音読練習帳の話

 伏黒君はこういうの、たぶん好きだよ。意味深長に微笑んでみせた同級生から差し出された本は、シリーズ物の児童文学だった。『ダレンシャン』という題名に、ダレンシャンという作者の名前。図書委員である彼女は、これは化け物サーカスとバンパイアの話だと言った。それから先月恵が薦めた『シートン動物記』について、当たり障りのない感想を述べた。どうやら動物のノンフィクションは彼女のお気には召さなかったらしい。好みもだいぶ違うようだから、もう読書交換なんて止めたらいいのに、と恵は思う。
 読書交換会。今年から小学三年生の学級に導入されたその新制度自体は一学期で終わったけれど、ペアだったクラスメイトの少女との縁は細々ながらも続いてしまっていた。彼女の母親は小学校教師で、津美紀のクラスの現担任だった。それを彼女自身ももちろん担任である母親も知っていて、つまり、ここで下手に縁を切ってしまうのは伏黒家にとっては得策ではない。そんな打算的な理由で、読書という一番の趣味の時間を売り渡してしまっている自分を恨めしく思いながらも、恵は帰宅するなり、箔押しされた蜘蛛の表紙を渋々と開いた。
『ぼくは昔からずっと、クモが好きで好きでたまらなかった』
 そんな書き出しから始まった物語は、少し生意気で蜘蛛が大好きなだけの、どこにでもいる少年の話だった。ありふれた日々を送っていたはずのダレンは、親友スティーブとともに怪物サーカスへのチケットを手にしたことで、人生の歯車を狂わせていく。ダレンはサーカスで見た毒蜘蛛に惚れ込んで、ラーテン・クレプスリーという持ち主の男の元から盗み出してしまう。そのクレプスリーの正体がバンパイアであることを知ったダレンは、闇夜からの報復を恐れながらも、手に入れた毒蜘蛛と遊ぶ日々を送る。そんな日常の中、ふとした事故で、部屋にやってきたスティーブを毒蜘蛛が刺してしまう。ダレンは毒蜘蛛に刺された親友を助けるためにクレプスリーと取引をし、半人前のバンパイアとなって、クレプスリーの助手として仕えることを受け入れた。ダレンは自らの死を偽装し、息子の突然の死を嘆く両親の姿を背に、半人前のバンパイアとして生きるべくクレプスリーとともに故郷を後にする。
 この結末はダレンの自業自得だと恵は思った。バンパイアの物とはいえ他人の持ち物を盗んだのだから、バチが当たって当然だ。それに比べて、クレプスリーは良いやつだ。たとえ子供一人だって、養って連れ回して面倒を見るのがどれほど大変かということを、恵はよく知っている。それを手下にして育ててやろうというのだからよほどの物好きか、あるいはバンパイア業界も人手が足りないに違いなかった。きっとどこも呪術界と一緒なんだ、と恵は考える。前に自分の後見人である五条が、ぐちぐちと文句を言いながらも早朝から任務へと駆り出されていった姿を思い浮かべながら。
 恵はその五条がやってくるまでの暇つぶしに、借りてきたばかりの二巻へと手を伸ばした。こういう未熟な主人公が出てくる児童文学は好きじゃなかった。ただこの本を手渡してきた同級生は、興味がないなりに前に恵が薦めた本をシリーズまるごと読破したようだったから、これで恵が一巻で投げ出すのは不義理というのものだ。
 二巻では、ダレンはひたすら人間の血を飲むことへの抵抗感に悩んでいる。生きるためには人間の血を飲まなければならない。でもバンパイアとしての道を歩み始めたばかりの彼に、そんなおぞましいことができるはずがない。そうしているあいだにも、身体はどんどん衰弱していく。ダレンは人外の力を得てしまったために友達という友達もできず、喋る相手はクレプスリーしかいない。そんなある日、ダレンはクレプスリーに連れられて、すべての元凶である怪物サーカスに団員として戻ることになる。
 生きていくのに必要なら、さっさと血を飲めばいいのに。
