泡沫モラトリアム
12.十一月(二〇三〇年)
後悔だらけの、昔話をさせてくれ。
もう二〇三〇年も暮れだ。今まで、気の遠くなるほどの年月を野辺送りにした。これは僕が恵と過ごした箱庭のような十二年の、長い長い話になる。
二〇一八年十月三十一日、ハロウィン。僕が獄門疆という呪物に封印されて、日本中がめちゃくちゃになった。大規模の呪術テロとそれに続く悪趣味な殺し合いは、それぞれ渋谷事変・死滅回游と言った。僕の仲間も生徒も、大勢が巻き込まれて命を落とした。
僕があの忌まわしい箱から解放されたとき、悠仁と野薔薇はともに致命傷を負っていた。でも致命傷というのはあくまで物理的な怪我のことで、彼らは高専での治療の末に、すぐに呪術師として復帰を果たすことができた。死滅回游直後の高専敷地内は九十九の術式で壊滅状態だった。その復興が予定以上に早く終えられたのは、二人の尽力が大きかったと聞いている。
死滅回游が収束した当時、恵は二人よりもずっと深刻な状態にあった。宿儺が騙し討ちのように恵の身体を乗っ取った。それを無理やり剥がして、僕が呪いを祓い去った。この腕の中に抱えたとき、恵の身体はすでに冷たかった。ぐったりと四肢を投げ出した恵の中で、ぐちゃぐちゃに壊れた心が六眼に写った。辛うじて残っている。けれどもういつ消えてもおかしくはない。その心というものは、魂とも言い換えることができた。
恵が死滅回游というゲームに参加したのには、僕を獄門疆から解放する以外に、もうひとつ目的があったと後々聞いた。恵には津美紀という、血の繋がらない姉がいた。その津美紀が、死滅回游に泳者として巻き込まれた。どうしても姉に殺し合いはさせたくないと、恵は死滅回游のルール改定に奔走したらしい。タイムアップまであと数日というところで、ようやく彼女を離脱させてあげられる状況が整った。そこで想定外の事態が起こった。津美紀の身体は、すでに呪物に食い荒らされたあとだった。二年近くも寝たきりだったあの二〇三号室で、津美紀は恵との再会を喜んだ。そのときに見せた笑顔も、優しさも、すべてはもう別人の物だった。その事実が恵を酷く傷つけただろうことは、想像に容易かった。
呪物の器にされるということは、悠仁のような例外中の例外でもない限り、元の人間は死ぬことになる。それを恵は、以前に他でもない僕から教えられた。だから津美紀がもう津美紀ではないことを突きつけられたときに、恵はその不可逆な死までを悟ってしまった。
初めから何もかもが無駄だった。一番救いたかった姉は、すでに生きてはいなかった。恵はそれで、立ち上がれなくなってしまった。身体はまだ無事だったけれど、心が先に駄目になった。そこにつけ込まれて、宿儺という厄災に身体を奪われた。そうして、心身ともに壊されてしまった。
そのときの恵が、どこまで理解していたかはわからない。初めからそんな状態だった津美紀のことを僕の六眼が見落とすはずがない。賢い恵ならそこまで気づいていただろうか。その可能性は十分にあった。
二〇一七年の春、津美紀はすでにその身体に呪物を取り込んでいた。呪物には封印がなされていたけれど、四肢の末端に至るまで、すでに彼女のものではない呪力が根を下ろしていた。たとえこの先で彼女が目を覚ましたとしても、津美紀はもう津美紀ではないだろう。器となった人間に、元の人格は残らない。六眼で見えた事実を、僕は誰にも伝えなかった。言えるはずがなかった。あの薄暗い病室でひとり泣き崩れる恵は、まだ中学生だった。伝えたら、恵はここで折れてしまうと思った。
