津美紀とパフェを食べにいく話 - 2/2

 いつかこの日常に終わりが来ることを、いったい誰が予想しただろう。

 剥き出しの神経を逆撫でにするような不協和音が、そこかしこの端末から響いている。
 暗闇で何度も点滅を繰り返すスマホは緊急の事態を告げるだけで、何が起こっているのかも、どこへ逃げればいいのかも教えてくれない。
 急に電気が消えて、水も出なくなった。
 それから少しして、遠くからつんざくような悲鳴が聞こえた。
 地震ではない。火事でもない。こんな陸地に津波は来ない。とうとう富士山が噴火した? それとも火星人が攻めてきた?
 検索しようにも電話もネット回線も混雑して、どこにも繋がらない。テレビもつかない。ラジオなんて持っていない。防災無線からは、絶えず不気味なノイズだけが流れている。
 家の外に出ても、誰もが灯りの失われた街を右往左往するばかりだ。遥か遠くのほうで、南西の方角が燃えていた。あのあたりは県庁舎のあるほうだ。だいぶ離れているから、もしかしたら燃えているのは東京かもしれない。原初の恐怖を駆り立てるそのおどろおどろしい炎の色に、人々は自然と目を奪われて足を止める。
 都内で大規模なテロがあった。何もないところで急に人の首が飛んだ。一緒にいたはずの家族があとかたもなく消え去った。すれ違う人々のあいだを縫って、おかしな噂が駆け巡った。なすべきこともわからず右往左往する人の波をかき分けて、私は地域の指定避難所を目指した。暗い家に一人でいるよりも、今は誰かと一緒にいたかった。
「あれ、ねえ、もしかして藤沼?」
「……先輩、先輩!」
 ふと目の前を横切った、見知った姿を呼び止めた。藤沼、と呼ばれた女の子が振り返った。中学バスケ部のときの、ひとつ下の後輩だった。記憶にあるショートカットより少し伸びていたけれど、面影は変わらない。私たちの三送会で誰よりも泣いていた藤沼が、また泣き出しそうに顔を歪めた。
「先輩、よかったです、私、どうしていいかわからなくて」
「私も、何が何だかさっぱり。避難所に行くけど、一緒に来る? 明かりと水くらいはあるだろうし、そこなら何かわかるかもしれない」
 ここら一帯の指定避難所は、奇しくも私たちの通った中学校だった。街頭も消えて、民家の明かりもない。慣れ親しんだはずの通学路は真っ暗で、一度でも振り向いたらもう戻れなくなるんじゃないかという不気味さが、暗闇の至るところに潜んでいる。一人じゃなくて良かった。きっと藤沼も同じことを思ったに違いなかった。
「そういえば、藤沼の両親はまだ家? 呼んでこなくて平気?」
「二人ともいま転勤で海外にいて、弟も今日は友達と出かけていていないんです。先輩のご家族は?」
「うちは今日に限って結婚記念日で、品川のホテルに泊まってる。あと姉貴はまだ大阪で学生。ねえ、さっきの火の手、東京のほうだったよね」
「火事、とかですかね」
「それにしちゃ炎が強すぎるよ。明暦の大火かっての」
 端末を取り出して確認する。やっぱりどこにも繋がらないどころか、いよいよ圏外になってしまった。こういう非常時って、基地局がダメでも緊急の回線とかに切り替わらないんだっけ。
「藤沼のスマホ、電波ある?」
「はい。でもずっとどこにも繋がらないんです」
「やっぱりか。私のも駄目なんだ。中身のない警報が届くだけ」
 私たちが生まれる少し前、一九九五年の阪神淡路大震災では、一番被害の大きかった地域の様子はしばらく誰にもわからなかったと、先週の現社の授業で習ったばかりだ。なるほどな、と思いながら、学校までのきつい坂道を登っていく。周縁にいる私たちですら、情報を発信する手立てが何もない。炎に包まれた東京都心なんてなおさらだろう。詳細はわからない。わかるのはどこかで、何かの異常事態が起きていることだけだ。
「どこ? 渋谷?」
「仮装、なんだっけ、ほら、ハロウィンの」
 途中漏れ聞こえてきた声に、藤沼と二人で耳を澄ませる。
