第32回目【衆人環視/牽制】

「説明してる時間がないから詳細は省くけど、昨日呪詛師から僕宛てに殺害予告が届いてんだよね」
 呪力を火薬にでも変えられるのか、先ほどから車体後部への弾丸の雨が止まない。遠出した帰り道、富士の裾野までよく見える新東名高速道路での出来事だった。
 襲撃が分かってて出歩くか普通、と恵は心のうちで毒づいた。当たりがキツくなるのも仕方ない。今日は高専も呪術師業も休みの日曜日で、担任兼恩人兼後見人でもある五条悟に朝四時に叩き起こされ、東京郊外の高専生徒寮からわざわざパルケエスパーニャ──三重県にある志摩スペイン村だ──に車で連れて行かれて、よくわからないキャラクターたちが楽しそうに描かれたアトラクションやパレードやらをひと通り制覇させられたのだから。
 あれなら別にディ●ニーランドで良かっただろ、と思う。まず何より、千葉のほうが圧倒的に近い。絶対朝四時に起こされる必要なんてなかった。むしろ日帰りで行く遊園地に千葉以外の選択肢があるか?
 ともあれ、襲撃予告があったそうなのだから、五条先生にも何か考えがあっての遠征だったのかもしれない。いや絶対ないだろうな、と恵は思う。むしろあれは五秒前まで忘れていたときの顔だ。
 とりあえず玉犬を出して周囲を探らせようと両手を組んだ。五条先生には有料道路を時速百二十キロで走る鉄の塊の操作に集中してもらわないといけない。この状況下で索敵ができるのは自分だけだ。
「恵、シートベルトしてる?」
「えっ、はい」
「舌噛まないように気をつけてね。あとお土産ちゃんと抱えとけよ」
「は? うわ、」
 五条悟がアクセルを踏み込んで、派手なモーター音ともに車が一気に加速する。恵は慌てて甘味の詰まったショップバッグを抱え直した。速度計の針が法定速度を嘲笑う。この車は五条悟の私物だ。先ほどの防弾性といい、おそらく万が一を想定したロクでもないオプションがたくさん積み込まれている。じゃなきゃ、真っ赤なスポーツカーなんて趣味の悪い乗り物が高専の駐車場に存在してたまるものか。
 気の狂ったような高笑いとともに、五条悟が前方の車を抜いていく。後方からの狙撃は止まないが、走行を続けるために致命的になりそうなものは全て避けているらしい。
「恵、僕のスマホ開けて伊地知に掛けて」
 六眼持ちとはいえ人間ばなれした所作を前に、一応人間枠代表の恵に出番はないものと思っていたが、さすがに前方から目を離す余裕はないらしい。恵は言われるがままに、無線接続で軽快な音楽を流していた薄っぺらな端末を拾い上げて、画面をつける。
「『1222』」
「は?」
「ロック解除に要るでしょ、暗証番号」
 言われた数字は恵の誕生日だった。いや、もしかしたら彼女とか母親とかそういう類の人との何らかの記念日が、偶然恵の誕生日と一致しただけかもしれない。いや、そんなことあるだろうか。え、と聞き返す暇がないのが惜しい。きっと五条悟だって、いつか何かのタイミングで恵をからかってやろうとして設定した番号に違いなかった。
「あの、伊地知さんの番号なら俺もわかります」
「いいから早く開けて、僕が喋るから繋がったらスピーカーにして。特級(ぼく)しか通らない要請があるの」
 動揺のまま、言われた通りに指先で操作する。他人の通話履歴をスクロールすることに少し罪悪感があったけれど、見事に高専関係者の名前しか出てこない。枯れてんな、と自分の生活を棚に上げて伏黒恵は思う。
 目当ての履歴を探して、その名前を押した。掛けた相手はワンコールで出た。
「はい、伊地知です。五条さん今日はオフですよね。どうかされました?」
「もしもし、すみません伏黒です。ちょっと待ってくださいね」
「あれ、伏黒君?」
「伊地知〜! いま呪詛師の襲撃受けてんだけど、高速道路上で赫ぶっ放したいから手回ししといて」
「五条さん!? いくらなんでもそれは無理です。場所は!?」