その余計な気遣いが最悪の結果を産んだことは、先ほども言った通りだ。あの子が弱り切ったその瞬間を狙って、宿儺は術式ごと恵の身体を奪い去った。初めから僕が津美紀に関する残酷な事実を突きつけてやっていれば、少なくとも、土壇場でその隙が生まれることはなかったはずだった。いつだってそうだ。僕が硝子に処理をさせなかった傑の遺体は、羂索に奪われた。その遺体を使って、羂索は悲願だった六眼の封印に成功した。その結果があの二〇一八年の惨状だったのは言うまでもない。それから僕が祓いきれず逃した火山の呪霊は、七海を地下で焼き殺した。どうにかなるかと託した世界は、瞬く間に彼岸へと渡された。そして受肉した宿儺を生かし続けてしまったこと──これだけは、最悪手ではなかったと思いたかった。だって結果論ではあるけれど、高専でのかけがえのない日々を送る上で、恵には悠仁という友達の存在が不可欠だった。
今さらどうしてこんな昔話をしようと思ったのか。それにはちゃんと理由があった。机に積まれた書類の中から、昔に野薔薇から郵便で送られた卒業式の写真が出てきた。悠仁と野薔薇と恵。それに僕が加わった四人で、校舎の前で記念写真を撮った。二〇二二年の三月のことだ。
恵だけは、あれが卒業式だとは理解できていなかった。死滅回游での一連の騒動で、恵は渋谷事変以降の記憶を無くしてしまった。それどころか宿儺に乗り移られて、本当はその時点で、津美紀と同じく死んだはずだった。宿儺を剥がされたところで、その身体はもう元には戻らない。そのぐしゃぐしゃになってしまった残骸を拾い集めて、僕が心を縫い合わせた。粉々に砕けたガラスの破片をひとつひとつ張り継いでいくような、気の遠くなるような作業だった。おかげで恵の心は、形だけは元通りになった。そうして魂さえあれば、器は戻ってくる。理論上は受肉と同じだ。身体も相当なダメージを受けていたけれど、生きてさえいれば、それくらい反転術式でどうとでもなった。
けれども継ぎ跡だらけの心は、当然元のようには動かなかった。恵の中から現在という時間がなくなった。それは想定していた最悪よりは何倍もマシな結果ではあったが、だからといって、その事実を受け入れられるかどうかは別の話だ。
恵は渋谷事変も死滅回游も、何も覚えてはいなかった。縫い合わされただけの心は、二〇一八年十月より先には進めない。身体は生きていても、その中で再生されるのは魂に書き込まれた記憶だけだ。
形式上の復帰を遂げたあとも、恵はひとり、二〇一八年を生き続けた。もしも記憶が戻ってしまったら伏黒恵は今度こそ死ぬだろう。それが上層部の見立てだった。過剰な負荷に、すでに機能不全を起こした心身は耐えられない。僕は記憶が戻る、という可能性にすら、否定的な立場をとった。願望と推測は切り離して考えなければならない。いずれにせよ、恵の呪術師への復帰は絶望的だった。
悠仁たちには事情を伝えて、四年間恵に話を合わせて学生生活を送り続けてもらった。ともに過ごしているうちに、何となくここまでは話して大丈夫で、この先は駄目らしいというのもわかってきたようだった。恵はもう新しいことは覚えられなくなっていたから、目の前の変化にも気づくことができなかった。だから渋谷事変から死滅回游までの出来事にだけは触れないように気をつけて、基本的にはいつも通りに振る舞っていれば大丈夫だった。日常生活の面倒は、僕が全て引き受けた。元々一緒に住んでいた時期もあったから、その移行はスムーズにいった。
卒業とともに、僕は正式に恵を引き取った。正式に、というのは書類上も法律上もずっと僕の元に置いてやれるように、僕と恵で養子縁組をしたということだ。ちょうど民法改正の過渡期だったから、恵は二〇二二年四月一日をもって成年になった。だから当事者の合意のみで縁組することができた。結局は成年後見人制度利用の申立てのために、その後家庭裁判所には何度か世話になった。