「スクランブル交差点がやばいって」
「去年のクリスマスにも事件あったよね」
「日本どうなってんの」
「原宿でも化け物のコスプレが暴れてる」
「同時多発テロ」
 何が本当なのかもわからない。こんな不気味なハロウィンの夜に、冗談みたいな首都圏全域規模の大停電。伝わってくる噂から、渋谷で何かがあったらしい、ということだけが何となくわかった。誰もが情報を欲していた。
「本当は、中学の女バス同期で渋ハロに行こうって誘われてたんです」
 隣を歩く藤沼は、浮かない声でそう言った。
「私は昨日のうちに高校の友達と一緒に行く予定だったから、中学のほうは断ったんです。でもみんなは今日、たぶん……」
 避難所に着いても、目新しい情報は何も入ってこなかった。未曾有の異常事態に神経が昂って、とても眠れそうになかった。藤沼も隣でぼんやりと床に座り込んでいた。支給されたアルミシートだけでは薄くってお尻が痛い。家から何かクッションや毛布を持ってくればよかったなと思った。
「人、あんまり増えないね」
「みんな家に留まっているんですかね」
「まあ、地震とか津波とかじゃないからね。元から備えのある人なら、家にいたほうが快適か」
 避難所に着いてすぐに卒業生だということを告げて少しだけ手伝いをしたけれど、やれることはそう多くはなかった。顔見知りの先生に挨拶をするような雰囲気でもなくて、私と藤沼は体育館で膝を寄せ合った。結局自然にぽつりぽつりと口をつくのはお互いの学年の近況や、部活の話題ばかりだった。
「そういえばみんなで今年の夏合宿に顔出してくれたって、顧問から聞いたよ。ごめんね、うちの代のやつ誰も行けなくて」
「いえ、先輩方もお忙しいでしょうし、私たちもたぶん来年再来年は行けないですから」
「嫌になっちゃうよね。まだ高二なのに、みんなもう塾とか模試とかで忙しいんだって。私くらいだよ、未だに部活漬けでひいひい言ってるの」
「先輩は、やっぱり推薦一本で行くんですか」
「まあね、それがダメだったら就職かな。……津美紀はどこ受けるんだろうな。スポ科あるところだといいんだけど」
「大学、津美紀先輩と同じところに行くんですか?」
「うん」
 最後に津美紀という響きを口にしたのはもう何年も前のような気がして、心の中で何度かその名前を転がしてみる。津美紀ちゃん、津美紀、ツミキチ。私は本当にそんな呼び方をしていたんだっけ。そう思ってしまうほどに、その響きを音にするのは久しぶりだった。
「津美紀と、中学を卒業するときにね、大学でまだ一緒にバスケしようって約束したんだ」
「お元気ですかね、津美紀先輩」
「それが誰にもわからないんだ。少し前から、誰も連絡が取れなくなっちゃった」
 藤沼は特段驚いたそぶりは見せなかった。やっぱりそうですか。静かな声が言った。
「このあいだ偶然近くで伏黒君に会って、久しぶりに津美紀先輩にもご連絡してみようと思ったんですけど、未だにお返事がなくて」
「恵君こっちに戻ってきてたんだ。まだ県外で寮生活してると思ってた」
「私も詳しくは知らないんですけど、知り合いの大学生のレポートの手伝いのために浦見東中に来たって。それも内容が『幽霊が家電に与える影響』とか何とか」
「不良ごっこの次はオカルトにでもハマったんかね」
「どうなんでしょうね。友達も一緒に来ていて、楽しそうでしたけど」
「あの恵君に友達ね……想像もつかないな。手の指ちゃんと十本全部ある人だった?」
「先輩」
「冗談冗談」
 あの歩く暴風域みたいな少年が、今度はオカルトマニアとして元気にわけのわからん日々を送っていると思うと、少しは気も紛れた。人を呪い殺すよりも、まず殴りかかるタイプだろうに。
「そういえば八十八橋の肝試しの話も聞かれましたよ。懐かしかったです」
「あの女バスみんなで行ったやつ?」
「それです」
