伏黒家絵日記生産コンベアの話

 夏休み最終日、二〇〇九年八月三十一日月曜日。騒動の発端は、夕飯後に恵が呟いたひと言だった。
「あ、絵日記の宿題やるの忘れてた」
「えっ、うそ、やってないの!?」
 新学期のために箪笥の前で服選びをしていた津美紀が慌てて飛んできて、ごろりと畳に寝転がっていた五条も何事かと身を起こした。
「やってねえな。真っ白」
「でも前に全部終わったって」
「読書感想文も漢字と計算ドリルも最初の一週間で片付けたけど、絵日記があるの忘れてた」
「もう、何で今頃言うのよ」
 何だ何だと気になって聞いてみれば、恵の学年に課された絵日記の宿題とやらを、恵は全く手をつけていなかったらしい。夏休みが始まった七月二十日から本日八月三十一日まで。毎日日記をつけるようにと手渡されたらしい片面印刷四十三枚の絵日記用紙は、どれもまだ枠線だけの、染みひとつない白色だった。
「夏休み最終夜に宿題を片付けるなんて青春だね。頑張れよ小学生」
 適当にエールを送って、五条は読みかけていた少年漫画の週刊誌に戻る。今日は待ちに待った月曜日だ。少し前に始まった『黒子のバスケ』『めだかボックス』『べるぜバブ』あたりもおもしろいし、『BLEACH』『ONE PIECE』『NARUTO』は言わずもがな。いやあそれにしても『ToLOVEる』最終回なんて信じらんねえし、巻末コメントで誰もお疲れさまって言ってないのも信じらんねえ。あ、新連載の『賢い犬のリリエンタール』は恵も好きそうだから後で読ませてやろ。
 五条がパラパラとページを捲って巻末コメントまで読んで、とうとう今週のアンケートに入れる三作品を丁寧に選び終わっても、恵と津美紀はまだちゃぶ台に向かって白紙の山を埋めていた。さすがの五条も罪悪感を覚えて、二人の手元を覗き込む。進捗はなかなかに悪そうだ。あ、でも津美紀の絵は可愛いな。どんなに薄目で見ても、とても恵が描いたようには見えないのが難点だけれど。
「いま何日のやつ書いてるの?」
「三十一日」
「あれ、じゃあもう終わり?」
「違うよ五条さん、まだ七月の三十一日!」
「え、まだまだじゃん!」
「あとまだ色も塗ってないの!」
 ぷりぷりと怒りながらも懸命に絵を描く津美紀に、ようやく五条も重たい腰を上げた。
「じゃあ色塗りは僕がやるから、恵が文章書いて、津美紀が絵を付けて、僕に回して。クレヨンどこ?」
 机の上に散らばった紙の中から、五条は七月二十日をひょいと摘み上げた。夏休み一日目、海の日だ。その日は朝六時に起きて、二人で近所の神社にラジオ体操に行ったらしい。参加者の町内会のおばちゃんがアイスキャンディをくれたんだって。いいねえ。
「アイスは青色でいい?」
「うん。ソーダ味だったから、ソーダっぽいやつなら何でもいい」
 言われた通りに色を塗って、ついでに地面や空にも色をつけた。海の日は確か快晴だったかな。任務で岐阜に駆り出された日だ。とても暑かったのを覚えている。
 お次は七月二十一日。『あつかったので夕方に公園でなわとびをした。さんぽしていた犬がかわいかった。なでさせてもらった。たまって言うらしいけど、それはねこにつける名前だと思う』。辛辣なコメントとともに、確かに可愛い犬の絵が描いてある。
「恵、犬何色だった?」
「金色。ゴールデンレトリバーの赤ちゃんだった」
「えっ、でもこの絵はプードルじゃ」
「五条さん、いいからどんどん塗って!」
「へいへい。あ、でもクレヨンに金色なんてないよ」
「適当でいいの!」
 津美紀にぴしゃりと怒られて、仕方なく、くるんくるんの巻き毛でつんと澄ました顔のゴールデンレトリバーの赤ちゃんのプードルに適当に色を付けていく。まあ犬なんて白か黒でしょ。この見た目ならグレーも可愛いか。身体に陰影をつけて、地面にも影を落としてやれば、案外それっぽく見えてくる。
 次、七月二十二日。夕方に二人でスーパーに買い物に行ったらしい。描かれているのはレジ袋からネギが生えた絵だ。塗りやすくて楽でいい。七月二十三日、市民図書館で読書。本棚の絵、結構丁寧に描き込んであるな。せっかくだから背表紙の色は一冊ずつ分けるか。七月二十四日、家の大掃除。箒とちりとりとカーテンの掛かった窓の絵。ちょいと視線を上げて、実物と見比べて色を塗る。七月二十五日、宿題を終える。描いてある机はこのちゃぶ台だ。いい加減二人とも学習机が要るよな。姿勢とか視力とか悪くなったら困るし。七月二十六日、学校のうさぎ当番で餌やり。あ、このうさぎ可愛い。津美紀は動物の絵が上手だ。これも色を付けて完成の山に加えて、次の日記を待つ。二十七から三十一日はまだ津美紀の作画待ちだが、どれも近所での出来事ばかりで、大した内容は書いていない。
「え、ってか中身これだけ?」
「津美紀、もう書くことない」
「適当でいいのよそんなの」
「適当って例えば? ずっと家の掃除じゃまずいだろ」
「え、わかんないけど、私去年何書いたかな……動物園とか行ったことにしたと思う」