恵は名字も変わった。戸籍上は僕の養子になった。でも恵はもう新しいことは何も覚えられなくなってしまっていたから、そのことは伝えなかった。相変わらず自分のことを一介の高専生だと思い込みながら、その後も恵は僕と暮らし続けた。
悠仁と野薔薇には、卒業してからも幾度となく会った。お互いに呪術師をやっているうちは、高専に立ち寄れば顔を合わせる機会はいくらでもあった。一度は恵を連れていたこともあった。恵は、呪術師服の悠仁には気づけなかった。悠仁は自分から名乗ることはせずに、こんにちは、と頭を下げて他人行儀な挨拶を交わしてくれた。
恵を医務室に送り届けたあとに戻ると、悠仁は少し離れたところで僕のことを待っていてくれた。敷地内ですれ違うことはあれど、まともに話すのは半年ぶりだった。元気にやっているか。最近の任務で困ったことや、やりづらいことはないか。事務的な話から、次第に互いの近況の話になった。それにはもちろん、恵のことも含まれた。
「恵がさ、僕の作った生姜焼きが食べたいって言うんだ」
「なあに先生、惚気?」
「あはは、そうだったらいいんだけどね」
思わず、本音が口をついて出た。あまり、他人に話すことではないんだろうな。そう思いながらも、言葉がため息のように溢れ出る。
「あの子の記憶のことは、悠仁も詳しく知ってるでしょ。恵は高専一年生の十月、渋谷事変以降のことは何も覚えていないし、覚えられない。あとはもう過去の中で生きていくことしかできないって。呪術に限ったことじゃないんだ。昨日話したことも、この前一緒に出掛けた場所のことも、恵は何も覚えていられない。ずっと高専生のまま僕の同じ手料理を食べたがって、学校の話をして、悠仁たちの心配をする。そして津美紀の見舞いの約束を取り付けて、僕に稽古を頼むんだ」
悠仁の顔が引き攣っていくのが、手に取るようにわかった。それでも喋るのを止められなかった。
「それってさ、死んでいるのと何が違うのかな。何も変わらないんだ、二〇一八年からずっと」
疲れたな、と思った。それからどの口が言うんだと自嘲した。あの子をこんな状態で生かし続けているのも、それでもいいから生きていてほしいと願ったのも、全ては僕の我儘だ。
「辛い記憶を封印するための防衛機制ってわけじゃないんだ。あの子の心に、もうそんな正常な機能は残っていない。動いていないんだ。ビデオテープみたいに、昔の記憶を再生してるだけ。その記憶と噛み合わないものを、恵は認識できない。さっき悠仁のことがわからなかったのも、そういうことなんだ」
恵の中に、呪術師服の悠仁は存在しない。二〇一八年までになかったものは、恵にはわからない。そうして昔の記憶の中で、恵はずっと生かされ続けている。
「ごめん、こんな話を聞いてもらうために呼び止めたわけじゃなかった」
「別に、俺は平気だよ。まだ時間もあるし。先生こそたぶんだけどそういうの、ちゃんと誰かに話したほうがいいと思う」
悠仁はそう言ってスマホの画面を確認した。任務の出発時刻までは、まだ幾分かあるらしかった。
「伏黒は、先生と住んでることは理解できてるの?」
「うん。昔恵が小学生だったときに少しだけ一緒に暮らしていたことがあるから、そのときの記憶とごちゃまぜになってるみたい」
「そっか、良かった。せめてそこだけでも噛み合ってくれてて」
さすがに恵にその説明を毎日するのは大変だっただろう。想像をして、乾いた笑いが出た。
「そういえばひとつ思い出したことがあるんだけど、四年間の定期試験を、伏黒はずっと一年生の二学期末の問題を解いてたでしょ。伏黒が覚えてるのは十月までだったから、試験範囲の半分は未修で、問題用紙の下三分の一はいつも空欄だった。伏黒はそれがおかしいことにすら気づかなかった。必ず同じところを間違えて、いつも同じ反省を書いていた。それでも伏黒は四年間の学生生活を送って、俺たちと一緒に卒業した」