 大前提として自分が悪さをしたせいなのだから、ダレンのこの環境は自業自得だ。身勝手で未熟な主人公に苛立ちを隠せないまま、恵は仕方なくページをめくっていく。
 恵は同世代よりも大人と話しているほうが気楽だったから、ダレンのように友達と遊びたいとは思わなかった。家にいるほうが好きだし、本を読んでいる時間が一番好きだ。でも五条との縁ができてから、今までずっと自分だけにしか見えていなかった「呪い」というものの話ができるようになった。この幼さ丸出しの主人公は腹立たしいけれど、確かに、そういう話ができる相手がいるというのは大事なのかもしれないと恵は思った。でも、元はといえば、ダレンは自分の行いのせいでこんな目に遭っているんだ。知らぬ間に、顔も知らない父親に売られ見知らぬ男に買い戻され、呪術師となる約束をした恵の境遇とは、似ても似つかない。
 この本を薦めた同級生の母親は津美紀のクラス担任だったから、もちろん津美紀と恵の家庭環境のことは知っている。きっと、だからあの同級生もこの本を恵に薦めたのだろうと思った。どこまで何を知っているのかはわからないが、余計なお世話だ。
「ごめんくださぁあい、五条さんでぇええっす!」
 ああ、うるさいやつが来てしまった。玄関の向こうから聞こえてきたトチ狂った声量に、恵はため息をついた。手元の物語では凶暴な狼男が檻から解き放たれて、佳境に入ろうとしていた。そこに栞を挟んで出迎えにいく。
 たぶんあの男は呼び鈴という存在を知らない。そうじゃなきゃ他人の家の前で、あんな馬鹿みたいな大声は出さない。
「五条さん、うち木造なんですけど」
「知ってるよ? だって僕が歩くたびにすげえ揺れるじゃん。お隣さんの咳とかもよく聞こえてくるし」
「知ってるならいいです。あと、そこに呼び鈴…」
「あとさあ、そこの呼び鈴のところにでっけえカナブンいた! 見る?」
 知ってるならいいです。もう一度同じ言葉を噛み締めて、恵は五条が指差すほうを見るために靴を履いて外に出た。別にカナブンに興味があったわけじゃない。見ないと拗ねるから見るだけだ。
「コガネムシじゃないですか、これ」
「そうなの?」
「うん、丸っこいから」
 やれやれとため息をついて、恵はその虫を摘んで玄関とは反対の、柵の向こうに放り投げた。そのままにしておくと帰ってきた津美紀がまた騒ぐからだ。それから履いたばかりの靴を脱いで居間に戻った。五条が来訪予定として告げていた時間から、すでに一時間が経っていた。
「ごめんね、電車が遅れて遅くなっちゃった。待たせたね」
「別に、本を読んでたから平気です」
「何読んでたの、また課題図書?」
 どかりと五条が畳に腰を下ろした。食卓に置かれたままの単行本を手に取って、パラパラとページを捲る。
「『ダレンシャン』っていう、バンパイアとサーカスの……」
「ああ、僕も昔一巻だけ読んだことがあるな。まだ流行ってたんだ。でも恵がファンタジーなんて珍しいね」
「クラスの子に薦められて、義理で読んでるだけです」
「へえ、女の子?」
「……まあ」
「ふーん、へえ〜」
 五条がにたにたと意地の悪い顔で笑った。
「なんですか」
「女の子と読書交換なんて青春じゃーん」
「そんなんじゃないです」
「またまた〜」
「違うって言ってる」
 それから五条はふと何かに気づいた顔をして、ポケットから携帯電話を取り出した。うげ、とひとこと呟くと、ポチポチと文字を打ち込みだす。メールの返信を書いているらしいその様子を眺めながら、黙ってさえいれば綺麗な顔立ちだなと、恵はたった今置いてきたばかりの世界を思い浮かべた。もし、この人が真夜中の劇場に佇んでいたら、きっとこの世のものだとは思わないだろう。五条が今この表情のまま、自分は実は吸血鬼なんだと告白したら、恵は疑うよりも先に信じてしまうような気さえした。そうしたら、自分はきっと吸血鬼の助手役だ。ともにサーカスの巡業で各地を旅して、舞台の袖から公演の成否を見守って。生きることも、戦うことも、全てこの人から教わるんだ。
