第33回目【呪い合う】

「恩人だとは思っています。アンタがいなければ、きっと俺は高専に入って、かけがえのない仲間を得ることはできなかった」
 恵は、不敵に微笑む男をまっすぐに見据えて、指先を組んだ。玉犬、とその名を口にして、ずるりと現れた大きな獣を傍らに置く。
「ありがとうございました、俺と津美紀を拾ってくれて。虎杖を助けてくれて。真希先輩を、乙骨先輩を。……みんなもう、死んじまったけど」
 獄門疆を抜けた五条悟は、平安級の呪霊を跋扈する世も顧みず、己を永久追放とした高専を早々に見限った。もともと上層部とは折り合いが悪かった彼が牙を剥くことは、想定のうちだったのだろう。五条悟を討て、と通達を出した高専内に周到に準備された対五条悟のための呪具・術式は、優に百を超えていた。
 恵は、その命令を受けたうちのひとりだった。御三家の名を背負わされた彼には、その命を跳ね除ける自由など持ち得なかった。
「まさか、恵が禪院に行くとは思わなかったなぁ」
「そんなことないでしょう。五条悟の後ろ盾を失った俺の末路なんて、アンタもわかっていたはずだ」
「津美紀も死んじゃったもんね。もう守るべきものもないか」
 五条悟が謳うように言った。歯を食いしばり一瞬だけ言葉を詰まらせた恵を見つめて、男は愉快そうに口元を釣り上げる。
「津美紀は、恵がとどめを刺したんだってね。乙骨は宿儺に殺されて、宿儺は悠仁と相討ち。秤はもう少しやるかと思っていたけど、駄目だったね。頑張って育てたつもりだったけど、みんな弱っちかったな」
 かつて教職についていた彼は、教え子たちの末路を、世間話でもするかのようにそう挙げていった。
 渋谷での動乱以降、多くの仲間が命を落とした。呪霊に殺された者もいれば、呪霊となり殺された者、それから仲間内で殺し合いをさせられた者も。五条悟というひとつの支柱を失った呪術界は、混迷の末に、一番忌避すべき道へと突き進んでしまった。その渦中の男が今、恵の目の前に立っている。
「で? 津美紀も悠仁も失って、尻軽な恵は寂しくなって僕のところに来たの? いいんだよ、禪院の次は、五条恵にしてあげても」
 軽薄な男がせせら笑う。五条悟の渋谷事変の罪状が濡衣であることは、口にせずとも誰もが知るところだった。けれどもその後の動乱の世を見限ってひとり行方を眩ませた五条悟を、禪院となった恵は赦さない。
 仲間も、世間も、見殺しにした。彼にだけは全てを助けられる力があったのに、五条悟は裏切った。津美紀も、虎杖も、先輩たちも。五条悟がいれば死なずに済んだ人たちが、大勢いたはずだったのに。
「呪術規定に基づき、アンタを祓います」
「祓われる理由が思いつかないな」
「呪術総監部の決定です」
 永久追放だった五条悟の宣告刑は、やがて死罪に転じた。渋谷での騒動とその後の呪霊合戦の被害の度合いと、それに対する五条悟の非協力的な振る舞いが、量刑を最上位まで押し上げた。禪院恵が味方につけば、五条悟の処刑も不可能ではないだろうとの上層部の本音を、恵は素直に受け入れた。
「甘いよ。傑たちがあれだけ策を巡らせても僕を封印することしかできなかったのに、勢いだけでここに乗り込んできた恵が、僕を殺せるわけないでしょ。まさか伝承を信じて馬鹿正直に布留部由良由良しにきたの? それとも禪院に身体を売って、秘策でも授けてもらった?」
 見え透いた挑発には乗らない。仲間と笑い、騒ぎ合った高専生としての青い日々は、とうに手の届かないところへと消えてしまった。五条が撒く導火線のような言葉に易々と乗ってやるには、恵が背負わされた荷物は重すぎた。
「俺には、呪術総監部直属、禪院家の当主としての義務がある」
 私情だと言って、かつて虎杖悠仁の助けを乞うた少年の面影はもうない。それを五条悟は少し寂しく思った。もし自分が封印されなければ、高専を見限らなければ。あり得るはずもない分岐の先を思っても、真っさらな未来があるだけだった。
 六眼を持って生まれた五条家の無下限呪術使いと、禪院家の十種影法術師。きっと互いに、こうなる廻り合わせにあったのだ。けれども家名という縛りを、一番遠ざけてやりたかったものを教え子に背負わせてしまった己の不甲斐なさを、五条悟は少しだけ歯がゆく思った。単独での渋谷平定も、永久追放となった呪術界を去ったことも、すべて五条が良かれと思ってやったことだ。その選択自体に後悔はない。結果として封印され、仲間を失い、教え子を奪われ、何もかもが裏目に出たとしても。都度、最善だと思う道を選んできたはずだった。
 恵、と名前を呼んだ。敵対する者同士ではなく、かつて教師だった者として。きっと、これが最後の会話になるだろうと思った。
「……もう一度だけ、助けてあげようか」
 もしも、恵に手を伸ばす意志があるのなら。五条悟はまだ最強だから、救われる覚悟さえあれば、この最悪の状況からだけは出してやれる。それも袋小路となってしまった運命のなかで、わずかに残されているかもしれない小さな出口に、穴を開けてやるような程度だけれど。
「必要ありません。俺は、俺がやるべきことを全うします」
 掛け違ってしまった日々は、もう元には戻らない。かつての師を討つ覚悟を、恵はとうの昔に定めていた。
「俺と呪い合ってください、五条先生」
「……そうだね。恵の成長、確かめてあげる」
 決戦の幕は、そうして切って落とされた。渋谷事変以後の教え子の目を見張るような躍進を、追放された五条悟は知るはずもない。それでも五条悟は教師として、己の生徒の成長限度は精緻なまでに把握している。
 どちらが倒れても不思議ではない。それほど伯仲する実力を持つ二人の戦いの結末を、見届ける仲間は誰もいない。