今年の誕生日も冬至だった。
寮の大浴場の脱衣所にまでゆらりと漂う柚子湯の香りに、伏黒恵はふとそんなことを思った。
呪術高専の同期と先輩総出で行われた誕生日のサプライズパーティは消灯時刻直前まで続き、ついぞ三次会なんてものが始まったあたりで、本日の主役はひっそりとその場を後にした。
「どったの伏黒、もう寝る?」
「ああ」
「そっか。おやすみ」
追加で飲み物の買い出しに行かされていた同期と、風呂場に向かう途中ですれ違った。無理に引き止められることもないこの居心地の良い関係を、伏黒は存外気に入っていた。先例がないのでわからないが、きっと、こういうのを親友と呼ぶのだろうと思う。
祭りのあとの寂寥感も相まって、浴場はいつもに増して仄暗く見えた。湯けむりの奥に、橙色の果実がゆらゆらと浮いている。
さんざん祝われ小突きまわされて皮膚にこびりついた喧騒をかけ流して、柑橘の浮かぶ湯に浸かる。
今ごろは主役不在の誕生日会の続きが、目的を見失ったどんちゃん騒ぎと化しているだろう。中学の修学旅行とは違って、高専の寮に教員が夜間の見回りにくることはない。なんならあの子供よりも子供じみた担任なんぞは招かれずとも乱入してくるのではないかと思っていたが、結局、最後まで彼が現れることはなかった。
「よっ、営業してる?」
そんなことを考えていたせいだろうか、下戸のくせに居酒屋に入る常連みたいなポーズで、五条悟が大浴場の扉に現れた。かろうじてタオルで隠された前以外は素っ裸だというのに、均整のとれたスタイルと珍しく覆い隠されていない顔の良さですべてを帳消しにしてなおプラスが有り余っている。
「出張じゃなかったんですか」
「後泊キャンセルして無理矢理帰ってきた。あとは僕がいなくてもなんとかなるでしょ」
ひと学年数人を前提に作られた寮の湯船はさして広くもなく、どっこいしょ、と五条が隣に腰をおろせば、自然と会話が生まれる距離になる。ふう、とタオルを頭に乗せて湯船でため息をつくところなんてオヤジもいいところだが、「何をしても顔の良さですべてが帳消しになるから腹立つな」というのは同期の釘崎の言である。
「めちゃくちゃ今さらですけど、教員棟って風呂ついてないんですか」
「あるけど狭いんだよね。わざわざお湯張るのもめんどうだし、僕はこっちのほうが好きだからよく来るよ。生徒たちとも話せる」
「その割にはここで鉢合わせるの初じゃないですか」
「そうだっけ。悠仁とはわりとよく会うよ。どっちが長く潜っていられるでSHOWとかする」
虎杖は、五条に対しては先生と生徒ではなく、悪友みたいに振る舞えるやつだ。きっと相手の求めるものをよく理解して、その通り振る舞ってやれるんだと思う。だから伏黒といるときはあまり大声を出して騒ぐようなことはしないし、五条といれば悪ふざけに徹してコントのような会話を繰り広げる。二人が大浴場でバシャバシャと水飛沫を上げて騒ぐ姿は、そう苦労せずとも想像がついた。
「いや共同浴場で潜るなよ不衛生だろ」
「男には負けられない戦いがあるんだよ」
たぶん五条悟は、自分と対等なやりとりができる相手のほうが好きだ。十三という年齢差を感じさせない、ハツラツとしたやりとりが聞こえてくるような気がして、伏黒恵はそう思った。
五条悟の親友も、そんな男だったと聞いている。
「恵は大人を気取ってるから、そういうのしなさそうだよね」
心のうちを見透かされたかのような言葉に、胸のあたりがぎゅっと苦しくなった。
伏黒恵が知る限り、五条悟の隣はいつも空いていた。ぽつんと置かれた空っぽの椅子には、見知らぬ誰かの気配だけが残されていた。
その席がほしいと思ったきっかけを、伏黒恵はしっかりと覚えていた。他でもない五条悟の手で葬られた、五条悟の親友だったという男の存在を知ったときだ。今までは名も知らぬ気配だけだった空席の影が、実体を持った瞬間だった。
「今日冬至じゃん。メグタンだね」
「はい?」
「恵の誕生日、めぐたん。任務でしばらく何もできなかったから、まだプレゼント用意できてないや。恵、今年は何がほしい?」
湯船に浮かぶ柚子をつついて、五条が言う。まるで今までずっと贈り物のリクエストを叶えてきたかのような口ぶりだ。
「どうせ、言ったってろくなものくれないじゃないですか」
去年は確か、五条しか食指の動かない甘味の詰め合わせだった。その前は遠く離れた国の部族から譲られたという仮面と衣装で、そのもう一つ前は、とうてい普段着にはできないような小洒落て大人びた服をもらった。
「考えといてよ。冬休みに入ったら買いに行こう」
「え、高専って冬休みあるんですか」
初耳だ。学校といいつつもほぼ呪術師のために設立された組織のようなものだから、学事暦なんてないと思っていた。というか夏休みだってなかったような気がするし、辛うじて知っている高専時代の五条悟が、そんな浮かれた余暇を貪っていた記憶もない。
「あるに決まってるだろ。僕はそのまま五条の屋敷に戻るつもりだけど、恵も来る?」
「年始のご挨拶には、今年も伺うつもりです」