「そうだ、あれやってみようよ。おいで」
 パチリと視線が合った。画面の中で用件をひとつ片付けたらしい五条は、恵の手を取って、指先を合わせた。
「ほら、師弟の契りみたいなの、あったじゃん」
 何か言葉を返す間もなく、五条の爪が恵のちいさな指の腹の、いちばん柔らかなところに食い込んだ。皮膚を破かない程度に押し当てて、肌には薄らと窪みが残る。五条は自分の指先にも十の爪痕をつけて、恵に刻んだ線と重ねるように指先を合わせた。
「左手から僕に呪力を流し込んでごらんよ。コントロールするんだ、この前教えたみたいに」
 合わさった指の先が、じんじんと疼いている。暗示にでも掛かったかのようにぼんやりとした心地のまま、恵は言われた通りに呪力を練った。腹の底から腕を伝って、作り出したものを五条の触れる指先へと流し込む。呪力の量の調整は、まだあまり効かない。一度だけ加減を掴み損ねて、呪力が強くあふれた。奔流に、五条は少し苦しそうに眉を寄せた。五条のそんな顔を見るのは初めてだった。
「恵、イメージして。大きな大きな湖から、なだらかな小川が流れていくの。晴れて暖かくて、とても気持ちのいい日だよ。想像して」
 目を閉じて、言われた通りの情景を思い浮かべた。揺れていた呪力の流れが安定する。落ち着くのを待ってから、今度は恵の右手に五条の呪力が流れ込んだ。
 呪力が左側から流れ出て、右側から流れ込む。まるで本当に互いを循環しているみたいだった。五条の呪力はどこまでも澄んでいた。もし温度があったのなら、それはきっと夏の木陰のようなものだろうと恵は思った。絶えず穏やかに流れて込んでくるそれは、この前の夏休みに津美紀と連れて行ってもらった山の清流をも思わせた。
 自分の呪力が流れ出て、代わりに五条の呪力が入り込む。指先から腕を伝って、木漏れ日が全身を撫でていく。いまに眠ってしまいそうな甘さに、うっとりと目を閉じた。
「ふふ、気持ちいい。恵の呪力は優しいね」
 しばらくそうしているうちに、五条の手はそっと離れていった。最後に流し込まれた呪力は少しだけ滞留し、名残惜しそうに指先から消えた。本当に、物語通りに血を交換したら、いったいどんな心地がするのだろう。倒錯した気持ちが、不埒な想像をかき立てる。
「ごじょう、さん」
「なあに、恵」
「さいご、舐めるんです。きず、血をとめるために」
「ふふ、貸して。一本だけね」
 両手で大事そうに包み込んだまま、五条はぱくりとひと差し指の先端を咥えた。爪を押し当てて作っただけの痕跡はとうに消えている。ざらついた舌が、柔らかな肉をねぶった。最後に五条は恵の指先を小さく噛んだ。そんな儀式は出てこなかった。恵が何かを言う前に、濡れた歯はそっと離れていった。
「これで僕たちも師弟だね」
 うん、と恵はふわつく頭のまま頷く。押し当てられた舌と歯の感触が、まだ指のはらに残っている。
「それから、バンパイアのたくさん住む山に行くんだっけ? 雪山に狼が出てくるよね?」
「……知らない。まだ二巻までしか読んでないから」
「あれ、そっか。じゃあ僕はもう何巻か先まで読んでるかも」
「それ以上ネタバレしたら、五条さんとは絶交です」
「あはは、ごめんごめん。でも僕も最後までは読んでないからさ、読み終わったら僕にも結末を教えてね」
 それから恵は五条に連れられて、隣町を巡回しに出かけた。開始が遅くなってしまったけれど、今日の任務はこの地区の安全確認らしかった。五条の指示のもとに、暗がりに生まれかけていた呪霊を祓って、二対の式神たちに食わせていく。
 その日の夜、恵は帰宅して国語の宿題の音読を片付けた。五条はすでに高専へと戻っていたから、津美紀が練習帳に印鑑を押した。題材は何でも良いとの指示だったから、手元にあった本から適当に選んだ。場面は、ダレンがクレプスリーと寝静まった市街地を練り歩くところだった。まるでさっきまでの自分たちみたいだ。ふと疼いた指先を、恵はそっと擦り合わせた。

