どうにも、恵が女の子になったらしい。
高専が指名手配を掛けていた呪詛師の術式をくらったせいだと、彼(いやこの場合は彼女か?)の担任として連絡を受けた。一級呪霊を何体かさっさと祓って高専に戻ると、恵はすらりと長い手足を持て余して、むっすりと医務室の真ん中で突っ立っていた。
「背丈はあんまり変わんないね。美人さんじゃん。このまま元に戻らなかったら、僕が嫁にもらってあげよっか」
「同じことを虎杖と狗巻先輩にも言われたので、先生は三番手ですね。先着順なんで、ウェイティングリストに載っけておきます」
明らかにご機嫌斜めだ。上機嫌な恵なんてそうそう見ないけど、ここまでピリピリしているのも珍しい。特に恋人として付き合いだしてからは、お得意のツンデレムーヴはともかくとして、心の底からつっけんどんな態度を取られることはめっきり減っていたのに。
「状況は? ってか硝子は?」
「すぐに家入さんに診てもらったんですが、別に身体に異常はないみたいです。性別が変わっただけで」
「ちんこ消えた?」
「……はい」
恵の陶器のような額に青筋が浮かんだ。曰く、僕にはデリカシーがないらしい。よく言われる。でもそれで何か支障があるわけじゃないので、直したほうがいいと思ったことはない。
捕獲対象だった件の呪詛師は、同行していた悠仁と野薔薇が無事捕らえたらしい。呪詛師の術式は被術者の性別を入れ替えるものだったが、解呪方法はあるのでいずれは元に戻るとのことだった。
式神は問題なく使えます、呪力も普段通りです、と恵から簡単な現状報告を受ける。
「じゃあ明日からも通常任務で問題ないわけだ」
「いや、その…」
「支障があるならちゃんと全部報告しな。自己管理も任務のうちだ」
「……うまく、歩くこととか、できないんです。身体感覚がぐちゃぐちゃで、重心もずれてて、力の入り方も男のときと違う」
「へえ。見せてみて」
恵が僕に促されるままによたよたと手足を動かして前に進むのを、六眼を晒して観察する。確かに、何だか出来の悪いアンドロイドみたいだ。そういえば制服の肩のラインも普段より落ちているし、ズボンもベルトを一番きつく締めてどうにか腰骨に引っ掛けているらしい。身長だけは普段とさして変わらないけれど、体の構造は確かに女性になっている。
ふむ、と考える。
この性別を入れ替える術式自体は相伝のものらしい。捕縛された呪詛師の家系は過去に巫師の真似事で栄えていたとのことだが、この現代社会においてはせいぜい見世物小屋でも立ち上げるか、悪事がバレたときの足止めに使うくらいしか役に立たないだろう。事実、ここ数代は特殊性癖向けの風俗店を営みつつ、呪詛師としても荒稼ぎをしていたとのことなので、もしかしたら調査をすれば芋づる式にいろいろ埃が出てくるかもしれない。高専がわざわざ指名手配を掛けた理由までは確認していないので、これ以上調べる必要がある案件なのかは知らないが。
「ねえ、よそ見しないでください。考え事ですか」
今後の処理について思考を巡らせていたところを、子猫みたいな力でつままれた。くいくい、と袖の裾を引かれる。いいねこういうシチュエーション、グッとくる。恵はというと、むすっとふくれっ面をしていた。
「俺のことだけ見てて、五条さん」
「女の子になった恵が、女の子みたいなことを言ってる」
「女の子なので、今」
「やっぱり感じ方も違う?」
「たぶん。心の中もぐちゃぐちゃです。自分じゃないみたいだ」
消え入りそうな声がそう言って、つまんだ裾を放した。すみません、と何に対するものかもわからない謝罪をもらう。これは本格的に調子が悪そうだと思った。男子寮に帰して万が一があっても困るし、しばらくは任務も授業も休ませて、五条の屋敷にでも連れて帰ったほうがいいかもしれない。
「ま、解呪方法はあるってことだし、取り調べが終わったらさっさと聞いて元に戻してもらえばいいでしょ。元気出してこ」
ぽんぽん、と柔らかくなった肩を抱いた。それでも恵は浮かない顔のままだった。
「何、まだ何か報告事項がある?」
「いえ…」
じゃあもう帰るね、と普段であれば言っただろう。さすがに今日はそこまで意地悪をするのはやめておこうと、なけなしの良心が働いた。