五条悟自身があまり実家に寄りつくことを好まないため機会は少ないが、行けば恵を孫のように可愛がってくれる人たちがいる。禪院家の血筋であることを知らないはずはないだろうが、それでも良くしてくれる人たちのことが、恵も好きだった。
「僕もお年玉ほしいって言お」
「アンタいったいいくつですか」
「十二月七日に二十九歳になりました〜」
イェーイ、と年甲斐もなく満面の笑みでダブルピースを放つ入浴中の現代最強は、それから何かに気づいたように「あ」と言った。
「そういえば僕まだ恵から今年の誕プレもらってない」
「要らないって言ったのアンタですよ」
「そうだっけ」
僕は最強だから、欲しいものはもう全部持ってるの。そう言ってのけたのは他でもない五条悟自身だ。
「じゃあ仕方ないからクリスマスプレゼントと一緒でいいよ。まあどうせ欲しいものなんてないけどね。本当に欲しければ自分で手に入れられるし」
嘘つき、と恵は心の中で呪詛を吐く。天上天下、すべてを手中に収めたようなふりをして、たったひとつ、隣の席だけは埋められないままじゃないか。
昨年起きた新宿京都百鬼夜行。首謀者として処刑された夏油傑は、五条悟の隣に座ることを許された唯一無二の親友だった。伏黒恵はその男については人づてに聞いたばかりで、あまり多くのことは知らない。自身の高専時代に関して五条が唯一、決して語ることなく仕舞い込んでいる、蒼くまっさらな一ページ。まるでピースを失くしたパズルのように、五条の隣は欠けたままだ。
「恵だって、別に今さらほしいものなんてないでしょ」
「……俺は、アンタの隣が欲しいです」
「今だっているじゃん。ほら、もっと寄っていいよ」
「いないですよ。アンタの隣には、誰もいない」
夜蛾学長に一度だけ見せてもらった、五条悟の卒業写真。集合写真とは到底言えない、担任ひとりと生徒ふたりが写ったそれには、不自然に空いた一人分の空白があった。家入硝子と五条悟のあいだに残された男の影は、未来永劫帰ってこない。
永久欠番となった空席を、五条悟は埋めようとしない。埋められる人間がいないからだけじゃない。生まれついて最強の男は、再びその強さに見合う存在を見つけたところで、きっともう誰も隣に座らせることはない。
「どうしたら、先生の一番になれますか」
ふやけて今に破けそうな柚子を握って、そんなことを言った。翡翠の瞳はつまらなさそうにどこか遠くを見たまま、決して振り向こうとはしなかった。
「どうしたの、急に」
五条悟は丸くなった、と皆が口を揃えて言う。学友を失って、反抗期が終わった。そんなことを五条の屋敷で聞いたこともある。
「夏油傑の代わり、見つけないんですか」
明確な意思を持って、素足のまま地雷を踏み抜いた。ぴくり、と美しい顔が引きつった。もうすぐあの男の一周忌を迎えるこんな時期じゃなければ、五条悟はきっと、自分に動揺を見せることすらしなかっただろう。
「おいたが過ぎるよ、恵」
「俺じゃ、駄目ですか」
しっしっ、とあしらわれる。引き返せるラインはとっくに超えていた。怒られるか、さもなくば心の底から嫌われて、こんなことはもう二度と伝えられなくなる。その前に言ってしまうしかない。そもそも、欲しいものがないかと聞いたのは五条悟だ。たとえ模範回答じゃなかろうと、自分は聞かれたことに答えただけだと言い聞かせ、伏黒恵は五条悟を遮った。
「俺は、いずれ魔虚羅を調伏するつもりです。禪院家の先祖たちが誰ひとり成し得なかった十種影法術の全式神を調伏して、禪院史上最強の呪術師になります。アンタが、置いていかれないか心配になるくらい、強くなります」
ぐらぐらと熱さに揺れ始めた視界の中で、五条悟が、まるでおぞましいものでも見たような顔をしていた。知り合ってもう十年近くも経つけれど、こんな表情をされるのは初めてだった。最高だ、と伏黒恵は笑う。
「誕プレとクリスマス、何年分でもいいです。俺が現代最強の隣に並べるくらいの術師になったら、夏油傑の空席を、アンタが埋められずにいるその隣を、俺にください」
あの男が与え、奪っていった蒼色のパズルのピースを、自分が埋めたい。
熱くて、息苦しくて、目眩がする。のぼせたな、と思う。五条悟の隣がほしい。自分から吐き出されていく言葉に追いつくのがやっとだ。
「くれないって言うなら、別にいいです。アンタが何もしなくても、俺が、勝手に、奪いにいきますから」
それから限界が来るまでは、何ともあっけなかった。完全にのぼせたと思う間もなく三半規管が馬鹿になって、視界が真っ暗に消失した。ああ、くそ、格好つかねえな。立ち上がることもできずに、伏黒恵はバシャリと柚子の風呂に崩れ落ちる。五条悟がそれを受け止めたのか、あるいは恵が偶然その方向に倒れ込んだのかはわからない。触れた肩口に、そのまま額をぎゅうと押し付けた。五条悟は黙ったままだ。ぐらりぐらりと世界が揺れる。漏れ伝わる鼓動が早鐘を打っていた。
あの五条悟が、柄にもなく言葉を詰まらせている。それだけで十分だ。きっと答えは返ってこない。類を見ないほど愉快な気持ちで、伏黒恵は消えゆく意識に身を委ねた。