 ダレンシャンシリーズは全部で十二巻あった。それから外伝が一巻と、別の外伝が四巻。本編だけ読めばいいと思って、外伝までは借りてこなかった。恵は何日分かの自由時間を使って、あっという間にその半分を読み終えた。少年だったダレンは、半人前のバンパイアのまま数々の試練を乗り越えた。いつしか彼はバンパイア一族をまとめ上げる、元帥の一人にまで上り詰めていた。
 そこからの物語は下り坂だ。たくさんの出会いと別れを経験して、ダレンはバンパイア一族と、彼らと敵対するバンパニーズという種族との争いに身を投じることになる。次第に明かされる運命と予言と、バンパニーズが祀り上げる大王という存在。初めのときのような、主人公の在り方を受け入れられなかったあの気持ちを、恵はとうに忘れてしまっていた。
 もう寝ようよ、と寝巻き姿の津美紀が言った。気づけば陽は沈んだ後だった。あまりに夢中になって印刷された文字を追っていたからか、ふと上げた視界がチカチカと揺らいだ。夕飯はいらないと言った記憶はあった。空腹はまったく感じない。壁に掛けられた時計の針はすでに十時を過ぎていた。
「私明日日直なの。やだなー、早起きするの」
 津美紀が動かない恵を押しのけるようにして布団を敷いた。定位置に四隅を綺麗に広げて、そこに潜り込んだ。不満げな顔で手を伸ばして、照明から垂れる紐を掴む。
「恵、まだ寝ないなら向こうで読んでよ」
「ん」
 本に目を落としたまま、恵は続きの入ったランドセルと掛け布団を持って廊下に出た。しんと冷えた床の上で毛布に包まって、白熱灯の真下で続きを追った。あと少し読んだら寝よう。次の章で終わりにするんだ。寒さも時間も忘れて、読み進める手は止まらない。
 第九巻も終盤に差し掛かり、場面は決戦だった。バンパニーズの大王と、ダレンやクレプスリーたち四人の大王ハンターとの戦いは、人々をも巻き込んで市街地戦へともつれ込む。バンパイアとバンパニーズ。同じように血を飲み、闇で暮らす一族だけれど、この争いの果てに生き残るのは一方だけだと予言は告げる。バンパニーズの大王を倒せるのはバンパイア一族のうち、四人の大王ハンターのみだ。その四人のバンパイアを倒せるのもまた、バンパニーズの大王のみ。最後の戦いの舞台には、たくさんの罠が仕込まれた、バンパニーズの根城が選ばれた。地の利も頭数の優位もバンパニーズ側にあったが、下された予言に囚われて、誰もハンターにとどめを刺すことはできない。
 決戦は乱闘の末に、バンパニーズ大王とクレプスリーの一騎打ちとなった。ステージから一歩足を踏み外せば、その下には燃え盛る炎と、無数の鉄鋼の杭が待ち受けている。幾多もの攻防を経て、ついに戦いは雌雄を決した。クレプスリーが大王を担いで、足元に広がる杭の穴へと投げ込んだのだ。バンパイア一族の勝利だった。その栄冠に酔いしれる間もなく、クレプスリーが別のバンパニーズによって、同じ奈落へと突き落とされた。彼を待ち受けるのは死の杭だ。間一髪で宙吊りになったクレプスリーに、王を失ったバンパニーズたちが告げる。多勢に無勢。お前がここで死ねば、仲間の命だけは助けてやると。
 うわ。恵は、思わずページを捲る手を止めた。心臓が、どくどくと大きな音を立てている。通り過ぎてしまった段落にもう一度目を通して、それからその内容を咀嚼しながらゆっくりとページを捲った。巻末はすぐそこまで来ていた。恵はその巻を読み切ったところで、そっと本を閉じた。いつのまにか廊下以外の電気は落ちていて、津美紀もすっかり寝静まっている。
『死してなお、勝利の栄冠にかがやかんことを!』
 そう叫んで、クレプスリーの身体は杭の山へと落ちていった。杭に貫かれて、炎に焼かれた身体は断末魔を上げた。クレプスリーが死んだ。ずっとダレンとともに過ごした師であり、父親のような存在だったクレプスリーが、ダレンの幸福な未来を願って死んでしまった。