それは上層部に掛け合って、何度も頭を下げてまで叶えた、僕たっての願いだった。
生きていくために最低限の学歴が必要だとか、そういうわけじゃない。死滅回游が終わった時点で恵にはもう、一人で日常生活を送るだけの能力は残っていなかった。それでも四年間をどうにかやり過ごして呪術高専を卒業させた。僕の、独りよがりの我儘だった。僕はそうまでして恵に、今まで通りの学校生活を送らせてやりたかった。
「いろいろ言う人もいるけどさ、俺は、伏黒と釘崎と、三人で卒業できて良かったって思うんだ。最後に先生とみんなで写真撮ったじゃん。あれ、俺は今でも部屋に飾ってるんだよ。任務でやらかしちゃったときとかに見返すと、楽しかった高専生活を思い出して元気が出るんだ。大変なことばかりだったし、伏黒のこともさ、正直どうしたらいいかわからないこともたくさんあったけれど、あの写真に伏黒が写っていなかったら、俺はずっとそれを引きずっていたと思う。だからありがとね、先生。ずっと、それを言おうと思ってたんだ」
それからすぐに補助監督の迎えがきて、悠仁は任務へと出掛けていった。二〇二四年頃の話だった。
僕は二〇二六年の夏に、呪術師を引退した。渋谷事変・死滅回游の呪術テロ以降、発生する呪霊のレベルは右肩下がりに落ちていた。呪力は個人単位で発生するものだったけれど、それが地球上に存在し、消費できる総量には限りがあった。端的に言えば、渋谷事変・死滅回游で、人類はあまりにも多くの呪力エネルギーを消費してしまった。枯渇した資源はすぐには戻らない。呪力がなければ、呪霊は生まれない。向こう数百年の世界は安泰だろうという結論をもって、僕の辞表は総監部に受理された。
引退と併せて、五条家の家督も次に譲った。もともと六眼と無下限呪術の抱き合わせが生まれたら当主に、と決まっていただけで、家の意思決定機関は別に存在する。僕がいなくても五条家は回る。それに僕は宿儺との戦いで、左眼の機能を完全に失っていた。別に少し不便ではあったけれど、それで何が変わったわけじゃない。完璧な最強が、完璧じゃなくなっただけだ。六眼は片方だけでも使えたし、無下限呪術もそれで十分調整できた。それでも六眼を失ったとか何とか適当な理由をつけて、僕はいとこの相伝持ちに当主の座を引き継いだ。
前置きが長くなった。
前置き、というのは二〇一八年から僕が呪術師を引退した二〇二六年までの話で、その他にもまだ、僕が記憶を失った恵とともに過ごした十二年間と、それより前の、師弟だった九年間がある。それだけの年月を、僕は恵とともに過ごしてきた。全てをここに書き連ねていたら、紙が何枚あっても足りないだろう。結論だけ言うと僕はそうするほどの情を、恵に抱いていたというだけの話だ。
さっきも言った通り、僕は二〇二六年の夏に呪術師を辞めた。今は二〇三〇年だから、それからもすでに四年が経った。今月はちょうど十一月だ。死滅回游が収束してから十二年が経ったことになる。
恵は今も、僕の隣で生きている。
「先生、俺、久しぶりに先生が作った生姜焼きが食べたいです」
内緒話でもするような、少し気恥ずかしそうな調子で恵が言った。家の中には僕と恵の二人っきりだ。恵が高専を卒業してからは、僕は任務を減らして、なるべく家で恵と過ごすようにしていた。
「ねえ恵、たまには別のやつにしようよ」
「たまにはって、しばらくずっと忙しくて全然作ってくれなかっただろ。俺のこと、誰と間違えてるんですか」
「そうだったね。ごめんごめん、じゃあ夕方になったら買い物に行こうか」
「あと五条さん、今度津美紀の見舞いに行きたいので、また車出してください」
「うん、いいよ。しばらく行ってないもんね」
「そうなんです。そろそろ会いにいってやらないとあいつ、きっと拗ねるから」
