二〇一八年の君へ - 3/4

二〇一八年の君へ

13.十二月(二〇三一年)

 星を見にいこう、と五条先生が言った。夕飯の最中の話だった。俺は生姜焼きを口に運びながら、いいですよと頷いた。先生が唐突で気まぐれなのはいつものことだ。俺は久しぶりに五条先生が作ってくれた生姜焼きが嬉しくて、今日くらいはいくらでも、どこへでも振り回されてやろうと思った。津美紀がいれば良かったけれど、津美紀は春からずっと寝たきりだ。津美紀は星を見るのが好きだったから、きっと一緒に来れば喜んだに違いなかった。
「そうだ、途中で津美紀の病院にも寄ってくださいよ」
「もう夜だから、面会時間外で入れないよ」
 確かにそうだった。今日は高専は臨時休校で、五条さんも久しぶりのオフだったから、朝から出掛ければ良かったのかもしれない。津美紀の面会にはしばらく行けていないから、そろそろ会いにいってやらないと。五条先生が言うには、津美紀は強い呪力に当てられて、深い眠りについているらしい。知らせを聞いたときにはとても動揺して取り乱してしまったけれど、津美紀を診た家入さんと五条さんは、ともに命に別状はないと言った。今は眠っているだけだから、何かきっかけがあれば目を覚ますだろうと。だからいつ起きても大丈夫なように、津美紀も、津美紀の周りのことも、綺麗にしておいてやりたかった。
「そういえば、夢を見たんですよ」
「へえ、どんな?」
 五条先生の車に乗り込んで、シートベルトをした。前からこんな車だったっけ。いつのまにか買い替えたのかもしれない。
「津美紀が目を覚ます夢です。でも夢って、頓珍漢なことばかり起こるじゃないですか。だから津美紀はせっかく目が覚めたのに、知らない人と中身が入れ替わっていたんです。それで急に羽根が生えて空を飛ぶから、一緒にいた虎杖とおかしいだろって喧嘩になって……うわっ」
 ギュウ、と首元にシートベルトが食い込んだ。目の前の信号機は赤だった。停止線を大きく踏み越えて車が止まった。五条先生は運転が上手いから、こんなふうに急ブレーキを踏むのは珍しかった。
「信号、結構前から赤でしたよ」
「ごめん」
「あ、ほら、行かないと。青になった」
「うん」
 頼りない返事とともに車がまた動き出した。夜だからか、幸い後続に車はいなかった。そういえば今何時なんだろう。スマホを確認しようとしたけれど、ポケットの中には見当たらなかった。家に置いてきたのかもしれない。最後に見たのはいつだっけ。時計も忘れてきてしまった。
「どうしたの、恵」
「いえ、今何時だろうって思って。俺のスマホ、どこかで見ませんでした?」
「見てないなあ。帰ったら一緒に探そう」
「そうですね、ないと困りますし。任務の連絡が来てるかもしれない」
「うん、そうだね」
 それからふと目をやったダッシュボードに、時刻表示があるのを見つけた。今は午後十一時を少し過ぎたところだった。俺はなんで、こんな時間に出掛けているんだっけ。
「五条さん、あの」
「恵、夢の続きの話をしてよ」
「はい。……何でしたっけ」
「津美紀が出てくる夢を見たって言ってたよ」
「津美紀が?」
「いいや、ごめんね、僕の勘違いだったかも」
 五条さんはどこかほっとしたような顔をした。
「何か好きな話をしてよ、何でもいいよ」
 何でも、と言われてもすぐにはなにも思いつかなかった。ラジオでもつけましょうかと言ったけれど、五条さんが嫌がった。スマホを繋いで音楽を掛けようとも提案したけれど、五条さんはスマホも手元にないと言った。
「置いてきちゃったんですか」
「うん、だから恵が話して。恵が好きなものの話」
「……俺、五条さんの作る生姜焼きが一番好きでした。ちょっと甘いけどしっかり味がついてて、手間かけて作ってくれてるのがわかるから」
 思い浮かぶのは、高専に来る前に住んでいた埼玉のアパートの光景だ。五条さんはうちに来るとよく、夕飯を作ってくれた。いっぱい食べて大きくなりな、と言って食卓に並べられた和食はどれも比べられないくらい美味しかった。でもその中で、とりわけ好きな料理がいくつかあった。そのうちのひとつが生姜焼きだった。
「最後の、……なんて言うんでしたっけ、最後の、晩餐か。俺はあれ、五条さんの生姜焼きがいいです。津美紀と五条さんと、三人で食べたい」
 五条さんは何も言わなかった。また急ブレーキを踏まないように、運転に集中しているのかもしれない。
