうときみたいに、俺の隣に五条さんの布団を敷いた。戻ってきた五条さんはその上に身を投げ出して、ゆっくりと目を閉じた。俺もその隣に寝そべって、何もない天井を見上げた。
「もう何もかも、どうでも良くなっちゃった。おかしいよね、あれだけ気を張っていたのが嘘みたい」
静かな呟きが、夜の淵に溶けていく。
とうの昔に舞台からは降りているんだと、以前五条さんは俺に言った。「でも僕が五条悟である限り、僕は僕の使命を全うしなきゃいけない」。そのうちのひとつが道を違えてしまった親友を殺すことであり、もうひとつが自分と肩を並べられるような、強く聡い後進を育てることだった。今日、そのうちの半分が終わった。青春の後始末をした五条さんには、あともう半分の使命が残っているはずだった。
「……夏油傑が、ずっと五条さんが話していた親友だったって聞いたときに」
「うん」
「五条さんがこれ以上苦しまなくて済む世界になればいいのに、って思いました。前に言ってましたよね、『そうやって苦しむ誰かの思いを、僕がすべて肩代わりすれば済む世界になればいい』って。俺には、そう願えるだけの力はありません。でも、五条さんがもう戦わなくて済む世界に俺が出来たら、どれほどいいだろうって」
「じゃあ、恵が終わらせてよ」
悲痛そうな声が言った。呻くように、縋るように。泣くことさえできなくなった男が畳みかける。
「この眼はね、いつか終わりがくるの。そうしたら僕はいらなくなって、お荷物になる。言ったよね、僕が生きているうちは、次の六眼は生まれてこない。戦えなくなった五条悟は、いるだけで邪魔なの」
五条さんの指先が、痛いほど俺の肩に食い込んだ。気づけば五条さんは俺に覆い被さっていた。頭上では吸い込まれてしまいそうな虹彩が、濡れた色を放って俺を見下ろしている。
「いつか僕が僕でなくなったら、恵が僕を殺して。全部終わらせて。恵にならできるでしょ。僕がこれ以上戦わなくて済む世界に、恵がしてよ」
絞り出すように紡がれた言葉は、大気じゅうの水分を吸ったあとみたいに、ずしりと湿って重たかった。まるで夕立の前の雲みたいだ。けれどもこの人はもう泣けない。泣くことも、誰かを頼ることも忘れてしまった。孤独な人。本当は誰よりも強くて、こんなにも脆いのに。
「俺が頷いたら、五条さんはどうするんですか」
見下ろす頬に、そっと手を伸ばした。五条さんがゆっくりと目を閉じて、足りなくなった酸素を求めるように唇を重ねた。合わさった唇から、苦しげな呼吸が漏れた。熱くて、切なかった。
唇はそう時間をおかずに離れていった。俺を見下ろす五条さんの顔には影が差して、その中でひときわ美しい二対の藍玉色が、俺の口元をじっと見つめていた。
「ねえ、もっとしてもいい」
「いいですよ」
鼻先がほとんど触れ合うくらいの距離で、五条さんが囁いた。
「僕のを舐めてって言ったら、舐められる?」
「それは、……」
「じゃあ舐めさせてって言ったら」
「五条さんが、俺に同じことをするのを求めないなら」
五条さんは俺に覆い被さって、再びキスをした。触れるだけだった唇のあいだから、舌先が触れて絡まった。冷たい手が服の下に滑り込んで、俺の腹を弄った。順を追ってひとつずつ移されるそれは、まるで俺にどこまで受け入れるつもりがあるのかを確かめているみたいだった。
「抱かせてって言ったら」
「それは、やってみないとわかりません。いけるかもしれないし、駄目かもしれない」
「……殺してって言ったら、殺してくれるの」
「殺しますよ。だって、俺にそうして欲しいんでしょう」
「おかしいよ恵。どうかしてる」
今に泣き出しそうな声で五条さんが言った。どうかしているのは五条さんのほうだ。御前試合の因縁を持ち出したときも、六眼の話をしたときも。五条さんは、本当はずっとそうやって願っていたくせに。
下腹部の全ての布を取り払って、五条さんはなんの躊躇いもなく俺の性器を口に含んだ。ここに来て僅かに湧き上がった羞恥と動揺は、熱く柔らかな粘膜に包まれた途端に綿菓子のように溶けていった。
「あ、気持ちいい、五条さん、」
言うまでもなく、誰かにこんなことをされるのは初めてだった。紅に色づいた薄い唇が何度も皮の上を這う光景に、背徳感からめまいがした。自然と声が出て、堪らなくなって、くしゃりと生糸のような白髪を掴んだ。五条さんは俺が反応を見せたところを、巧みに舌先でくすぐっては焦らした。限界はすぐにやってきた。
「いきそう」
告げると、ざらついた舌先がぬるりと先端を舐め上げた。
「五条さん、はなして」
「このまま出していいよ」
「いやです。できない」
精通はすでにだいぶ前に、自分の手で済ませていた。だからこそ、あんなものを人の口の中に出すことは絶対に無理だと思った。
五条さんが俺の性器から口を離したのは、このまま出していいと言ったその一度きりだった。二度はもう言わないと、五条さんは容赦無く口淫を続けた。重たくまとわりつくような熱が溜まって、陰嚢をじくじくと蝕んだ。
「やだ、五条さん、」
どうにか射精を耐えようとする気持ちは、次第に生理的欲求には抗えなくなっていた。いやだ、いやだ。はなして。蕩けそうな舌先から発せられたそれは、泣きごとのような甘さを帯びていく。