手近な空き椅子をふたつ引っ張ってきて、背もたれを前にしてどかりと腰を下ろした。そのまま地面を蹴ってくるりくるりと回転する。いい年した大人がすることじゃないのは重々承知の上だ。
「もうちょっとだけここで聞いててあげるから、言いたいことあるなら言っておきな。今日だけ特別」
恵は椅子には座らなかった。代わりに、やっぱりよたよたと慣れない身体を動かして、窓辺により掛かった。窓の向こうはすでに暮れ始めていて、麓にまで並ぶ鳥居が橙色の海に沈む。
「もし、俺がこのままずっと女だったら、もう十六なので、五条さんと結婚できますよね」
差し込む西日が、まるで昔に流行った恋愛ゲームのイベントシーンみたいだと思った。放課後の医務室で、自分に好意を寄せる女の子と二人っきり。ベッタベタなシチュエーションで、恵が話題に似合わぬ無愛想のまま訥々と語る。
「このあいだも、実家で無理やり見合いさせられて嫌だったって言ってたじゃないですか。俺が、もしずっとこのままだったら、結婚できますし、たぶん子供も産めます。そのあたりの内臓まで全部ちゃんと入れ替わる術式だって聞いてるので。普通に付き合って、普通に結婚できる。もう世間体を気にして関係を隠し続ける必要もなくなる」
ふと、ルート分岐の選択肢が見えたような気がした。ここでじゃあ結婚しよう、僕のために女の子のままでいてよ、なんて言ったらどうなるかな、と思った。
「禪院の血縁だから歓迎はされないかもしれないけど、もしかしたら六眼と無下限と十種影法術の抱き合わせとか産まれるかもしれねえし。馬鹿みたいな空想だけど、そしたら、五条家だって悪い気はしないだろ。なあ、元に戻らないほうがいいって、思いませんか」
可愛いな、と思った。突然女の子にさせられたのにそんなことをぐるぐる考えて、ずっとここで僕の到着を待っていたなんて。めちゃくちゃ愛されてるじゃん。
ああ、でも、男女の交際として誰も彼もに祝福される、普通の道が足元から延びている。今ここで一歩踏み出したところできっと行き着く先はハッピーエンドではないだろうけれど、一瞬、ほんの少しだけ、その景色を見てみたいと思ってしまった。
そんな思いを振り払って、正解だと思う答えを口にする。
「ううん、元に戻らないほうがいいなんて思わないよ。僕が好きになったのは、元気いっぱいで生意気な、男の子のほうの恵だからね」
「……男が好きなんですか」
「いやいやいや、恵が好きだって言ってんの。別に女でも男でもいいけど、恵が元気でやんちゃしてるのが一番好き。だから、恵が元に戻りたいと思うなら、ちゃんと戻ってほしいよ」
「でも、」
「僕の問題は、僕が自分でどうにかするからいいんだよ」
これは我ながら百点満点の回答だと思った。五条悟は最強だからな。もはや最強だからこそ五条悟。強くてかっこよくて思いやりまであって、完全無欠でごめん。
そんな僕の自画自賛オーラが鼻についたらしい恵が、照れ隠しで椅子の脚を蹴った。恵が女の子である今、そんなものは駅前の雑踏でティッシュを押し付けられたくらいの衝撃で、通りすがりの子猫に体当たりをされたくらいのハプニングだ。
でもそのわずかな衝撃のおかげで、一瞬だけ描いてしまった、もしかしたら手に入るかもしれない、普通の幸せの絵を消すことができた。純白の空想を丁寧に消してから、ひと回り小さくなってしまった手を取った。むすくれたままの顔を見上げて言う。
「好きな子の前でくらい、格好つけさせてよ。ってかさ、こんな最強でイケメンな恋人を捕まえておいて何がウェイティングリスト三番手だよ。載っけるなら一番上だろ」
「アンタ、大人しく順番待ちするような柄じゃないでしょう」
ようやくいつもの調子を取り戻したらしい恵が、くすりと笑って僕の手を握り返した。弱っちい握力と柔らかな手。相伝術式を使いこなす普段の力強い手も、今の非力な手も、恵のものだからこそ、どっちだって取ってやれる。
「さっきの、もうちょっとだけ考えてみます。呪詛師の聴取が終わるまで、まだしばらく掛かるみたいなので」
「じゃあ僕は束の間のにょためぐを堪能させてもらお」
「さっき男の俺が好きって言った」
「それはそれ、これはこれ」
へらへらと笑いながら、やはりふらつく恵の肩を抱いて医務室を後にする。置いていったひとつの未来が、ばいばいと手を振った。