了承をして、それ以上は何も言わなかった。具体的な予定を立てることもない。だって津美紀は、目を覚ましたときにはすでに殺されていた。取り込まされた呪物で傀儡のように動いていた外側も、羂索の企みとともに葬り去られた。もうあの病院の二〇三号室には誰もいない。こうして同じ会話を繰り返しながら、僕は贖罪のようなこの十二年間を過ごしてきた。
恵は、僕の初めての弟子だった。
出会った頃は本当に、何をしていても可愛かった。まだ未成年で当主すら継ぐ前だった僕の隣を一所懸命についてきて、五条さん五条さんと慕ってくれた。大きな式神を従えて、どんなに傷だらけになっても諦めず与えられた役目をこなして、僕の元に帰ってきた。初めは、あまり目をかけすぎないようにするつもりだった。強くならなければ、この世界では生きていけない。その過程で死ぬのだとしたら、それはそれで仕方ないと割り切るつもりだった。薄情に思うかもしれないけれど、それはいつか誰しもに訪れる死が、この子には少し早く来てしまったというだけのことだ。
そんな僕の悲観的な予想に反して、恵は逞しく育っていった。早々に呪力の使い方を理解して、小学校低学年のうちから僕の任務にも同行した。中学では暴力沙汰ばかり起こして、しょっちゅう僕が校長室まで呼び出された。それでも絶対に代理を立てることはしなかった。反抗期の恵は僕を試しているように見えた。そうなると恵と僕の我慢比べだ。恵が問題を起こして、僕が謝りにいく。任務を途中で切り上げたことも、遊び相手を置き去りにして平手打ちをくらったこともあった。それでも僕は何度も中学に通って、浦見東の校長先生のお説教を聞いた。恵はいつしか暴れることをやめた。代わりに成長期途中の掠れた声で、また僕のことを五条さんと呼んでくれるようになった。僕の涙ぐましい努力がようやく報われたと思えた瞬間だった。
あんなに小さかった子どもは、二〇一八年の春にはちゃんと約束通り高専生の制服に袖を通してくれた。あのときは思わず涙が出そうになった。一人だけで始まった教室には、すぐに気の置けない仲間が増えた。
恵が同級生たちと楽しそうに笑い合っているのを見るのが嬉しかった。ここで四年間の思い出を作って、卒業したら僕の仲間として働いてもらう。津美紀の一件はもちろんあったけれど、恵が呪術師としてやっていくためには、全てが順風満帆に思えた。
その最中に、恵は全てを失ってしまった。
僕が封印されなければ。僕がすべてを告げていれば。後悔はいつだって先には待ってくれない。あの子の人生は、僕が壊したも同然だった。
恵はもう一人では生きていけない。初めにそれに気づいたとき、僕はすぐに恵を家に匿った。それから上層部と交渉して、この子を守るためのあらゆる約束と条件を取り付けた。恵は到底自力で日常生活を送れる状態にはなかった。稀少となった禪院家の術式持ちをそんな状態で野放しにすることに、総監部はたいそう難色を示した。悪用されればろくでもない事態になることは、たった数ヶ月前に呪術師全員で身をもって知ったばかりだった。
恵を僕の庇護下に置く条件のひとつとして、十種影法術は入念に封印された。頂点に降りた忌むべき一体を残して、式神はすでに消失してしまっていた。それでも恵は壊滅した禪院家の血筋を持つ、最後の相伝だ。その身体を欲しがる奴は後を絶たない。封印式には僕の血も混ぜて、強力な縛りを結んだ。命を対価にした縛りだ。僕が生きている限り、誰もこの封印を解くことはできない。それはもちろん、術者である僕自身も例外ではなかった。
仮校舎での恵の寮室は、割り当てられる前に辞退した。僕の教員寮の部屋も引き払った。恵が密かに家賃を払い続けていた埼玉のアパートも手放した。
スマホも解約してしまった。元々の契約名義は僕だったから、こちらの手続きは難なく終わった。端末だけは今もちゃんと取ってある。これは恵の大事な思い出が詰まったものだ。返してやることは憚られたけれど、かといってそれを捨てることもできなかった。
