「どこか行くんですか」
「葬式」
嘘つけ、と恵は思った。
久しぶりのオフだった。朝から都内のマンションまで呼び出されて、溺れるような色事に耽ったまま、差し込む気だるい陽光の中で、溶け合うように微睡んだ。そんなまたとない一日に、この男が葬式になんて行くものか。
恵の胡乱な眼差しをどこ吹く風と受け流して、隣で眠っていたはずの五条は、いつのまにか洗面台の前に立っていた。まばらに生えかけた髭に剃刀をあてて、棚の中からワックスを探して髪を流す。黒いスーツに白いシャツ、それから選ばれたネクタイが淡い青色だったことから、恵は疑念を確信へと変えた。
「誰の葬式ですか」
「うちの婆ちゃん」
「アンタの都合で殺すなよ。ついさっきも連絡来てただろ」
それでも五条は身支度をやめない。
仕方なく恵は放り出されたままのスマホを手繰り寄せて、前に勝手に共有されたカレンダーアプリから五条のスケジュールを読み込んだ。予定表はきちんと更新されるときとされないときがあるが、今日の日付が振られた小さな枠には、いつのまにか『見合い』の文字が浮かんでいた。
朝に見たときは何もなかったから、急にねじ込まれでもしたのだろう。可哀想、と端末を放り投げて、恵は再び乱れたシーツに頬を寄せる。
「行きたくねー」
「いい加減身持ち固めたほうがいいんじゃないですか」
「恵はそれでいいの」
「嫌ですよ。でも仕方ないんでしょ」
なんて言ってみはしたけれど、当然恵の心のうちはもやもやと燻っている。お互いに背負うものも立場もあることも、そして永遠にこの関係が続きはしないことだって理解している。けれども目の前で獲物をかすめ取られたみたいに、恵の気持ちはささくれ立っていた。何だってこんな気持ちのいい一日を、そんなつまらないものに台無しにされなきゃいけないんだ。不貞腐れたまま、洗面台の前の男を見上げる。
五条はスーツの上着をベッドに放り出して、ネクタイを結ぶのに執心していた。瞳と同じ色の布地がくるりと巻かれて成形されていくのを鏡越しに見て、恵は隣に投げて寄越された黒の布の塊へと人差し指の先を向けた。
「これ、いくらするんですか」
「うーんとね、恵の今の給料で三ヶ月分くらい?」
それが相場として安いのか高いのかすら、恵にはわからない。何かあってもたいていは高専の制服を身につけていれば良かったから、まだスーツを誂える必要に迫られたこともない。
ふーん、と言って生地に触れた。肌触りは結構悪くない。けれども高そう、という身も蓋もない感想が浮かんだくらいで、物としての良し悪しもよくはわからなかった。
「着てみてもいいけど皺くちゃにしないでね。ここに持ってきてるのその一着だけだから」
一糸纏わぬ素肌のまま身を起こして、恵は打ち捨てられた上着に袖を通した。内布のひやりと冷たい感触に、ぞくりと興奮を覚える。当然袖も裾も自分には合わなくて、肩にも身頃にも不恰好な皺が寄った。
この縫製された布の価値は、今の自分の給料の三ヶ月分らしい。こんなもの破り捨ててやろうか、と恵はほくそ笑む。払えない額じゃない。あとで可愛く謝って、弁償でもすれば済む話だ。今この服が駄目になれば、この男はこの部屋からは出られない。それはとても愉快なことに思えた。
「はい、もう行かなきゃいけないから返してね」
あ、と思う余裕もなく、寄ってきた五条は恵からあっさりと上着を奪っていった。ぴたりと合うように作られた袖に長い腕が通されるのを、恵は剥き出しの手足をベッドに投げ出したまま眺めた。それから小さく指先を折り重ねて、鵺、と呼んだ。
「あ、こら、恵!」
呼び出された式神がふわりと宙を降下して、まだ片腕が通されただけの五条の上着を奪っていった。咄嗟に伸ばされた腕に、べろりと蝦蟇の舌が巻き付く。かろうじて自由な指先が小さく蒼を撃とうとするのが見えたから、今度は脱兎を出して煙に巻いた。全身毛だらけにされた五条が毛玉の山から顔を出したときには、スーツの上着は恵の手の中にあった。
「俺の式神がやんちゃしちゃったみたいなんで、後で叱っておきますね」
他人事のようにそう言って、恵は黒い布をくしゃくしゃに丸めて自分の背中の後ろに隠した。そのままそっと、影の淵に放り込む。何でもない振りをしようとしたけれど、口元が緩むのを止められない。いつになく高揚した気分に、ククッと喉奥が鳴った。
「僕の上着、どこやったの」
五条がベッドに乗り上げて、笑い続ける恵の背中の下をまさぐった。当然、もうそんなところには何もない。それでも諦めの悪い男は毛布の下をあさって、すべての枕をひっくり返した。
「どこって、もう俺の中ですよ」
くつくつと笑いながら、恵は焦る男を、綺麗に結ばれたネクタイごとぐいと引き寄せた。バランスを崩した身体が、咄嗟に恵の影に手をついた。
「返してほしけりゃ、暴いてみろよ」
挟んだ足の内側で、男の身体をなぞり上げる。
五条の泡を食ったような顔を見上げて、恵はうっとりと目を細めた。ようやく自分に意識を向けた男を、どう食らってやろうか。指先からとぷりと影に沈み落ちる手に、恵がそっと手を重ねた。