既婚者五と不倫めぐの話

 五条さんには奥さんがいる。
 今度結婚するんだ、と笑顔で高専関係者の度肝を抜いて回ったのはそう遠い昔の話ではなかった。ほら、と見せられたスマートフォンには、五条家と相手方の家族に囲まれて、正装した男女が、仲睦まじく肩を並べる写真が画面いっぱいに表示されていた。どこかの格式高い料亭なのだろう。とてもお似合いだと思ったのを覚えている。
 五条さんと俺は長い付き合いだということで、入籍に先立って、個人的に新居での夕食に招いてもらった。奥さんになるという女性は五条さんより五つ年下で、今年大学を出たばかりだと言った。呪術界においても世俗においても良家のお嬢さんらしい彼女はとても美人で気品があって、誰に対しても優しくて別け隔てなく接する、眩しいくらいの善人だった。
「悟さんったら、うちではいつも恵くんの話をしているのよ」
 俺にとって五条さんは親代わりだということを知ると、彼女は俺の生い立ちに対して嫌味のない憐憫を述べたのちに、そう言った。これからもいつでも遊びにいらっしゃい、と微笑む彼女に、俺はぎこちなく頷くのが精一杯だった。
 彼女は五条悟にはもったいないくらいだと、結婚式に招かれた誰もが口を揃えて言った。俺は、この上なくお似合いの相手だと思った。現代最強の呪術師と、それを支える気立ての良い、非の打ち所のない妻。都内の一等地に建てられたホテルの庭園で、紋付き袴と白無垢で並び立った姿はそれはそれは美しかった。式当日は五条さんも薄化粧を施されていたらしく、白い肌に、いつもに増して艶やかな唇がひどく魅力的に映ったのをよく覚えている。
「恵、おいで」
 あの日からまだ、数ヶ月と経っていない。けれども、この部屋に足を運んだ回数は、すでに片手では足りなくなっていた。
 妻帯者となっても、五条さんは各所へのアクセスがいいからと、所有する二十三区内のマンションのいくつかを手元に残したままにした。ここはその一室だった。五条さんが奥さんと知り合うよりずっと昔から、俺はここでこうして五条さんと逢っていた。あの日、これで最後だからと眼に焼きつけた紅が、美しい弧を描いてふたたび俺の名を呼んだ。
「ねえ、いつまでそんなところで立ってるの」
「……もうこういうことするのやめませんか。アンタ、既婚者だろ」
 俺がこの部屋についたときには、五条さんはすでにソファの上でくつろいでいた。腹の上で組まれた手には、今日も結婚指輪がはめられている。長い足をゆっくりと組み替えて、五条さんが静かに目を閉じた。
「恵までそういうこと言うの」
「俺までって、まさか」
「いいや、直接は何も言われてないけどね。でもこれだけ外泊続きだし、気づいてはいるでしょ。あの子だって馬鹿じゃないんだから」
 つまらなさそうに言って、白金の指輪を外した。その値段も、ブランドも、それから裏に刻印された文言も知っている。互いのイニシャルと、挙式の日付。刻まれた日付からまだ数ヶ月も経っていないのに、五条さんは俺の前でこうして何度もこの結婚指輪を外した。
「最低だな」
「好きで結婚したワケじゃない」
「だから何だって言うんですか。選んだのはアンタだ」
 実家から大量に送られてきた身上書を開きもせず、まさにこの部屋で、俺にババ抜きのように並べさせて、五条さんはその中から一枚を引き抜いた。中身を確認したのは、俺とひと晩じゅう性行為に耽ったあとだった。まるでタロット占いの結果でも確かめるように、五条さんは身上書の硬い表紙を開けた。そこに記載された女性と一度だけ都内の料亭で食事をして、親族同士の顔合わせと同じ日に結納を済ませたらしい。それがあの優しそうなお嬢さんだったというわけだ。
「あの人を泣かせないでください」
 不幸になるのは自分だけでいい。いつか終わりが来ることを承知した上で、この逢瀬を重ねていたはずだった。五条さんは俺の後見人で、呪術の師匠で、高専での先生だった。そこに当てはまらない、決して正しいはずのない関係を、誰かに漏らしたことは一度も無い。五条さんから結婚すると告げられたときは、自分から連絡を絶った。そうしてきちんと一線を引いたはずだったのに。