「五条さんが忙しいから、久しく食べてない気がします。今度作ってくださいよ。俺、好きなんです」
 三人で囲んだ食卓を思い浮かべて、自然と楽しい気持ちになった。それからふと、今日の夕飯を思い出した。そういえば作ってもらった。それをついさっき、笑いながら二人で食べた。まるで夢を見ているみたいだった。記憶の断片が入り乱れる。
「あれ、そっか、食べましたね。美味しかったな、今日の夕飯。最近は五条さんがよく家に居てくれるので、嬉しいです。どうして忘れていたんだろう」
 いつのまにか車は海沿いを走っていた。真っ暗で平らな海よりも、夜空の方がまだ明るかった。ぴたりと半分だけ照らされた月が、手の届きそうな高さに浮いていた。
 星を見にいくと言ったから、山に行くのだと思った。海岸沿いは小高い崖になっていた。地形に沿って作られた道を、車はずっと進んでいく。
 五条さんはしばらく月夜の道を走り続けた。いつもあれだけ騒がしい五条さんが、ひと言も発しないのは珍しかった。誰もいない海沿いの夜道で、車はゆっくりと減速して、路肩に寄せて停まった。どうしたんだろう。ふと見上げた横顔から、きらりとひと筋の涙が落ちた。
「五条さん?」
「恵、何か思い出したの」
「いえ、……俺、どこかおかしいですか」
「どうしてそう思うの」
「だって五条さんが、辛そうな顔してるから」
 サングラスの下で、五条さんは瞳にめいっぱいの涙を溜めていた。思えば、ずっとそうだった。星を見ようと俺を誘ったときも、俺が津美紀の話をしたときも、運転をしている今も。
「ねえ恵、いま、何年だと思う?」
「二〇一八年、ですよね」
「そうだね」
「五条さん?」
 伏せられた目から、つうと涙がこぼれ落ちた。白い睫毛が水滴に濡れる。意を決したように五条さんが言った。
「……今はね、二〇三一年なの。恵がいなくなってから十三年が経った。こわれちゃったから、恵の記憶はずっと昔で止まったままなんだ」
 つっかえながら紡がれた言葉は、バラバラの文字へと砕けていった。それは何の意味も持たなかった。頭の中では、鏡写しのような記憶の欠片だけが散らばっている。
「ごめんね。今日こそ、終わりにしよう」
 喉元の柔らかな部分に、先生の指先が触れた。状況は何もわからなかったけれど、不思議と気持ちは穏やかだった。まるで長い夢を見ていたみたいだ。目を閉じると真っ暗な空間に、記憶の破片がきらきらと揺らめいている。
「五条さん」
「なあに恵」
「……昔、三人で星を見にいきましたよね」
「うん、行ったね」
 涙に濡れた掠れ声が、堪えるように言葉を紡ぐ。
「あれだけ津美紀が喜ぶのを楽しみにしていたのに、僕も恵も、あの山からじゃあ見えないなんて知らなかった」 
 思わず小さな吐息が漏れた。もうずいぶんと昔の話だというのに、五条さんがまだそれを覚えていてくれたことが嬉しかった。
「目を閉じると今も、あのときの光景が浮かぶんです。満天の星空の下で、津美紀も五条さんも笑ってる」
 楽しげな二人の隣でひとり、泣きたくなるような感情を知った。ろくでもないまま終わるはずだった人生で、初めて幸せという言葉が浮かんだ。途端に彩を持って輝き出した星々に、思わず息を呑んだのを覚えている。
「五条さんで良かったです。俺たちのところに来てくれたのも、今ここにいるのも」
 五条さんは顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。どうか泣かないでほしいと思った。だってこれは悪くない終わり方だ。もっと惨めな死に方も、悲惨な最期もあり得たはずだった。けれども一番大切にしていた記憶を、俺はまだこの手に抱えられている。きらきらと光る星屑が、宝物のように残っている。
 触れたままの指先に、ゆっくりと呪力が集まっていった。呪術師は呪力で殺せ。懐かしいな、そう教えてくれたのもこの人だった。
「恵、ごめんね。大好きだった」
 うん、知っている。頷いて目を閉じた。いつか見た星空が、瞼の裏に焼き付いている。津美紀の笑い声が聞こえてくる。知らなかった、と五条さんが言う。ここじゃあ南十字座は見えないんだって。
 首元に、震える指先が食い込んだ。
 一度だけ眩い光に包まれて、それからあたりはしんと静まった。影が全てを覆い隠してしまったから、星海はもう見えなくなった。真っ暗な世界には誰もいない。遠い山々の向こうから、微かに波の音が聞こえていた。