第47回目【落ちる】

「昔読んであげた絵本にさあ!」
 耳元では風が切っていた。隣で五条先生が、その風の音に負けじと声を張り上げる。
「あったじゃん、こういうの」
「何がですか!」
「恵がよくお世話になってた、三丁目の耳鼻科の先生のところの本棚に、絵本! 落ちていくの、女の子が、ウサギを追いかけて」
 俺たちはいま、とてつもない速度で落下していた。ここはどこかもわからない。あたり一面は空色で、遥か彼方だけが薄っすらと群青に色づいている。
 思い出そうにも、記憶は途切れている。足元はどこまでも青色が深くなるばかりで、着地点は見えない。もしかしたら俺たちは、とんでもない標高にいるのかもしれない。景色も何も代わり映えしないのに、落下する感覚だけがある。
 五条先生はまるで階段を一歩ずつ降りるような気安さで、ずっと隣で一緒に落ちていた。そういえば先生は俺よりもうんと重いはずだけど、体重と落下速度って関係あるんだっけ。ないんだっけ。
「ないよ」と五条先生が言った。
「落下速度は物体の重さによらず一定だね。重たい方が早く落ちる、と言ったアリストテレスは間違っていた。そういえば知ってた? 落ちる速度に物体の重さは無関係だけど、ガリレオがピサの斜塔から鉛の玉を落として実験をしたってのは嘘で、後世の創作なんだって」
 普段の授業だってこんな真面目な物言いはしないのに、五条先生はすらすらとそう言ってのけた。今日は目隠しをしたままだから、何を考えているかはいっそうわからない。
「はい、それでは自由落下の公式は? 伏黒恵くん!」
「急に教師らしいことを始めるな。アンタの担当科目、物理じゃないでしょ。というか、一体どこから出したんですかそれ」
 五条先生はいつのまにか高校物理の教科書を手にしていた。背表紙には油性ペンで書かれた「二年 五条悟」の文字。それから呪霊の絵なのか排泄物の絵なのかもよくわからない、品性に欠けた落書きが、表にも裏にも。
「懐かしいな。これ、僕が使ってた高専生のときの教科書だ」
「どうなってんだよ」
「ふしぎふしぎ。でもさ、昔恵を膝の上に乗っけて読んであげた『不思議の国のアリス』のアリスもさ、経度とか緯度とかのことを考えながら空中で本読んでたじゃん。ほら、序盤のところ」
「あれは、落下してるウサギ穴の壁に本棚があったんです」
 ここはきっと空の上だ。あたりには何もない。呪霊か呪詛師の術式の仕業には違いなかったが、どうしてか何も思い出せない。
「よく覚えてんねえ」
「前に一緒に映画観にいっただろ!」
 正確には一度断ったのに、三歳児並みにごねて、大人としての矜持を捨てて床の上をのたうちまわろうとした五条先生に根負けして、付き合わされただけだ。もともとフィクションはあまり好きではないことを差し引いても、微妙な出来の映画だった。あれだけ観たがっていたはずの五条先生ですら、開始五分で寝たくらいだ。いや、あれは先生が長期出張帰りで疲れていたからだっけ。それなら、俺と映画なんて観にいかずに、さっさと帰ればよかったのに。
 とにかく、あの映画がどうしようもない仕上がりだったのだけは覚えている。昔読み聞かせてもらった絵本のほうが、ずっとずっと好きだった。
「ねえ恵、アリスって結局どうなるんだっけ。穴の底に着いたまでは覚えているんだけど」
「それは覚えているとは言いません」
 あの絵本の中身を思い浮かべようとするときにはいつも、傍らに長身の案内人がやってくる。碧色の瞳に白髪の頭、すらりと細い礼服の男が恭しくお辞儀して、膝の上に俺を乗せる。紡がれる物語は、いつだって彼の声だった。
「……夢オチですよ。最後に、アリスは川辺の土手で目が覚めるんです。体が小さくなる薬を飲んだり、大きくなる薬を飲んだり、しゃべる動物とレースをして、お茶会をして、ハートの女王とクロッケーをして…」
「じゃあこのままこうして落ち続けたらさ、僕たちもいつかどこかに着地して、そんな冒険をするのかな」
 五条先生が楽しそうに笑って、俺の手を取った。差し出されたのは古い絵本。案内人がやってきた。くるりくるりとお辞儀をして、彼の指先がページを繰る。

 そこで目が覚めた。きっかけも何もなく、拍子抜けするほどあっさり覚醒した。よく寝たな、と思える気だるさがあった。塗装の剥げた天井が見えて、何となく、どこに何をしにきたのかを思い出した。
 ここは地方にある廃墟の、古びた洋館のひとつだった。ファンタジーを下敷きにして建てられたというこのテーマパークはいつしか客足が遠のき、廃業後は自殺の名所だか心霊スポットだかで余計なものを集めてしまい、呪霊が巣喰って、高専関係者の情報網に引っかかった。それで、任務の一環として俺と五条先生が祓いにきたというわけだ。
「起きた? ほら、さっさと行くよ」
 五条先生は近くにあった長椅子の上で、退屈そうに頬杖をついていた。きっと俺が早々に不意打ちをくらって気絶したのを、ずっとそうやって眺めていたのだろう。どれくらい落ちていたのかはわからない。また帰ったら説教をくらうのだろう。弱っちいな、本気でやってるのって。
「なに、やられてたくせに楽しそうじゃん」
「すみません」
「いい夢でも見てたわけ?」
「ええ、大好きだった絵本の夢を」
 五条先生はスタスタと先を歩いていく。夢の続きを探して、その背中を追い掛けた。