もらっている鍵をさして、教員棟の寮室のドアを開けた。どうせ呪力の気配で気づいているだろうと思ってノックはしなかった。俺を迎え入れた五条先生はパソコン画面から目を離さないまま「おー」とも「よー」ともつかない曖昧な挨拶をして、長い指でばらばらとキーボードを叩いていた。
「残業ですか」
「そ。サービス」
両側には紙書類やらファイルの束やらが無造作に積み上がっていたから、また長期出張明けの事務仕事に追われているんだろうと思った。働く姿を横目に、勝手知ったるベッドの上に寝転んだ。五条先生の匂いがした。
「恵は今日はもう終わり?」
「さっきちゃんと虎杖たちと宿題終わらせてきたんで。本、読みにきました」
「別にそれ、僕がいないあいだに取りにきてくれても良かったのに」
先生はそう言うあいだも、カタカタと何かを画面に打ち込んでいた。本、というのは、先日ここに来たときに俺が忘れていったものだった。追っていたシリーズものの新刊を置いてきたことに気づいたときには、先生はすでに長期出張に出てしまっていた。部屋主の不在時に勝手に入り込むのは気が引ける、というのが今日ようやくここに足を運んだ建前だった。
「アンタがいないときに勝手にアンタの部屋に入るのはダメだろ」
「そういうもん?」
「ん」
「僕だったら、恵の部屋なら勝手に入っちゃうけどな」
本は、ベッド横のテーブルの上に置かれていた。ずっとその続きが読みたいと思って一週間を過ごしたのは本当だ。買う前からそれなりにこの続編を楽しみにしていたのも本当。でも本当は、先週はわざとこの部屋にこれを忘れていった。
さすがにベッドだけで部屋が埋まっちゃうのは困る、と熟考と妥協の末に置かれたらしいセミダブルは、俺が一人で使うには十分広かった。遅くまで働く背中の後ろで、挟み込んでいた栞をずらして、事実、切望していた物語の続きに目を落とす。
カチャカチャとキーボードを叩く音と、ときおり漏れる呻き声、紙をめくる音、あくび、椅子の軋む音。印刷された活字の列に目を落としたまま、聞こえてくる全ての音に耳をすませた。もちろん、そんなことをしているから、本の内容なんてろくすっぽ入ってきやしない。勘のいいこの人に、この漫ろな気持ちだけは気取られたくない。何度も同じ行に目を滑らせては、また冒頭から読み直して、不自然に思われないよう紙を捲る。
ガシガシと頭を掻く様子に、ふと、先生の集中力が切れた気配がした。
「ねえ、恵」
「なんですか」
「ココア作ってよ、甘いやつ」
「牛乳あるんですか」
「あー、ないかも」
先生はそう言って立ち上がって、備え付けのキッチンのほうに消えた。開いた扉から冷気が漏れる音と、ガサゴソと食品のあいだを搔きわける音がした。再び聞こえた、あー、と間延びした声に、結論を聞かずとも結果を知る。
「だめだ、買ってないや。あとでコンビニいこ」
「もう夜ですよ」
「いいじゃん、夜だって。散歩しにいこうよ」
嫌です、とは口には出さない。けれども誘われるがままにここを出てしまえば、また前みたいに帰り際に自分の部屋に戻らされるかもしれない。そうなるのは嫌だった。
代わりに、人の枕であることなどお構いなしにしっかりと上半身で乗っかって、本を読むふりを続けた。慣れ親しんだ五条先生の匂いを吸い込んで、先生が仕事をする音に耳をすませる。
カタ…カタ…と考え込みながら手を動かす気配に、ときおり混ざるペンが走る音。すいすいと進む秒針を追って、壁時計の長針がカチリと分を刻む。
ふあ、と気の抜けたあくびが聞こえた。つられて開きそうになった口元をきゅっと結んだ。眠いなら帰りなよ、と言われたら、それをはねのける言葉をきっと自分は発せない。でも、まだ帰りたくなかった。せっかく口実をつけてここに来たんだ。あともう少しだけ、とページを繰る。
次第に本当に眠くなって、見開きのページの前に頭を落とした。恵、と諌める声を聞き流す。このまま眠ってしまおうかと、したたかな気持ちで眠気に身を委ねた。恵、と今度ははっきりと声が聞こえた。先生が振り向いたのだろう。近づく気配がして、背中の上に毛布が掛けられた。仕方ないと言いたげなため息とともに、手にしていた文庫本が抜き取られた。幸せだな、と思った。
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。気づけば本当に寝入ってしまっていたようで、室内にはカーテンの隙間から月光の薄明かりだけが差していた。
うつ伏せのまま放りだされていた腕が痺れている。読んでいた本は、ベッドボードに置かれていた。二人で寝転ぶとさして広くはないセミダブルの上に、五条先生も眠っていた。俺が真ん中を陣取るから、先生は端っこで窮屈そうだった。
「ねえ、そんなところで寝てたら、落っこちますよ」
毛布からはみ出た肩をそっと揺すると、五条先生は寝言の中でむにゃむにゃと俺に文句を言った。この人はあまり長くは寝ないけれど、その分、一度寝入ると滅多なことでは目覚めない。五条さん、と最近はほとんど呼ばせてもらえなくなった名前を口にする。五条さん、五条さん。起きて。
んん、と呻いて、五条先生がもぞりと腕を伸ばした。すでにしっかり二人分の身体に掛けられていた毛布を、もう一度俺の上に掛け直す。そのまま、長い腕が俺を抱きこんだ。
「五条さん…」
「めぐみ、なあに、ねむれない?」
夢うつつの瞳が、ぼんやりと開いていた。
「だいじょうぶ」
「ん…」
再びすうすうと穏やかな寝息が聞こえてくる。規則正しく上下する胸元に、そっと頬をすり寄せた。