最後にひときわ強く吸い上げられて、続けざまに意地の悪い舌先が、興奮に腫れきった尿道口を抉った。とっさに上げてしまった恥ずかしい声は、情けないほどうわずっていた。内腿がびくりと引き攣ったのを知って、五条さんの力強い手が先を促すように根本を扱いた。ぎゅっと足指を握ったときには遅かった。何度も執拗に弄ばれた先端からはなすすべもなく、どろりと粗相が漏れていった。
「ぁ、でちゃった、はなして、ごじょうさん、」
「ん、……」
ひとつの高みまで導き終えた口内は、それでも動きを止めなかった。柔らかく這わせるだけに変わった舌が、射精を終えた先端を丁寧に啜った。過ぎた快感にもがいても、俺がもう何も吐き出せなくなるまで、五条さんは決して口を離そうとはしなかった。
「仕方なく飲んじゃったけど、あんまりおいしくないね。なんだろな、どうにも形容しがたい味って感じ」
ようやく解放されたときには、俺の性器はすっかりふやけて、しぼみきっていた。
「さいてい」
五条さんは寄越された苦情を笑って、口内に残った縮れ毛を取り払った。
「ねえ恵、さわってよ」
大きな手に導かれるがままに、まだ少しも乱れていない五条さんの部屋着を、ひとつずつ取り払っていった。スウェットパンツを下げて、前をくつろげた。かろうじて性器を押し留めていたらしい下着の一部は、すでに小さく濡れていた。
重なりあった薄い布のあわいから熱の塊を引き出して、その太く張り詰めた根本を擦った。途中で、五条さんが俺のを舐めたのと同じところを、濡れた指先で何度も刺激した。その度に五条さんはひくりと息を詰めて、ぎゅうと俺の肩にしがみついた。気持ちいい、と掠れ声で囁かれると、ぞくりと背を這い上がるものがあった。
痺れを切らした五条さんの大きく無骨な手が、俺の手ごと性器を握った。俺が込めたよりもずっと強い力で扱きながら、五条さんはもう一方の手で俺を抱き寄せた。ぬるついた先端が俺の腹に触れた。
「何かして欲しいこと、ありますか」
「おなか貸して。ぁ、っ、きもちいい、」
いっそう強く握りしめられた手のひらの下で、性器はどくどくと脈を打っていた。開ききった穴からだらしなくこぼし続ける先走りで俺の下腹部を擦って、くちゅくちゅと鳴った濡れた音に、五条さんは恥ずかしそうに目を伏せた。それでも自慰はやめなかった。ここまで来たらもう止まれるはずがないと、俺も同性として知らないわけがなかった。
いく、と耳元で小さな声を吐いて、五条さんは何度かに分けて俺の腹の上にどろどろの液体をぶちまけた。それから何か柔らかく包み込むものを求めるかのように、真っ赤に充血した先端を俺に押しつけた。
射精を終えた五条さんは、今まで一度だって見たことがないほど息を乱していた。吐息も、触れる頬も、何もかもが熱かった。
俺の肩に身を預けたまま、五条さんはしばらく荒い呼吸を繰り返した。そうして上下していた肩は、やがてゆっくりと力を失った。
「ごめん、汚しちゃった…」
呆然として座り込んだ五条さんを置いて、俺は棚の上からティッシュの箱を手繰り寄せた。越えるべきでない一線を踏み越えてしまったという後悔よりも、衝動に身を任せて何かを成し遂げたとき特有の、後ろめたい心地よさが勝った。それは五条さんも同じだったように見えた。俺に手渡されたティッシュをぐしゃぐしゃに丸めて濡れた性器を拭うあの人の指先は、未だ後引く快感に震えていた。
すべての後始末が終わっても、俺と五条さんは互いを抱き寄せることも、離れることもしなかった。
「セフレって言うんですか、こういうの」
そう言った俺に、五条さんは静かに被りを振った。どうしてここでそんな突拍子もない言葉が出てくるのかと、俺を咎めているようにも見えた。
「でも恋人じゃないでしょ。それにアンタとは家族でも、友達でもない」
「うん」
向き合ったまま、俺は指のはらで、まだ温かい五条さんの胸元をそっと弄った。とくり、とくり。小さな音が指先に触れる。いつか俺の手で止められることを望むこの鼓動は、今は穏やかに脈打っていた。
お互いのいちばん柔らかなところに触れてしまった後も、結局、俺と五条さんとの関係に名前はつかなかった。しばらくひとつ屋根の下で生活を共にするあいだに、五条さんは俺を抱いた。その行為を正しいとは思わなかったが、それを嫌だと思うこともなかった。五条さんが汗を拭って俺の中で果てたとき、俺もまた身悶えるような快感を貪った。あの夜、液体の溜まった薄いゴム膜がゆっくりと俺の中から引き抜かれたために、俺と五条さんの関係は決して誰にも話せないものへと変わってしまった。頂点がいくつあるのかもわからない複雑な立体に、またひとつ光の当てられない面が増えた。
結局、この話から俺と五条さんの関係について、何が言いたかったのか。それはここまで並べ立てた通りで、それ以上でも以下でもない。そもそも、全てを一から話したところで意味はないのではないかとさえ思う。ひとつひとつの出来事の意味するところも、そこから感じて、考えて、得たことも、きっと俺と五条さんにしかわからない。
(了)