 どうしたって、もう取り返しのつかないことだ。悲しいとも、悔しいとも違う感情が、胸の中をかき乱した。呆然とした気持ちのまま、恵は寝室に戻った。布団は津美紀が敷いておいてくれたようだった。とうに就寝準備を済ませた津美紀は、すうすうと寝息を立てている。
 クレプスリーが死んだ。布団に潜り込んだあとも、恵の目は冴えたままだった。ずっと自分を導いてくれた師匠を亡くすということを、恵は想像したことがなかった。思い浮かべるのはもちろん、五条のことだ。どこかで恵は、いつかあの人よりも、先に自分が死ぬだろうと思っていた。だって短命な呪術師たちの世界の中で、五条だけが誰よりも死から遠いところにいる。きっと世界の全人口が滅んでも、五条悟だけは傷ひとつなく生き続ける。
 だから、あの人は死なない。死ぬはずがない。眠れない頭の中で、五条がごめんねと笑って消えていく。もし五条が、あんなふうに自らの命を手放したら? そんなのは嫌だ。どんな状況に追い込まれても、簡単に諦めるわけないでしょと自信たっぷりに言い放って、ヒーローみたいに全部を救ってくれなきゃ嫌だ。恵の胸の中では、今しがた接したばかりの物語の一場面が、まだ鮮明に焼き付いている。自分のせいで五条が死ぬなんて、きっと耐えられない。それよりは自分が死んででも、あの人の役に立つほうがずっといい。

「このあいだの、読み終わったんだ」
 あれから何週間が経って、やってきた五条がそう言った。恵が手にしていた本が別の文庫に変わったことにすぐに気づいたらしかった。
「僕も懐かしくなって、あのあとつい全巻買って読み返したんだけどさ、あの師匠のバンパイア、途中で死んじゃうんだね」
「でもダレンも最後には死んだから、そんなに驚くことじゃないでしょ」
「僕はあの終わり方、あんまり好きじゃなかったな。最後には救われて天国に行けますだなんて、出来すぎてるじゃん。やっぱりバンパイアになるより、呪術師になるほうが全然いいよ。家族にお別れしなくていいし、陽の下も歩けるし」
 五条はがさごそと漁って、鞄から十二冊の本を取り出した。図書館で恵が借りたのよりもふた回りほど小さい文庫版だった。
「買っちゃったけど、僕いらないからあげる」
「俺も好きじゃないからいらない。呪術高専に置いておけば」
「さすがに児童文学はなあ」
 ケラケラと笑った五条が、適当に一冊を抜き出して開いた。第九巻、『夜明けの覇者』。単行本と同じその表紙を目にして、恵はずっと眠れないまま考え続けたあの夜の、あの表紙の手触りを思い出した。
「ねえ少し読み上げてみてよ。クレプスリーが死ぬところ、音読聞いてあげる」
「いやだ」
「なんで?」
「好きじゃないから」
「……悲しかった?」
「うん」
 頷いた恵に、五条は瞠目する。
「ああいうふうに一度助かったって希望を持たせて、その後にそんな結末にはならなかったってするの、嫌い」
「そっか」
「……いつかアンタが、あんなふうに死んだら嫌だって思った」
 僕は死なないよという答えを、恵は五条の口から聞きたかった。けれども五条はそうは言わなかった。誰よりも現実主義者である五条が、そんなことを口にするはずがなかった。
「恵は、僕が死ぬのが怖い?」
 こわい。恵は素直に頷いた。でも、五条悟は最強だから死なない。歳も取らないし、どこにも行かない。縋るような気持ちでそう伝えた恵に、五条はゆっくりと首を振る。
「人は誰しも死ぬよ、恵」
「でも、俺より先には死なない」
「そんなのはわかんないよ。僕だって人間だもん。いっぱい血を流し過ぎたら死ぬし、頭や心臓を潰されても死ぬ。寿命だって、僕のほうが先に来るでしょ」
 そんなのは嫌だ。恵が咎めるように五条を睨んだ。意地悪を言っているだけだ。だって五条がいっぱい血を流し過ぎることはないし、頭も心臓も潰されない。仮にそんなことが起こったとしても、この身体はすぐに元に戻ることを、少し前に見せてもらったばかりだ。