「うわ懐かしいね。実はあのときさ、バスケ部の主将を引き受けたのをめちゃくちゃ後悔してて、こんな中途半端な気持ちのまま肝試しして本当に呪われたらどうしようって、内心ビビってたんだ」
 情けない過去の話を、それも後輩相手にするのはやっぱり少し気恥ずかしかった。
「先輩も、後悔したんですか」
「うん。きっと藤沼もでしょ。でもお疲れ様。すごかったね、関東ベストエイト入り」
 藤沼が率いた昨年の女バスは数々の予選を勝ち抜いて、私と津美紀が目標とした関東大会出場の、さらにその先を行った。そんな輝かしい戦績をおさめたというのに、元主将の表情は明るくない。
「私、副将と喧嘩しちゃって、それであの子、引退直前で辞めちゃったんです。傍から見たら私が追い出したみたいな形で。それがなかったらたぶん、関東大会ももっと先まで進めていたと思うんです」
 副将に就いたあの後輩を思い浮かべて、それから今語られたばかりの藤沼の記憶に自分の主将時代を重ねた。そんなことがあったなんて知らなかった。当時の藤沼の心境は察するに余りある。
「先輩と津美紀先輩はすごいですよね。いつも二人で息が合っていて、喧嘩だってしたことないし」
「そんなことないよ。練習方針とか、結構揉めたもん。みんなには見せなかっただけ」
「でも、お二人がいつも一緒に笑っていたから、私たち後輩も頑張れたんです。それなのに私は、あんな終わり方をさせちゃった」
 きっと後悔のない人生なんてないんだろうと思った。私も、津美紀も、藤沼も。
「私はね、あのとき津美紀が代わりに主将をやっていたら、県で敗退せずに関東までいけたんじゃないかなって、今でも思うよ」
「そんな」
「本当だよ、未だに夢に見るくらい」
 どこかおっとりしつつも芯の強い津美紀と、がむしゃらに引っ張ることだけが得意だった私。いつでも冷静にチームを取りまとめていた彼女が、もしあの一年間の舵を取ってくれていたらと、何度夢見たことか。
 本当は主将の打診だって、先に津美紀の元に行っていたんだ。でも津美紀は家のことがあるから主将はやれないと、顧問が直々に持ちかけた話を断った。それで結局私が主将になって、津美紀に副将が回った。その選択の結果が、あの日の涙だ。津美紀だったらもっと上手くやって、ずっと先まで行けたかもしれない。
 パシ、と体育館の明かりが落ちた。真っ暗な空間の端々から、悲鳴を飲み込む音がいくつも聞こえた。明かりはすぐに復旧した。たったそれだけのことで、ほっと胸を撫で下ろす。
「生活、元に戻りますかね」
「戻ってくれなきゃ困るな。私、高校を卒業したら一緒に卒業旅行に行こうねって、津美紀と約束したんだ」
 藤沼は一瞬だけ、あれ、という顔をした。音信不通なのに、と思ったのだろう。でも津美紀はそんなふうに何のきっかけもなく連絡を断つような、薄情なやつじゃないんだ。それだけは、三年間ずっと隣に居続けた私が、誰よりも知っている。
 高校を卒業したら一緒に京都へ卒業旅行に行って、また同じサークルに入ってバスケをする。あのときは大学で、と言ってしまったけれど、別に社会人サークルだってあるし、OGを集めてチームを作ってもいい。いっそのことただ友達として、あの日々のように会えるだけでも。またファミレスで何時間も喋って、商店街を冷やかして買い物をして、それから成人式には一緒に写真を撮りたい。担任には夢が叶っても叶わなくても、二人で一緒に挨拶に行けばいい。あのときの約束を、津美紀が忘れるはずがない。今はただ、何か事情があって連絡ができないだけだ。
 よし、と気合を入れて立ち上がった。硬い床で強張った足腰を解して、大きくひとつ伸びをする。換気窓から見える空はまだ真っ暗だ。けれどもじきに夜は明けて、明るくなれば、きっと状況も好転するだろう。座ったまま過去ばかりを見てはいられない。
「津美紀は、きっと今もどこかで頑張ってるよ」
 そう言い聞かせると不思議と力が湧いてきた。
 私だって頑張らなくちゃ。いつかまた会える日のために。