「じゃあ八月一日は動物園にする」
「あと水族館も使えるよ。それと海にも行ったことにしようよ」
「じゃあ海と、その次は山にする。あとこのあたりで一回学校に朝顔の様子を見にいった気がする」
「じゃあそれで一、二、三、四、五……恵、あとまだ二十六日もあるよ」
 額を寄せて作戦会議を進める二人に、余計なお世話だとは思いつつも、五条は思わず口を挟んだ。
「ちょっと待って、君たち、夏休み何もしてないの?」
「うん、してないよー」
 津美紀の間伸びして、それでいて全然気になんてしていないとでも言いたそうな、意地っ張りな声が返ってくる。
「親いねえのにどこにも行けねえだろ」
 僕がいるじゃん、という言葉を五条はぐっと飲み込んだ。恵が津美紀にばれないように、黙れとこっそり睨みつけていたからだ。
「もう。いいよ、じゃあ八月十日から十五日までは北海道に行ったことにしよう。来年本当に連れてってやるから」
「え、五条さんほんとうに!?」
「うん。北海道でもどこでも行きたいところを言いな。一年前から計画立てて申請を出しておけば絶対休み取れるから」
 五条は来年からは高専教師として働くことになっていた。本当は今年のほうが時間に余裕があったはずだけれど、過ぎたことをいま言っても仕方がない。
「北海道、北海道行ってみたい!」
「じゃあまずは北海道ね。恵はどこか行きたいところないの?」
「動物園」
「泊まりじゃないところはいっぱい行けるよ。別の日に水族館も行こう。次、津美紀は?」
「私は浴衣でお祭りに行きたい!」
「いいね。新品で買ってもいいし、うちにある生地ならすぐに仕立て直せる」
「恵の分もある?」
「もちろん。僕のお下がりになるけれど」
 それはさすがに嫌がるかなと思ったが、恵は日記帳に視線を落としつつ、挙がったばかりの架空の出来事をまんざらでもなさそうな顔で書き続けている。それから国語辞典を手繰り寄せて、後ろのほうのページをパラパラと捲った。あれはヤ行かラ行の辺りだなと思って、五条ははたと気づく。そっか、恵、まだ浴衣を漢字で書けないんだ。おもしろいの。
「あとね、私温泉いきたい!」
「……牧場で乳搾りする」
「プール!」
「潮干狩りしてみたい」
「すいか割り!」
「カブトムシ探しにいく」
「ねえ、花火もしようね」
 そうして三人で順繰りに書き込んで仕上げた絵日記帳は、次の夏休みの予定がいっぱいに詰まった未来日記になった。それをしっかり綴じて、恵がランドセルに仕舞ったのを見届けて、五条はぐうと伸びをする。凝り固まった肩がパキパキと鳴った。色塗りなんて慣れない動作を繰り返したからだろう。下腕や肩の、滅多に使わない筋肉が心地よく痛む。見上げた時計は、とうの昔に夏休みに終わりを告げていた。
「ほら、二人とも明日の支度をしてさっさと布団に入りな。寝坊するよ」
「親ヅラすんな」
「夏休みの宿題を手伝ってやったんだから、僕にも親ヅラする権利くらいありますけどー」
「五条さんありがとね。おやすみ」
「はい、おやすみ」
「おやすみなさい」
 エアコンのタイマーを設定して、照明を落として、五条も薄明かりの中に寝そべった。終盤の怒涛の作業のせいか、目はまだ冴えている。
「恵、来年の夏、楽しみだね」
「うん」
 それでも眠ろうと目を瞑った五条の元に、ふとそんな弾んだ囁き声が聞こえてきた。
 翌朝は三人で朝食を食べて、五条は二人を送り出した。自分もそろそろ高専に向かうかと身支度をしていると、昨夜ちゃんと鞄に入れさせたはずの恵の絵日記帳が、どうしてか畳の隅に落ちていた。さすがにこれ以上は面倒を見てやるつもりはないと踵を返しかけた五条が、あ、と気づいて立ち止まる。ランドセルならいつもふたつ揃って引き戸のところに並べているのだから、こんなところに宿題が落ちるはずがない。ここは、いつも恵の布団を敷く辺りだ。
「ったくさあ、そういうところだよ」
 思えば今朝の恵は珍しく早起きだった。もしかしたら早朝に、一人でこの日記帳を読み返していたのかもしれない。五条はあのどこもかしこもつんつんにとんがった恵を思い浮かべて、思わずふっと口元を緩めた。次の夏休みなんてまだあと一年も先なのに、遠足前の小学生じゃないんだから。今から眠れなくてどうすんの。はしゃぐ津美紀の前では格好つけて、昨日はあんなに澄ました顔をしてたくせにさ。
 それから手早く着替えた五条が向かったのは、もちろん高専ではなく、恵のいる小学校だった。日記帳片手に小学生たちの登校ルートを辿りながら、なんて言って恵を職員室まで呼び出してもらおうかと意地悪くほくそ笑む。ただ保護者ですと言ってもつまらないから、お兄ちゃんですとでも名乗ってみるか。それともいっそその辺で日記帳を拾った他人のふりをして、やってきた恵を驚かせてもいい。
 むすくれた恵の反応をひとり想像して、五条はくつくつと笑う。その五条が後に山上から一帯に響き渡る予鈴を聞いて全速力で地獄坂を駆け上がる羽目になったのは、きっとまた別の話。