「新東名の上り」
「無理です!!」
「恵、切っていいよ。それじゃあ伊地知あとはよろしく」
「え、いいんですか」
「悲鳴上げてる伊地知は、何だかんだで解決の算段がついてる伊地知だから」
 信頼されているのか、いいように使われているのかはわからない。人のいい補助監督の悲鳴に申し訳なく思いながら、恵は通話終了のボタンを押した。
 五条悟は白昼堂々、術式を使うつもりらしい。補助監督の助力のおかげか、先ほどから徐々に車の流れは途切れつつあるが、衆目があることに変わりはない。
「帳、下ろしましょうか」
「ううん、要らない。それより恵、運転代わって。ハンドル握ってるだけでいいから」
「え、俺まだ免許持ってないです。というか、未成年ですけど」
「ちょっと運転席に座って足元のペダル踏むだけだから。大丈夫、この先しばらく直線道路だし」
「でも法律」
「天上天下、僕が独尊」
 反論の言葉が見つからず、恵は仕方なく「はい」と言った。助手席とのあいだのよくわからないレバーを引っ掛けてしまわないよう可能な限りの注意を払って、走行中の運転席に移る。五条悟は恵をドア側に押しやって、同じ席に半分だけ腰掛けた。
「右足で、左側にあるやつ優しく踏んでみて。そうそう、それがアクセルで、右隣にあるのがブレーキ」
「五条、せんせ…」
「うん、いけるね。ちなみに今二百キロ近く出てるから、もしハンドル切るときはほんのちょっとだけにしてね」
 免許取得可能な年齢にすら達していない恵に、時速二百キロの感覚はわからない。もし今まさにこの車が途方もない速度で爆走していることを知っていたら、恵は決して運転交代など受け入れなかっただろう。
 ツンツン跳ねる黒髪をわしゃわしゃと撫でて緊張を解いてやって、五条悟が後方を見据える。呪詛師の人数も車種も走行位置も、とうに目星はついている。公道での術式行使の許可もきっと問題なく下りている。あとは周囲への被害を最小に抑えられるタイミングで術式を放つだけだ。
「ちょっと揺れるだろうからしばらくしっかりハンドル握っててね。僕の恵を殺そうだなんて思い上がったこと、二度と言えないようにしてやらなくちゃ」
「…え、俺、ですか?」
「ああ、言ってなかったっけ。僕宛てに、『恵の』殺害予告が届いたの」
 どういうことだ、と恵が聞き返す余裕もなく、五条悟は最適な瞬間を狙って、サンルーフを開けて身を乗り出した。運転を任されてしまった恵は、その様子を見ることはできない。けれども幾度となく目にしたことがあるその姿は、容易に思い描くことができた。
 六眼を晒して、五条悟が掌印を結ぶ。膨れ上がる凄まじい呪力量に耐えきれず、車体がガタガタと揺れる。
「術式反転、赫──」

* * *

「あはは、恵の運転童貞奪っちゃった〜!」
 運転席の半分に恵を乗せたまま、五条悟はすぐに手早く操作して車を路肩に寄せた。後方では車数台が術式に吹き飛ばされ、大炎上を起こしていた。ようやく重圧から解放された恵が、ぐったりとシートに身を預けた。全身が汗でぐっしょり濡れている。まるで徹夜の任務に同行したときみたいに、腕も足も痛かった。
「まあ、無事でよかったよね! 結果オーライ!」
 五条悟は楽しいドライブデートだったとでも言うように、上機嫌そうに笑っていた。先ほどまでの獰猛さの残滓は、もうどこにも見当たらない。
 助けられたことに変わりはないが、そもそも車で出かけなければこんなことにはならなかったんじゃないか。自分への殺害予告があったなんて、もっと早く教えてくれても良かったんじゃないか。さっきのスマホのロックの番号は何だったんだ。あと無免許で公道を運転してしまったけれど大丈夫なのか。
 恵はそっと目を閉じた。言いたいことも、聞きたいこともありすぎる。素直にお礼を言う気持ちになれるまでには、もう少し時間がかかりそうだった。