家庭の事情ということで、任務も極力減らしてもらった。独身に何の家庭の事情があるんだよという陰口は各所から聞いた。何とも思わなかった。
ここまでの環境を整えて初めて、僕はどれほど恵を大事に思っていたかを痛感した。そこに思い至るだけの余裕が出来たと言ってもいい。きっと初めから情はあった。そのことに、二〇一八年の僕は気づけなかった。
白状するとこの十二年にも及ぶ年月の中で、擦り寄せられた恵の身体を、なし崩しに抱いたこともあった。でも恵には、その行為が何を意味するものなのかわからなかった。それでも欲求も本能もこの子の身体には残っていたから、事に及ぶことはできた。暴かれるたびに、恵は初々しい涙を浮かべて僕を受け入れた。記憶は何も残らなかった。すぐに罪悪感がまさって、恵に手を出すことはしなくなった。
十三年。それが上層部から引き出すことのできた最大限の譲歩だった。十三年のうちに、伏黒恵に蹴りをつけろ。十三年が経てば、恵は当時の僕と同じ年齢になる。提示されたその数字に意味はなかっただろうが、贖罪とするにはあまりにも悪趣味だった。
僕はその期間設定に合意した。ずっと昔に終わるはずだったこの子をこんなふうに生かし続けてしまった責任は、自分で取らなければならない。十三年のあいだに、この手で始末をつける。今日この日に至るまでの全ては、その取引の上に成り立っていた。
どのみちいつか誰かが終わらせなくてはならなかった。その役目から逃げ出すつもりも、手放すつもりもない。与えられた年数が経つのを待つつもりもなかった。今までだって、何度も終わらせようとした。恵に全てを伝えようと試みたこともあった。でも土壇場になると踏み切れなかった。そのせいで、僕は恵を何度も苦しませた。
稀に恵が昔のように、しっかりと今の僕と意思疎通ができているように見えるときがあった。何も変化のないはずの十二年間を共に過ごしているうちに、そう思い込んだだけかもしれない。けれどこうして一緒にいたら、いつか恵はまた元通りになるかもしれない。そう思うと決心が揺らいで、体に力が入らなくなった。あるときは、喉を押さえて激しく咳き込む恵の隣で、僕は泣いて許しを乞うた。崖っぷちで急ブレーキを踏みつけて、隣で目を見開いて固まった恵の身体を掻き抱いた。縄を、薬品を、ナイフを、袋に放り込んで内廊下の奥から投げ捨てた。寄せ集めた呪力の塊は、放たれる前に指先から消えた。方法は違えど、いつも同じことの繰り返しだった。
僕の見通しは常々甘かった。十三年もあれば、いずれは自分の気持ちに整理がつくと思っていた。十三年もあれば、いつかは恵が元通りになるんじゃないかとも思った。いつか時間が解決してくれる。そうでなければ、二人で逃げ出せばいいと思った。
それが叶いもしない夢物語だと自嘲するほどに、僕はもう歳をとってしまった。刻限は来年に迫っていた。逃げたって、その先がない。どこへ行ったって、今よりも悲惨な死が待つだけだ。それならばこの手で、幸せな今のまま終わらせてやりたかった。
本当はこれを書き上げたら今度こそ、全てを終わらせるつもりだった。けれどまた失敗した。うまく成し遂げることができなかった。
あまりにも長々と書き連ねすぎてしまった。何度も初めから読み返しては、ああすればよかった、こうすればよかったと、叶いもしない願いばかりが浮かんでくる。
先延ばしにし続けた未来が、すぐそこまで来ていた。うたかたのようなこの猶予期間には、随分と長いこと身を置いてしまった。本当は二〇一八年で終わるはずだった。もっと早くに終わらせるべきだった。思い出がこんなふうに積み上がってしまっては、もう僕ひとりでは背負えない。