「死なない。俺は使えないけど、五条さんは反転術式を使えるんだから、死なない」
「反転術式を持ったところで、人よりちょっと死にづらくなるだけだ。不死身なわけじゃない」
「でも五条さんが死ぬときは、きっと人類もみんな死んでる。ほかの人が生きてるわけがない」
「恵の中の僕は、さすがにちょっと強すぎるね」
 五条がくつくつと笑う。
「僕だっていつかは死ぬよ。寿命で、かもしれないし、寿命がくる前に、僕の命と引き換えに、もしできることがあるのなら、あっさりと売り渡すこともあるかもしれない。でも師がまず先に死ぬべきだ。間違っても、弟子を先立たせちゃいけない」
 恵の考えを見透かすように、五条は釘を刺した。いっそのこと、五条の役に立って死にたい。そんな献身を、五条は求めてはいなかった。
「五条さんを、そんなふうに死なせるのはいやです」
 うん、と柔らかな相槌が返ってくる。あの本を読んだときは泣かなかったけれど、今顔を見てしまったら、きっと泣くだろうと思った。だから恵は震える息を何度か吸って、手元の文庫本に目を落とした。全く関係のないその表紙にも、箔押しの小さな蜘蛛が描いてあった。それを指先で何度もなぞった。そうしていないと、どうにかなってしまいそうだった。
「俺は、五条さんをそんなふうにしないために、俺が強くなるしかないって思った。でもどんなに強くなっても、五条さんが自分で決めたことを俺がひっくり返すことはできない」
「そうだね、僕は自分が最善だと思う選択をするときに、恵の確認なんて取らない」
「だから嫌だ」
 どんなに頑張ったところで、手が届かなければ自分には何も出来ない。それが人生というものだ、と大人なら言うかもしれない。でもそんな言葉だけで、簡単には片付けられたくなかった。
「じゃあ僕に誓わせてみる? 縛りでさ、何があっても死なないでほしいって」
「無理だろ、意味ないんだから。成立しない」
「まあね」
 昂ったままの気持ちは、それで少し落ち着いた。何があっても死なないなんて、そんな縛りを結ぶことは不可能だ。成立し得ないことを、縛りにはできない。意味がないと口にしたことで、恵は冷静さを取り戻した。五条でさえも結べない縛りがある。当然だ、と恵は思った。五条ですら叶えられないことはたくさんある。五条悟が死なないなんて、そんなことがあるはずない。
 顔を上げると、五条は真っ直ぐに恵を見ていた。死なないでと、自分が幼児のような我儘を言っているあいだにも、この人はずっとこうして見ていたんだ。そう気づいた途端に、恵は居た堪れない気持ちになった。
「すみません、変なことを言いました」
「いいよ、恵が言いたかったことはわかるから」
 五条は全然気にしていないというふうに言った。
「僕だって嫌だよ。恵が、僕の手の及ばないところで死んじゃうの。でも僕は大人になるしかなかったから、逃げ方を知っちゃったんだ」
「逃げ方?」
「嫌なことは考えないようにして、自分の中で折り合いをつけてるってこと。だから、それにちゃんと向き合って足掻こうとした恵は、偉いよ」
 それからおどけたように笑って、五条は一枚の用紙を取り出した。半分ほど埋まった、今学期の音読練習帳だった。
「今週の分どうしようか。何か別のを読む?」
「……いいです。もう時間もないし、音読できなかったから。バツつけてください」
「あらまあストイック」
 五条は少し考えた末に、恵が言った通りの評価をつける代わりに、今日の欄には一重の丸を描いた。『たくさん考えたことを自分の言葉で話してくれました。』感想欄にそう書き込んで、伏黒家に置きっぱなしにしている印鑑を持ってきて押した。普段は何重もの花丸ばかりが並ぶ表の中で、簡素なそれは一際目立った。
 学期が終わるまでの何週間ものあいだ、恵はその紙を取り出すたびに、五条との会話を思い出した。何かを得たという感触も、学びがあったという手応えもなかった。今はそれでいいんだよと言った五条の声が、ぼんやりとまだ残っている。