「心配しなくても、ちゃんとあの子のことも抱いてるよ。なんか最近調子悪いみたいだし、妊娠したかもね。いよいよ僕も一児の父かぁ」
 五条さんはそう言って、俺の薄っぺらな下腹部をうっとりと撫でた。まるでそこに何かがいるみたいに。最低だ。そう何度繰り返したかもわからない。けれども結局、この手すらも跳ね除けることができない。そんな己の弱さを何度も何度も嫌悪した。それでも、ここに来るのをやめることはできなかった。
「やっぱり女の子の中に挿れたほうが気持ちいいんだよね」
 最低な男が、歌うように最低を塗り重ねる。
「恵は童貞でネコだからわかんないと思うけど、女の子のナカってすごく温かくて柔らかいの。何もしなくてもぬるっぬるでさ、あの中に包まれてるときだけは、頭の中が真っ白になって何も考えられなくなっちゃう」
 生々しい言葉に吐きそうだった。そんなこと、聞きたくない。そんなことを聞くためにここに来たわけじゃない。
「やっぱり女の子を抱いているときのほうが正しいって感じがするんだよね。何でだろうな。恵はわかる?」
 本当に心からの疑問なんだと言わんばかりに、五条さんが頬杖をついたまま問いかけてくる。空いたほうの手は、外したばかりの結婚指輪をくるりくるりと弄んでいた。
「あの善人を穢すな」
「間男なのは恵のほうでしょ。人の旦那さんを寝取ってんだから」
「……俺は、ちゃんと、やめませんかって…」
「じゃあ恵は僕とこういうふうに会えなくなってもいいの? そんなことないよね」
 ソファに俺を引きずり倒して、五条さんが覆い被さった。逆光の中で、藍玉色の瞳が真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「同罪だよ、僕も恵も」
「俺はこんな正しくない関係なんて、やめたいです」
「うん」
「アンタは奥さんと幸せになればいいのに。こんな不誠実なことするなよ」
「うん」
「もう俺を呼ばないでください。自分では、どうにもできないんです。アンタから連絡が来たら。今日だって、ここに、来るつもりなんてなかったのに、」
 うん、と五条さんが優しく目を細めて、口付けた。この人のことが、どうしようもなく好きだった。柔らかな唇を押し付けられて、言わないと決めていたはずの言葉が、感情が、溢れ出しそうになる。
 引かなくちゃいけない線は、足元でぐしゃぐしゃに塗りつぶされていた。本当はちゃんと線を引くつもりだった。でも出来なかった。一度知ってしまった温もりは忘れられなかった。
 五条さんが俺の手を取った。弄ばれて体温の移った小さな貴金属の塊が、俺の左の薬指に嵌められた。ひとまわりは大きくて、ぶかぶかな結婚指輪。それを俺に握らせるように、拳を包み込んだ。
「ごめんね、幸せにしてあげられなくて」
 初めからわかっていたはずだった。どれほど長い寄り道をしようと、呪術界の名家の当主として、彼は初めから他の誰かと添い遂げる決まりだった。そこに割り込んで、不相応な愛情に触れて身動きが取れなくなったのは自分の瑕疵だ。幸せになんてなれるはずがない。それがこんなにも苦しいと知っていたら、決して手を伸ばすことなんてしなかったのに。
「お願い、泣かないで、恵」
 悲しそうな顔をする五条さんを見上げたまま、ぽろぽろと涙が落ちていく。こんなことで、泣き顔なんて見せたくなかった。でも自分の意思ではどうにもできなかった。喉の奥がぎゅっと締まって、まるで溺れたみたいに息ができない。
 結局、その日は五条さんとは寝なかった。俺が泣いてしまったせいで、そんな雰囲気にはならなかった。そのまま、オマエとはもう終わりだと言ってくれれば良かったのに。
「またね、恵」
 別れ際にそう言って、五条さんは涙の跡にキスをした。それから俺を撫でたのと同じ手で、携帯端末を取り出して、彼の帰りを待つ人へ連絡を入れた。
 彼のその美しい手には、また結婚指輪が嵌まっていた。